76 白銀の世界で
あの古寺の裏手の山と似てるだろ、と薫は言った。
奇抜なデザインの建物から一歩足を踏み出し、流音は辺りを見渡した。こころなしか体が軽くなった気がした。
テロ組織〈魔性の喚き〉の本拠地は山の中腹にあった。動物の声も風の音も聞こえない、寂しい雰囲気の山だ。
はっきり言って「全然似ていない」と流音は思った。薫と出会ったときは夏の盛りで、今は冬の終わりだ。色合いがまるで異なる。
北の大陸というイメージを裏切らず、雪が足首の辺りまで積もっていた。白一色の世界にマジュルナのことを思い出し、流音はため息を吐いた。
日本の冬ほど乾燥はしていないが、冷たい外気が頬に突き刺さる。周りには他の建物は一切なく、当てもなく逃げだせば遭難してしまいそうだった。
しばらく雪をぎしぎしと踏み分けて歩くと、前にいた薫がにこやかに振り返った。
「雪だるまでも作るか? 流音は作ったことないだろ。体弱かったから」
確かに作ったことはない。元の世界での雪の日は家の中で過ごすのが常だったし、チェシャナを訪ねてセミレイ山に滞在したときも作らなかった。ただ、ヴィヴィタと雪に足跡をつける遊びはたくさんした。あの寂しがり屋で泣き虫なドラゴンは今頃どうしているだろう、と流音は鼻をすすった。
流音の返事を待たず、薫は雪玉を作って転がし始めた。小さくなったデューアンサラトが翼を広げ、薫の肩の上でバランスを取っている。その様子を見ると、ますますヴィヴィタが恋しくなってしまった。
手持無沙汰になった流音は蹲り、仕方なしに小さな雪玉を素手で作った。
「薫くんは楽しそうだね……」
「そうだな。人の不幸を喜べるくらい俺は性格が悪い」
「自覚があるんだ」
「性格が良かったら世界の破滅なんて願わないだろ。どうしてこうなったんだろうな」
「わたしも知りたい。薫くん、昔からいじわるだったけどここまでじゃなかったもん。……教えて。何があったの?」
薫は自嘲気味に笑い、視線を逸らした。
「知ってどうするんだ。流音は性善説を信じてるとか?」
「えっと……難しいことは分かんないけど、知らなきゃいけない気がする。この世界で昔の薫くんを知っているのは、きっとわたしだけだもん」
流音自身も戸惑っていた。薫にどれだけひどいことをされても、まだ心の底では彼を庇いたいと思っている。何か理由があるのだと信じたい。これは今まで〈魔性の喚き〉の犠牲になった人々や、仲間に対する裏切りの感情だと分かっているけれど、同じ世界で同じ時間を共有した友達を簡単に見限ることも嫌だった。
「……俺がこんな風になったのは、父親に化け物だと罵られて、母親にこんな子知らないって泣かれて、クラスメイトにいるだけで迷惑だってハブられて、通りすがりの人間に気持ち悪いって言われ続けたからかもな。元の世界に俺の居場所なんてなかった。ずっとずっと惨めな思いをしてきた」
薫が白い息を吐くと、デューアンサラトが心配そうに彼に頬を寄せた。
「この世界でもそうだ。俺は奴隷商の魔術師に召喚されて、いろいろと嫌な目に遭ったよ。流音にはとても聞かせられないようなこともさせられた。本来生まれるべきだった世界に帰ってきても、何も変わらない。やっぱり俺は神様に嫌われてる。幸せになんてなれない。どんどん自分が汚れていって、何もかもがどうでも良くなっていった……」
力なく微笑み、薫は作りかけの雪玉を蹴とばして壊した。
「自分の幸せはもう諦めたつもりだけど、他人の幸せを見せつけられるのはすげームカつく。上から目線で同情や憐れみを向けられるのも反吐が出る。俺は可哀想って思われたいわけじゃない。可哀想だからって何もかも許されるなんて思ってない。誰にも許されなくて構わない。幸せそうに笑う奴らを道連れにして、派手に人生が終わればいい。でなきゃ、虐げられ続けた俺の気が済まないから」
その壮絶な思考に付いていけず、流音は黙って薫を見上げた。彼は小さく震えていた。涙をこらえているように見える。
「ルナだけだ。こんな俺にここにいて良いって言ってくれたのは。ルナにとって俺はおもちゃの一つなんだろうけど、それでもいい。俺にとってはたった一人の破滅の女神だから、なけなしの心で尽くせる。俺は絶対に改心はしない。……これで満足か?」
気づけば薫が目の前に立っていた。蹲っていた流音の手を掴み、無理矢理立ち上がらせた。その乱暴さに流音は怯えたが、直後にかじかんで赤くなっていた手が温かくなった。
ユラに聞いていた。薫は血液を操る魔法が使えるらしい。血流を操って、しもやけになりかけていた流音の手を治してくれているようだ。
この感覚には覚えがあった。
――そう言えば昔、薫くんと一緒にいたときは、全然具合が悪くならなかった。
もしかして、元の世界でも薫はこの力が使えたのだろうか。だとしたらあの夏休みの間、流音の体調を整えてくれていたのかもしれない。そして普段なら絶対できなかった木登りなどの遊びを教えてくれた。
――優しいこともできるのに……。
流音は悔しくてたまらなかった。薫を歪めてしまった世界を憎いと思った。
「そろそろ戻るか。俺は満足した。流音をまた泣かせられたから」
「意地悪……やっぱり薫くんはひどい」
「流音、ずっと俺の傍で泣いてろよ。そうすれば、少しは俺の気も紛れる」
絶対にイヤだ、と流音は心の中で首を横に振った。
軟禁部屋に戻ると、ユラが心配そうに待っていた。すでにウロトの姿はない。
「目が腫れています。泣かされたんですね」
「うん……ユラ、どうしよう」
「何がです?」
流音はユラの腕にぎゅっとしがみついた。
「わたし、今、ものすごく腹が立ってる。なんか爆発しちゃいそう!」
薫やマジュルナのことも、シークの命を諦めろと言うユラのことも、理不尽なことでいっぱいなこの世界のことも、何もできず、何も言えなかった自分にもイライラする。
「俺もです。俺も腹の立つことを言われました」
ユラは先ほどまでウロトと話していた。
彼は魔術球の詳細を知りたがった。敵に大切な情報を渡すまいとユラは黙秘したが、ウロトは飄々と脅しをかけてきたらしい。
『あのお嬢ちゃんの存在は、本当に邪魔だ。組織の中でも“この世界に聖なる乙女は二人もいらない”という声が大きくなっている。このままじゃ、殺されちゃうだろうなぁ』
流音の命を脅かしつつ、ウロトは続けたという。
『ユランザ・ファウスト。きみが組織に貢献するなら、あのお嬢ちゃんは助けてあげてもいい。僕が送還魔術で元の世界へ帰す。そうすればこれからの世界の混乱にも巻き込まれずに済むよ。どうだい?』
その話を聞き、流音は不安な気持ちでユラを仰いだ。
流音の安全を第一に考えると宣言したユラのことだ。その提案に乗ってしまってもおかしくない。
「ルノンの命を盾にされたことには憤りを覚えましたが、正直とても魅力的な提案でした。きみを元の世界に帰せるのなら、それが一番いい。きみの立場が危険なことは確かですし、今の俺では魔術属性が足りませんし」
「ユラ!」
「でも俺は、あんな胡散臭い男にきみの命運を委ねる気はありません。ちょっとでも心が揺れた自分にも苛立ちを覚えます」
その言葉が聞けて、流音は心底安心した。
「とりあえず返事は保留にしましたが、長居は無用です。あのカオルという少年もきみに執着しているようですし、ここにいるのは危険すぎます。やはりさっさと逃げ出すことにしましょう」
「うん……でも、シークは」
ユラはそっと流音の頭を撫でた。
「諦めろ、と言ってもルノンは納得しないでしょうね。一か八かきみの魔法に賭けてみますか。それで辛い結果になっても、自分を責めないと約束できるのなら」
流音は深く頷いてから、首を傾げた。
「でもいいの? 昨日はあんなに反対してたのに」
「そうですね。自分でも心境の変化に驚いています。ですがただ逃げることにも危険は伴いますし、運に頼る要素が強いです。その点シークは悪運が強そうなので、救い出せれば全て上手くいくような気もします。それに――」
「それに?」
「俺はこの世界から逃げ出した女神や、救う人間を選ぶ神子よりも、きみが起こしてきた奇跡を信じます」
その言葉は大きなプレッシャーとなって流音に圧しかかったが、同時にとても誇らしい気持ちにもなった。
ユラが信じてくれるなら、何だってできる。
心に巣食っていた苛立ちや不安が解消され、晴れやかな気分になった。
「うん。わたしもユラを信じる。シークの悪運の強さも!」
こうしてシークの救出と、〈魔性の喚き〉からの脱出作戦が実行されることになった。




