66 祝福
「アッシュ!」
炎の渦の中央にいる少年に向かって、流音は必死に叫ぶ。
その瞬間、ポケットからニーニャカードが一枚飛び出していった。
それは金色の光を放ちながら、アッシュの頭上に輝く。光の帯が周囲に広がり、暴走していた炎が鎮められていった。
【ニーニャの祝福により、〈王冠〉の守護者は目覚めん】
流音の頭に不思議な声が響くと同時に、宙に神々しい女性が現れ、恭しくアッシュの頭に王冠を載せた。
慈愛に満ちた微笑みを浮かべる女神、凛然と輝く王冠、炎をマントのように纏う少年王。
奇跡のような光景だった。
――カードの柄と同じだ。
女神に洗礼を受ける王。〈王冠〉の持つ意味は『リーダーシップ』『責任』『気高い心』『万人の希望』だ。
――希望……アッシュにぴったり。
女神がふわりと消えた瞬間、金色の光と炎は収束した。
アッシュは頭の上の王冠を片手で触れながら、「なんだこれ」と言わんばかりにきょとんとしている。
そして、いつの間にかもう一つの手に赤い魔沃石を握りしめていた。揺らめく炎をそのまま閉じ込めたような宝玉である。アッシュがモノリスの直系王族だという証だ。
「まさか今のは、女神モーナヴィス……?」
誰かが呟き、直後に喝采が上がった。
「モノリスの建国神話の再現だ! 彼こそが真の王に違いない!」
「すごいものを見てしまったわ! 歴史的瞬間よ!」
「世界の危機に古の女神が降臨したぞ! もう怖いものなんてない!」
メリメロスの民も、レジェンディアの騎士も、諸手を挙げて祝福した。グライでさえ瞠目し、剣を胸に掲げアッシュに敬礼して見せた。
一方流音は冷や汗をかいていた。
「ど、どうしよう。今のは」
「黙っていた方がいいですよ。空気を読みましょう」
空気読めなんてユラにだけは言われたくなかったが、流音は口を閉ざすことにした。確かにこの盛り上がった雰囲気の中、「今現われた女性はわたしの魔法です」とは言えない。
アッシュは宙に浮かんだカードを手に取り、流音に苦笑を向けた。何かを察したらしい。
「どうやら彼は本物の王子、それも女神の祝福を受けた英雄王の再来だ。さて、どうしたものか」
サイカ王が不敵に笑い、この場で唯一青い顔をしている男を一瞥した。
アッシュは本物の王子で、しかも古の女神を呼び出すほどの少年だ。古の魔物の復活に戦々恐々としている今、黒い噂を晒されたガーヴェイと比べて、どちらが王にふさわしいかは一目瞭然だ。
遅ればせながら流音は気づいた。
アッシュがモノリス王国の王になり、封印の方法についての会議がもう一度行われれば、今度はまず間違いなく魔術球に決まる。そうすればユラの処刑も回避できる。
「こんなことがあってたまるか……っ! 私は、私こそが王だ、皇帝だ――!」
モノリス王はわなわなと震え出す。尋常ではない様子に側近の男も後ずさった。
直後、ぞわっと肌に悪寒が走った。濃密な闇の気配に流音はユラにしがみつく。
「ぐわあああ!」
耳を覆いたくなるような絶叫とともに、モノリス王の口から黒い霧状のものが溢れ出し、徐々に具現化していった。
空中に、黒光りする鎧とマントをまとった大柄な男が現れた。兜で顔全体は見えないが、目の部分から赤い眼光が不気味に輝く。
三つ又の槍を構えるその姿から流音は魔王を連想した。
祝福モードから一転、競技場は騒然となった。
「ゆ、ユラ、あれは……」
「おそらく悪魔皇帝ザーザンです。ロッカ帝国領に封印されていたはずの……なるほど、もしかしたら」
「えっと……どういうことなの?」
ユラは淡泊に述べた。
「伝承によれば、ザーザンは権力者に憑りつく能力と、屈服させた人間を支配する能力を持っています。まさに皇帝陛下ですね。ロッカ帝国領の古の封印はとうの昔に解けていたのでしょう。帝国側の策略か偶然かは知りようがありませんが、十年前のクーデターのときには既にガーヴェイに憑依していた可能性が高いです」
それならば忠臣が次々と裏切ったことも納得できます、とユラはしみじみと頷いた。
怪我の痛みのせいか、ユラはどこかおかしい。いつにも増して危機感が欠如してしまったようだ。
「王たちをお守りしろ!」
グライの一喝に貴賓席の周りが慌ただしくなった。サイカ王とメリメロス王の姿は奥に消え、入り口を騎士と兵士が固める。
ザーザンを吐き出したガーヴェイはミイラのように干からび、その場に崩れて痙攣していた。
「第二、第三部隊は戦闘配置! それ以外は民衆の避難を優先! メーリン全域を警戒区域として指定する!」
鋭い指示が飛び、慌ただしく人員が動く。
ザーザンは空で制止し、その様子を泰然と眺めていた。人々のちまちました動きを嘲笑っているかのようだ。
「ルノン。お前はその人を連れて逃げた方がいいんじゃねぇか?」
アッシュの言葉に流音は迷った。ヴィヴィタに乗れば一番にこの場から離脱できる。重傷のユラにためにもそうした方がいいのは分かる。
――でも……。
自惚れかもしれないが、今のところ古の闇と対抗できるのはニーニャカードの力だけだ。残れば役に立てることもあるはずだ。
「アッシュはどうするつもり?」
「オレは逃げねぇ。よく分かんねぇけど、あいつが全部の元凶なんだろ? だったら倒したい」
そう言ってアッシュは一座の男から剣を受け取った。メテルで見た彼の剣舞を思い出す。戦う気満々らしい。
「下手な倒し方をすれば古の闇に汚染され、この辺りの魔力循環が崩壊します。人々にも影響が出るかもしれません」
意気込むアッシュに、ユラが水を差す。
「じゃあどうしろってんだ!? 逃がせって言ってるのか?」
「とりあえずその魔沃石を俺に下さい。素晴らしい純度です。これなら試す価値はある……」
アッシュが作り出した赤い宝玉を受け取り、ユラは薄く笑う。酩酊しているような危うさを感じた。血が足りないのかもしれない。
「ユラ、大丈夫? 具合悪いの?」
「大丈夫です。ヴィヴィタ、俺たちを守ってください。ルノンは魔力を貸してくれますか? 今ならとても良い術式が組めそうです。付いてきてくださいね」
ユラがごく自然に右手を取り、指を絡ませて優しく握りしめた。自分の手よりも一回りも二回りも大きな手に改めてときめき、切迫した状況を忘れて流音の体温は急上昇した。
感覚で分かる。今、ユラの魔力はほとんど枯渇していた。どんどん流音の魔力を吸い上げ、凄まじいスピードで術式を汲みあげていく。
ひどい眩暈に襲われたが、流音は高揚した。
ユラの役に立っている。必要とされている。こんなにも近くにいる。
そう思うと、際限なく力が沸いてくるようだった。
大きな魔力の揺らぎに反応したのか、ザーザンが漆黒のマントを翻した。その瞬間、闇の中からコウモリのような魔物の群れが生まれて地上に襲い掛かってきた。
メリメロスの兵士もレジェンディアの騎士もケテル一座の芸人も、戦闘に入る。
「がぁあ!」
コウモリに首筋を噛まれた兵士が奇声を上げる。闇の魔力が注入されたのか、黒い煙が傷口に燻っている。彼らは瞬く間に正気を失い、絶叫しながら仲間に向かって剣を振りかざした。
皇帝の使い魔が次々と人を支配し、勢力を拡大していく。
「くそ、やめろ!」
アッシュが叫ぶと王冠が眩い光を放ち、操られていた兵士は糸が切れたようにその場に倒れ込んでいった。金色の鱗粉がきらきらと地表近くで輝き、人々の意識を守る。それが後押しになり人間側は一丸となって、コウモリの群れを退治していく。
――これが〈王冠〉の力……?
まるでアッシュとザーザンが支配力を争っているようだった。
アッシュがいる限り、この場の人々を支配できない。
そう踏んだのか、ザーザンが地上にゆっくりと降りてきて、三つ又の槍を構えた。
ゼモンが前に出て、アッシュを背で庇う。
「親父っ!」
「黙っておれ、ひよっこが。お前が勝てる相手ではない。何より、王を守るのが儂の役目だ」
するとグライも剣をザーザンに向けた。
「それは我らとて同じ。七つの星と宝剣の下、新たな王と民の平穏を死守する」
ゼモンとグライ、二人の覇者に立ち塞がれ、ザーザンが喜んでいるように流音には見えた。
呼吸もままならないほどピンと張りつめた空気の中、三者が同時に動く。
「っ!」
剣と槍がぶつかり合った瞬間、びりびりと地揺れがした。
ゼモンの豪快な一振り、グライの閃光のように鋭い一撃を受けても、ザーザンは一歩も退かない。それどころか槍を大きく振り回し、二人を弾き返す。
風を切り、火花を散らし、魔力をたぎらせながら、三者が激しく打ち合う。その度に競技場の壁や地面が衝撃で崩れていく。
目も耳も肌も戦いの迫力を感じ取り、恐怖以上に感動を覚えた。
「すげーな……化け物じみてる」
アッシュが零した呟きに流音は心の中で頷く。
悪魔皇帝ザーザンはもちろん、ゼモンとグライも異様な強さだ。魔力で肉体を強化しているらしいが、人間か疑うレベルの動きをしている。
「いえ、遊ばれています。ザーザンの魔力の底はまだ見えません」
ユラが不穏な発言をして間もなく、ザーザンの槍が揺らいだ。濃い闇の瘴気が放たれ、ゼモンがそれを避けようとして足を滑らせた。カバーに入ったグライを力づくで吹き飛ばし、ザーザンが槍を突き出す。
「親父!」
アッシュが飛び出し、ザーザンの一撃からゼモンを庇う。剣と槍先がかちりと組み合い、黒と金の粒子がお互いを食い合った。
「くっそ!」
じりじりと押されていくアッシュ。王冠の光が徐々に萎んでいく。闇が急激に膨れ上がり、アッシュを呑み込もうとしたそのとき、ユラが詠唱を始めた。
【陽炎は星を呑み業火となり、電光は嵐に研がれて紫電となり――】
繋いでいない方の手に握っていた赤い宝玉が輝き出す。
【闇夜を砕け、常世の紅玉。今、罪深き侵略者を冥府に落としたまえ】
流音の魔力で組み上げられたおびただしい量の術式に、宝玉が秘めた膨大な魔力が注ぎ込まれる。
その瞬間、ザーザンの頭上に炎と雷が集まり、巨大なエネルギーと化していく。流音は線香花火のとろっとした球体の部分を思い出した。
ザーザンの意識が一瞬頭上に向かい、体勢を立て直したゼモンがアッシュを抱えて退避したとき、紅蓮の塊が弾けた。
凶悪な一撃だった。
溶岩流が悪魔皇帝を頭から呑み込む。人の声ともつかぬ絶叫が競技場に響いた。
離れている流音も熱さで喘ぐほどだったので、そばにいたアッシュとゼモンは大量の汗を流している。冷や汗かもしれない。間一髪で彼らもあれを浴びるところだった。
コウモリたちは影に溶けるように消え去り、競技場が静まり返った。じゅわっと地面を沸騰させる音だけが聞こえてくる。
人の形の灼熱の塊を、誰もが固唾を飲んで見つめた。ほどなくしてザーザンはぐしゃりと形を失い、その場から消えた。
「倒したの……!?」
ユラは眉間に皺を寄せた。
「いえ、手応えがありません。おそらく転移されました。外部から手助けがあったようです」
逃がしてしまったのは痛いものの、この場の危機は去ったらしい。緊張していた場の空気が一気に弛緩する。
グライが怖い顔をして近づいてきた。
「ユランザ、貴様、これはβ級に区分される殲滅魔術だろう。許可なく使う奴があるか。せめて退避の合図くらい出せ。下手をしたら大勢が犠牲になっていた」
競技場の惨状を見て、ユラはゆっくりと頷いた。
「ああ、すみません。夢中でした……」
そう答えた途端、ユラの体が力を失った。つられて流音も大量の魔力を消費し、折り重なるように二人は倒れた。目の前が真っ白になり、音が遠ざかっていく。
流音は歯をくいしばって耐えた。また意識を失うのが怖い。
「ユラ、もう離れたくない……いなくならないで」
絞り出すように懇願した声は届いたのだろうか。誰かが頭を優しく撫でてくれた。
流音はそれだけで安心し、あっさりと意識を手放した。




