81 きみとワルツを
北の大陸から帰還してから、ユラはずっと古の神話に付いて調べ直していた。
女神の娘だというマジュルナの存在は脅威だ。
肌が粟立つほどの魔力量、相手の心を魅了し支配する魔法。
流音や魔法の影響下にあるシークは抵抗できるようだが、一般人はそうではない。古の魔物たちを従えるほど強力なのだ。もしも本気であの魅了の魔法を使われたらひとたまりもないだろう。
かつてこの世界にいたという女神について調べれば、神子マジュルナの弱点が分かるかもしれない。
何より、ウロトから聞いた話が気になった。
流音が薫に連れ出され、ウロトと二人で話したときのことだ。
『古の魔物たちは安息の地を求めて、この世界に渡ってきた。生まれた世界を追い出され、呪われた闇を背負う彼らは、女神の守る神々しき世界に恋い焦がれたんだ』
しかし魔物の登場はこの世界に波乱をもたらし、女神たちは天界へ逃げてしまった。この世界は見捨てられたのだ。
『それどころか、女神様はこの世界を覆う檻の結界を張った。魔物を閉じ込めるために、かつて自分たちが残した秘術を異世界に流出させないために。おかげで魔力のある者はこの世界からは出られない。……以来この世界は、時空のゴミ箱なんだよ』
他の世界では、魔力の強い厄介者をこの世界に送るという風習があるらしい。マジュルナもこの世界に捨てられたようなものだ。
どうしてそのようなことを知っているのかと問うと、ウロトは「僕は時空学の専門家さ」と答えた。
『女神の造った時空の檻は良くできている。が、長い月日によって綻びが生じているのも確かだ。この世界の大半を犠牲にし、魔力に還元すれば破ることもできるだろう。きみは興味ないかい? この紫の空の向こう、時と空間を超えた先にどんな世界が広がっているのか。そう、僕はこの世界から旅立ちたいのさ。魔力を持ったまま、ね』
少しだけ心が揺れた。
時空の檻がなくなれば、魔力機関の有無にかかわらず時空を移動できる。
そうすれば、流音と別れてそれっきりということもない。
――でもダメです。古の魔物を解き放てば、流音のいた世界にも悪影響になります。
何よりもこの世界が滅びてしまうだろう。
時空の檻を壊すためにたくさんの人々の命が奪われ、檻が壊れた後も救われる保証はない。
やはり〈魔性の喚き〉と戦い、マジュルナの野望はくじかねばならない。
この世界の成り立ち、魔力濃度が低下すればどうなるのか、マジュルナや闇の魔物を討つ方法、考えることは山ほどあった。
完全な闇巣食いになる一歩手前の状態になってしまった焦りもある。もうユラには未来に夢を見る時間もなく、魔術を満足に使うこともできない。
思考だけがユラに残された戦う手段だった。
流音には会えない。
闇巣食いをうつしたくない。彼女を元の世界へ安全に帰すためにも、今は研究に集中しなければならなかった。そう言い聞かせ、毎日届く差し入れの数々に心を痛めながら、術式の構築に没頭していった。
「違う。同情なんかじゃ、ない。わたしがユラのそばにいたいだけなの」
扉越しに震えた声が聞こえたとき、ユラは初めて疑問を持った。
――ルノンは、どうしてそこまで俺のことを……。
勝手に異世界に召喚し、不自由な生活をさせたことを恨んでもいいはずなのに。
普通に接してくれるのは、流音がありえないほど優しくて良い子だからだと思っていた。
しかし本当にそれだけだろうか。
他に理由があるのだとしたら、知りたい。
気づけばユラは扉の鍵を開けていた。
扉を開けて一目彼女を見た途端、そのような疑問は吹き飛んでいた。
薄闇の中、月光に照らされて輝く艶やかな黒髪と、星が散らばる夜空のような瞳。
自分を見上げる少女は、少し見ない間に随分と変わった。
髪をまとめて結い上げ、黒いドレスを纏っているせいもあるかもしれない。
――いえ、違いますね。もう一年が経ちました……。
流音がこの世界に来て、瞬く間に月日は流れた。
一年前に洞窟の中で彼女を召喚した時は、まだ幼くあどけない子どもだった。ずっと子どものままだと思っていた。
背が伸び、纏う雰囲気も変わった。大人びた表情をするようになった。
「やっと会えた。良かった。包帯とれたんだね」
涙をこらえて微笑む姿にユラは息を飲んだ。
逃げ出したくなるくらい胸が騒いで落ち着かない。
どうしたって雪山で見た残酷な夢を思い出してしまう。
自分が出会うことのない十六歳の流音。あれは脳が勝手に作り出した想像ではなく、本当に未来の流音の姿なのだと納得した。
彼女は日ごと美しく成長していくだろう。
ユラは扉を開けたことを後悔した。
一日だって目を離したくないと思ってしまったから。
「どうしたの? ユラ?」
「何でもないです……」
他に言葉もなく立ち尽くしていると、奥から救いの声が聞こえた。
「あっ、ルゥだ! ルゥが来てくれた!」
「ヴィーたん!」
躊躇いなく流音の腕の中に飛び込むヴィヴィタ。
その途端、彼女はいつものように子どもっぽい笑顔を見せた。何となくほっとして、ユラは彼女を部屋の奥に案内した。
元は兵士の詰所だった部屋には、広い割に机と仮眠用のベッドしかない。流音は壁際の椅子に腰かけ、膝の上のヴィヴィタを撫でながら、所在なさげに机の上の術式を眺めている。
「舞踏会はそんなに楽しくなかったんですか」
「う、うん……」
しばしの沈黙の後、流音は伺うようにユラを見上げた。
「押しかけてきて怒ってる?」
「怒ってないです」
「本当? なんか、いつもより怖い顔してる……声も冷たい」
不安げな表情にユラの心は大きく揺れた。
「わたしがそばにいるの、よくない? 闇巣食いって嫌な気持ちになると進行するんでしょ?」
自分が流音を苦しめている。そう思うとたまらない。
ユラは早々に白状することにした。
「違うんです、ルノン……。俺はきみに合わせる顔がなくて、どうすればいいのか分からないんです」
首を傾げる流音から目を逸らし、ユラは石造りの床を見つめた。
「俺はもう、ほとんど魔術を使えない。きみを守ることも、元の世界に帰すこともできない。そばにいることも、もう……たくさん約束をしたのに何一つ守れない。俺は嘘つきです」
「ユラ……」
ユラは唐突に自分の本心に気づいた。流音にがっかりされたくなかった。北の大陸ではシークまでも守護者になり、ヴィヴィタにも窮地を救われた。
自分だけが取り残され、流音の足手まといになっている。
「すみません。何もできなくて……」
「ユラは悪くないよ。謝らないで」
「ですが、俺は」
流音は首を横に振った。そして何か言いたいことがあるのか、何度も口を開いては閉じる。言いたいのに言えない、そんなもどかしさを感じた。
気まずい沈黙の中、ヴィヴィタがピクリと首を持ち上げた。
「なんか聞こえる!」
ヴィヴィタが器用に窓を開け放った。城の方からかすかに音楽が聞こえてきた。舞踏会が本格的に始まったようだ。
「ユラは……誰かと踊ったことある?」
「ありますよ」
「え!?」
驚いて立ち上がる流音に、ユラは淡々と答えた。
「ダンスが学院の必修科目にあったんです。でも、俺のパートナーになってくれる人はいなくて、いつも教師と踊っていましたね」
「そ、そう……なんかごめん。悲しいことを思い出させちゃって」
「悲しい?」
そのことについては特に何の感想もない。
ただ流音がドレスの裾を握り、そわそわとしているのが気になった。様子がおかしい。
「えっと、あのね、ユラ……わたし……」
桃色に染まった頬と熱っぽい瞳。
先ほどの胸騒ぎを思い出し、ユラは顔をしかめる。
――もしかして、ルノンは……。
あり得ない。そんなことはあってはならない。
だけどもしかしたら、という想いに駆られ、ユラは躊躇いながら手を差し伸べた。
「俺と踊ってみますか、ルノン」
「え」
その瞬間、流音の顔が一気に真っ赤になった。
彼女は大層驚いたようだが、ユラの方が内心の驚きは大きかったに違いない。心臓が破れそうなほど脈打って、頭が沸騰しそうになった。
「あ……いえ、やっぱりやめますか」
「ううん。踊る!」
手が重なった瞬間、流音がはにかんだ。溶けてしまいそうなほど幸せそうな表情だった。
――これは、もしかしなくても……。
分からない。確信が持てない。
ユラはその手のことに非常に疎かった。専門外の分野には手も足も出ない。
とはいえダンスに誘った以上、手足は動かさねばならなかった。緊張と恥ずかしさでぎこちないまま、ゆったりとした三拍子のリズムに合わせ、二人はステップを踏み出した。
「わっ」
すぐに流音はバランスを崩した。慌てて支え、立て直す。身長差がある分、上手くリードする必要があった。ユラはダンスに集中した。
だんだんユラと流音の息も合い、スムーズに足が運べるようになってきた。
「二人とも上手!」
窓辺でヴィヴィタが音楽に合わせ、翼と尻尾を揺らしている。
その様子が愛らしくて二人の間にも自然と笑みが漏れた。
「なんか、楽しいね」
「……そうですね」
目が合うと照れくさくなって顔を背けてしまう。だけどやっぱりどんな表情をしているのか知りたくて視線を向け、また……その繰り返しだった。
――もしもルノンが俺のことを……。
もしもの話はあまり好きではない。
だけど考えずにはいられなかった。
五つ下の十二歳の少女で、いずれ元の世界に帰ることが決まっている相手だ。そして自分は窮地に立たされた闇巣食いで、家族も友人もいない。なんの後ろ盾もない。
彼女の想いに応えることは、ユラには考えられなかった。正直困る。
――でも、泣かせたくないです……。
何より離れがたい。
この気持ちがどんな感情なのか、ユラには判断できなかった。
いつもなら何も考えずに相手に問いかけることができるのに、今夜に限ってユラは固く口を閉ざした。
――俺のことが好きですか、なんて口が裂けても言えませんね。
肯定も否定も聞きたくない。
ユラは彼女の小さな手をぎゅっと握りしめた。




