73 混沌の渦
魔術球の完成まであとわずかというところだった。
「うそ……」
流音は無意識に呟いていた。
一瞬の出来事だった。シークが魔剣に貫かれ、崩れ落ちていく。
何が起こったのか、頭の中で情報の処理が追いつかない。コウモリの無残な死骸を目の当たりにしてようやくシークに助けられたことに気づく。
魔術球に注ぐために極限まで引き出されていた魔力が、心の動揺に伴って大きく揺れた。バケツ一杯に注がれた水が、みるみるうちに周りに飛び散っていくようだった。
――だめ……このままじゃ……!
本能的に抑えなきゃと思えば思うほど、動揺の波は広がった。
シークの肩口から大量の血が流れ、騎士団の制服を赤黒く染めていく。遠目にも致命傷なのが分かる。
眼球が震え、胃がひっくり返りそうになり、流音はすがる思いでユラを見上げた。
「……どうして」
ユラは目を見開き、呆然としていた。瞬きもせずに一点を――倒れたシークを見つめている。いつの間にか術式を紡ぐのを止めている。人形のような端正で無機質な顔が歪み、悲しみに染まっていった。
手の平を通じて魔力を通わせている今、流音はユラの内なる衝撃をまざまざと感じ取ることができた。
冷静さを欠いたユラの様子に流音の心はさらに激しく揺れる。支えを失った。
口からは嗚咽が漏れ、瞳からは涙がこぼれた。
「シーク……っ」
つい先ほどまで軽口を叩いていたのに。
普段は自分のことを優先して、騎士らしくない振る舞いばかりしていたくせに。
流音は思う。こんなのシークらしくない。
――わたしが守ってって言ったから?
嬉しい気持ちもあるけれど、自分を犠牲にしてまで守ってくれなくて良かった。あんなこと、言わなければ良かった。シークを失うことになるなんて考えもしなかった過去の自分を流音は許せなかった。
流音とユラは揃って魔力の制御を乱した。
二人が構築した美しい術式が一瞬で崩壊し、暴発する。
膨大な魔力が帯状に広がり、毒花グラビュリアを包み込んだ。しかし不完全な状態で発動した封印魔術は周囲に混沌をもたらした。
強風が吹き荒れ、頭上の雲がみるみるうちに流れていく。同時に地鳴りも起こった。騎士や兵士たちが悲鳴を上げる。
止めなくちゃ、と頭の片隅で警報が鳴っている。
しかし流音の心は途方もない悲しみに塗りつぶされ、何も手に付かなくなっていた。魔力が一気に引き出され、視界がぐわんぐわんと回り出す。身動きもとれない。
嵐の中心で流音とユラは言葉を発さず、互いの手を強く握りしめた。
「ユラ! ルゥ! 逃げて!」
遠くでヴィヴィタの声が聞こえたとき、黒い巨大な影が空を横切った。
それが黒竜デューアンサラトだと気づいた瞬間、ふわりと体が浮き上がり、意識ごと風に攫われた。
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執務室の椅子に腰かけ、アッシュはため息を吐いた。ただでさえ苦手な書類仕事が溜まっている。手を伸ばしてみたものの、一向に手は進まない。
「……ちくしょう」
封印の儀式が行われてから三日が経ち、アッシュはサイカからモノリスに帰国した。
魔術球による封印はある意味では成功した。
毒花グラビュリアは氷結したように白く固まり、毒の霧の噴出は止まった。今まで頑張っていた結界専門の魔術師たちは胸を撫で下ろしていた。
しかし今の状態は仮留めのようなもので、いつまで保つか分からない。
球の中心に綺麗に収束するはずだった魔力がこんがらがり、歪な形になっている。このまま放っておいたら何が起こるか、正直なところ誰にも予測ができなかった。α級β級の学会魔術師が集まって頭を捻っているが、未だに具体的な対処法は見いだせていない。
術式の発案者であるユラがいれば、もう少し詳しく状態を把握することもできるだろう。
しかし暴発が引き起こした嵐が静まった後、ユラと流音は忽然と姿を消してしまった。魔剣に貫かれたシーク・ティヴソンも行方不明になっている。命に関わる大けがを負っていた彼が自ら動けるはずはない。
魔術の暴走時に古の魔物たちも撤退していった。
封印内部に引き込まれたか、魔力の歪みで発生した亜空間に吸い込まれたか、あるいは、敵に攫われたか。
アッシュはあのとき、黒竜が嵐の中心へ向かって羽ばたくのを見た。三人とも連れ去られた可能性が高い。
なんにせよ、最悪だった。
元々魔剣に憑依されていた南の大陸の勇者ラムレットは、謝罪の言葉と「仲間の元に帰りたい」という遺言の後に息を引き取ったらしい。報告を聞いて同情したが、もう少し敵方の情報を言い遺してほしかったと恨めしい気持ちにもなった。
もしも流音たちが〈魔性の喚き〉に攫われたのだとしたら、今すぐにでも助けに行きたい。しかし敵が北の大陸のどこにいるのかも分からない状態、しかも一国を背負う立場になったアッシュは軽々しく動けなかった。国境一つ越えるだけでも煩雑な手続きが必要だ。
改めて玉座に縛られるという意味を思い知る。
仮に敵の本拠地を突き止めて戦いを仕掛けるにしても古の魔物を何体も擁する敵に対し、モノリスの兵団だけでは心もとない。レジェンディア騎士団は封印周辺の警備や、各国の治安維持で手一杯だ。こちらから攻める戦力的な余裕はない。
何もできない現状がもどかしい。
「大丈夫なの」
スピカがニーニャカードを握りしめ、自分に言い聞かせるように言った。
「ルノンちゃんに何かあれば、きっと魔法が使えなくなると思うの。でも、まだレグちゃんを呼び出せる。だからきっと無事なの」
「そうだな。きっと大丈夫だ」
同意しつつもアッシュの胸には焦りが燻っていた。
確かにまだニーニャカードの魔法は使える。しかし流音がそばにいた時と比べて格段に力が落ちている。完全に魔法が使えなくなる日が来たら、そのときは……。
――信じるしかねぇよな。
弱音は口にできない。
流音の安否が分からず、昨日まで泣きじゃくっていたスピカがようやく気持ちを立て直そうとしている。 その頑張りに水を差したくなかった。
「あれ? そういやヴィヴィタは?」
「え?」
二人は執務室を見渡す。そこにオレンジのドラゴンの姿はない。
ユラと流音が行方知れずになったことで、ヴィヴィタが泣いて喚いて大変だった。アッシュが保護し、何とか宥めてモノリスに連れ帰っていたのだが、今日は姿を見ていない。
「まさかルノンたちを探しに行ったのか? あてもないくせに……」
心配事がまた一つ増え、アッシュの心労は積もるばかりだった。
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まどろみの中、誰かのため息が聞こえてきた。
「まだ起きないの? お人形ちゃん。つまらないわ」
頬をむにむにと摘ままれている感触がして、流音はゆっくりと瞼を持ち上げた。
髪も肌も、瞳すら白一色の少女が流音の顔を覗き込んでいた。天使のように可憐な顔にぱぁっと喜色が広がる。
「あは、起きた」
「……うぅ、えっと、誰?」
流音は緩慢な動作で体を起こし、首を傾げる。
ここはまだ夢の中だろうか。目の前の美少女の存在も、天幕に覆われた室内にも現実感がなくて、夢幻の産物と言われた方がしっくりくる。
頭の中が霧がかっていて意識を失う前のことを思い出せなかった。
胸にぽっかりと穴が開いてしまったようだった。何かとても悲しい出来事が起こった。思い出さなければいけないのに、思い出すのが怖い。
「私はマジュルナ。ルナでいいわ。あなたのことはルノンって呼ぶ。良いよね?」
少女の名前には聞き覚えがあった。知っている。
流音が愕然としていると、後ろで人が動く気配がした。
「神子様の言葉にはちゃんと答えろよ、流音」
「薫くん……!?」
くすりと笑う薫を見て、劇的に全てを思い出した。
そして、この純白の少女の正体にも勘づく。
「いやっ」
流音は這うようにマジュルナから距離を取り、壁際の天幕に身を寄せる。
「ふふ、そんなに怯えなくてもいいのに。私はあなたを歓迎するわ、ルノン。ようこそ、〈魔性の喚き〉へ」
世界を混沌に陥れようとしている神子――マジュルナ・ペルルは華やいだ声で笑い、流音に手を差し伸べた。




