63 英雄の乱入
※痛々しい描写があります。苦手な方はご注意下さい。
興奮した人々の声が重なり合い、轟々と競技場に響いた。直後、兵士が鞭を振るい始め、鋭い音が空を裂く。
流音は眩暈を覚えた。
どうして、どうして。そんなに長い間眠っていたのだろうか。ううん、そんなことはどうでもいい。このままじゃ、ユラが――流音は呼吸も上手くできなくなって咳き込んだ。
「やだ、やめて……っ!」
ユラが嬲られる瞬間、思わず目を閉じ、ぽたぽたと大粒の涙が頬を滑っていった。自分がぶたれたわけじゃないのに、体の芯がたたき折られるような痛みを感じた。
「助けてほしいか?」
薫が優しく囁く。
「あいつに濡れ衣を着せるつもりはなかったんだ。モノリスの王が勝手に暴走しただけで、これは俺たちの仕掛けじゃない。七王も、騎士団長も、みんなあいつが死ぬのを黙って見ているだけだ。でも、流音が仲間になるっていうなら、俺があいつを助けてやってもいい」
流音がぎょっとして顔を上げると、薫は鼻で笑い、観覧席の一部、他の人々から隔離され、幕が垂らされた空間――貴賓席を指差した。あの奥にユラにあらぬ罪を着せた人がいる。憎いと思う。でもそんなこと、今は構っていられない。
「本当? 仲間でもなんでもなるから、早くユラを助けて!」
薫の言葉が嘘か本当か、もうまともに判断できない。だけど流音はすがるように薫に迫った。目の前で起こっている痛々しい光景を早く止めてほしい。耐えられない。
「落ち着けよ。先に言っておかなきゃいけないことがある。俺達の仲間になればお前もあいつも救われるかもしれない。だけど例えばこの場にいるほとんどの人間は、神子様の願いのために死ぬことになる。俺達はそういうことをしようとしている。それでも流音は黙っていられる? 神子様のおもちゃになれるか?」
ふらふらになりながら、再び競技場を見下ろす。一万人近い人々が詰めかけている。それが全員死ぬ。薫たち〈魔性の喚き〉が引き起こす災いによって。
すぅっと冷たい汗が背中に垂れ、心臓が嫌な音を立てた。
別にいい。ユラが助かるならそれでいい。ユラにありもしない罪を被せてひどいことをする人々なんて、どうなったっていい。この世界の事情なんて知らない。
そう思ってしまう自分に戦慄を覚えるのと同時に、激しい嫌悪の念を抱いた。
――絶対に……無理。
薫たちがしたこと、これからすることは絶対に許せない。たくさんの罪のない人々が死ぬのに、自分と好きな人が助かるから平気、なんてそんな神経が腐ったようなこと、認められるはずがない。
スピカやシークはどうなる。彼女たちやその大切な人たちも犠牲になるかもしれないのに。
答えられなくなる流音を見て、薫の目が冷たい光を帯びた。
「まぁ、お前がどうしようと、最終的には全部同じ結末になる。みんな揃って破滅だ……」
もう二十回以上、ユラは鞭に打たれているだろうか。
気が狂いそうだった。頭の中に目まぐるしくいろいろなことが浮かぶのに、答えは一向に出てこない。
――このままじゃ、ユラが死んじゃう……。
嘘でも見せかけでも、薫の言葉を受け入れるしかない。ユラを救うためだ。
なんでもいいからユラを助けて。
流音がそう口を開きかけたそのとき、わっと驚愕の声が上がった。
「誰だ、今ナイフを投げた者! 捕えよ!」
壇上の兵士が腰を抜かしている。彼の足元にはナイフが突き刺さっていた。
「離せ! 自分の足で歩ける!」
人だかりが割れ、両脇を兵士に捕まれた人物が壇上に引きずり出される。
流音は息を飲んだ。
――アッシュ!
赤いバンダナの少年が壇上に転がると、宰相が汚らわしいもののように彼の腕輪を見下ろした。
「なぜナイフを投げた! この罪人を狙ったのか!?」
「んなわけねぇだろ! こんなことやめろよ! この人が悪いことしたって証拠はねぇんだろ!?」
集まった民衆からアッシュへの怒りの声が上がる。「闇巣食いを庇うなんて」、「あいつは奴隷じゃないか?」、「なんて身の程知らずな」……そんな言葉が沸いている。
「何を愚かなことを……七王の意志に異を唱えると申すか!」
「奴隷だろうが王様だろうが関係ねぇよ! 間違ってること正しくないって言って何が悪いんだ! この人が生きててくれねぇとたくさんの人間が死ぬ! 泣く女だっているんだ! 隠し事せずにちゃんと話せよ! 卑怯者! 古の封印をもう一度しようなんて――」
「だ、黙れ! 黙らせろ!」
兵士に強く背中を押さえつけられ、アッシュが苦しそうに顔を歪めた。
宰相は焦った様子で貴賓席に視線を送った。
アッシュは古の封印がもたらす犠牲を知っている。そのことに気づいたようだ。
「オレ達は物じゃない! 命は自由だ! むざむざ殺されるなんてまっぴらだ!」
混乱の中で、流音の頭は不思議と冴えていった。宰相や王たちが何を考えているのか手に取るように分かる。
この場で民衆たちに露見されては困る。例え犯罪者や奴隷であっても七万人の犠牲を良しとしない人たちは大勢いる。奴隷たちだってむざむざ生贄になるはずがない。暴動が起きてもおかしくなかった。それを避けるためには、事実を知られる前にアッシュの口を塞ぐしかない。
「七王からの許可が下った! この奴隷を反逆の罪で処刑する!」
競技場から歓声が上がった。もうアッシュが何を叫んでも人々の耳には届かない。
兵士が大ぶりの剣を腰から抜いた。
「うぅ……なんなの?」
部屋の隅でスピカが目を覚ました。最悪のタイミングだ。
流音は縛られた両手で薫にすがりついた。
「薫くん、お願い! アッシュを助けて!」
「は? 誰? あの乱入してきたガキ?」
事情を説明する間もない。
空高く掲げられた剣に、人々が熱狂する。あれが振り下ろされれば、アッシュは……。
――もう間に合わない! わたしのせいだ!
事情を知っているからこそ、アッシュはユラを庇った。こんなことをすれば自分がどうなるか分からないはずないのに、それでも非難の声を上げる。真っ直ぐな心を曲げられない。
アッシュに話すべきではなかった。途方もない後悔が押し寄せてくる。
恐怖に目を瞑った流音は、何かが爆発する音で目を開けた。
それから、いろいろなことがほぼ同時に起こった。
舞台上では鮮やかな花火が炸裂し、破裂音が絶え間なく続く。混乱の中、拘束から逃れようとしたアッシュの背中へ、兵士の剣が振り下ろされた。
キィン、という澄んだ金属音が響く。
兵士の剣をケテル一座の座長が弾いていた。彼の握る剣は目にも止まらぬ速さで繰り出され、壇上にいた他の兵士含め、一人残らず吹き飛ばされる。
――座長さんまで……!?
宰相が応援の兵士を呼ぶために叫ぶのが見えた。
そのとき流音がいた部屋でも動きがあった。扉が蹴破られ、騎士がなだれ込んできた。先陣にいたのはレイアだ。
「大人しく投降しろ!」
騎士に囲まれた薫は舌打ちをして、流音を盾にした。いつの間にか首元にナイフが添えられていて、ピクリとも動けなくなる。
「せっかくいいところだったのに残念。本当に運がいい奴だな、お前。ムカつく」
刃の冷たい感触がそっと離れた。
「じゃあ、また」
薫は流音を騎士の方へ突き飛ばし、猫のような俊敏さで塀から飛び降りた。地面まで十メートル近くあったはずだが、人々の混乱に乗じて薫は姿をくらましたようだ。騎士の半数以上が部屋を飛び出して追跡に向かった。
流音は手首の縄と魔力を抑制していた首輪をレイアに外してもらった。
「大丈夫か、ルノンくん。怪我は……」
「わたしのことよりも、ユラとアッシュが! 助けて下さい!」
レイアは悔しそうに奥歯を噛みしめた。
「すまない。七王の御前では動けない。民の前で、騎士同士の戦いを見せるわけにもいかないのだ……」
薫や敵と通じていた騎士とは戦えても、七王が正式に下した決定には表だって逆らえないということらしい。歯がゆい。
「ルゥ、おいらに乗って!」
檻から解放されたヴィヴィタに頷き、流音はレイアに助けてくれた礼とスピカたちを頼む旨を伝えた。元の大きさに戻ったヴィヴィタに飛び乗り、流音は眼下の舞台へ一直線に降り立った。
現場は騒然とし、悲鳴が渦巻いていた。
応援に呼ばれた騎士や兵士と、ケテル一座のメンバーが激しい剣戟を繰り広げている。舞台近くにいた民衆は逃げ惑っていた。
「ユラ! 大丈夫!?」
流音は混乱する舞台上に怯むことなく、真っ先に鎖に繋がれたユラの元へ向かった。鞭で打たれた頬はひどく腫れ上がり、灰色の囚人服は血だらけだ。目が虚ろで息も絶え絶えである。
「ああ、ルノンが見えます。メイドさんです。……変な走馬灯ですね」
「しっかりして!」
ヴィヴィタが手足に繋がっていた鎖を牙で引きちぎり、流音は倒れ落ちるユラを全力で抱きとめた。そのボロボロの姿に涙がこみ上げてくる。
「俺の血で汚れてしまいます」
「そんなの、どうでもいいもん……っ」
流音はメイド服のポケットを探り、ニーニャカードを取り出す。薫に盗られていなくて良かった。すぐにキュリスを呼び出して治療してもらおうとしたが、ユラがその手首を掴んだ。
「ダメです。こんな人目の多い場所で魔法を使ってはいけません……」
「え、で、でも」
「俺なら大丈夫です。それよりも彼らは――」
すぐ近くに兵士が吹き飛ばされて落ちてきた。
――す、すごい……。
素人の流音の目から見ても、ケテル一座の面々は強すぎた。メリメロスの兵士だけならまだしも、レジェンディアの魔術騎士とも互角以上に渡り合っている。しかも命を奪うような攻撃はせず、ほとんど峰打ちで相手を蹴散らしているようだった。
アッシュも尻餅をついたまま、ぽかんと座長の剣技に見入っていた。一座の芸人たちは彼を守るように戦っている。本来ならばあり得ない光景なのだろう。奴隷の少年を命がけで守る雇い主の大人たち。
「戦いを止めよ!」
その一喝で、騎士も旅芸人も動きを止めた。
貴賓席の幕をくぐり、長髪の男が出てきた。
レジェンディア騎士団団長、グライ・ストラウスである。
蛇のような冷たい眼光が座長をまっすぐ射抜き、座長もまたグライを鷹のような鋭い目で睨み付けていた。
「……その冴える剣撃、モノリス王国黒鉄兵団の長ゼモン・キリク殿とお見受けするが、いかがか」
グライの言葉に大きなどよめきが起こる。民衆も、騎士たちも、幕の向こうの七王さえも息を飲んだように感じた。流音だけが首を傾げ、こっそりとユラに尋ねる。
「えっと……有名な人?」
「黒鉄のゼモンは四十年前、モノリスを襲ったテロ事件〈腐乱の三日間〉を解決し、英雄となった兵士です。十年前のクーデターで亡くなったはずですが……」
彼が本物なら、生きていたということだろうか。それも旅芸人となり、身分を隠して。
座長は否定も肯定もせず、小さく息を吐いた。
「儂に直接聞く必要などないだろう。出てこい、ガーヴェイ・ヒオーク。臆病者のそしりを受けたくなければ、儂の前に立ってみろ」
座長が口にした名前は現モノリス国王のものだった。本来なら恐れ多くて口にすることもできない名前を、かつて前国王に仕えた男が吐き捨てるように呼んだ。
垂れ幕の向こうから、慌てた様子で初老の男性が二人飛び出してきた。モノリス王とその側近のようだ。彼らは座長の顔をまじまじと見てはっとしたが、すぐに首を横に振り、王が叫ぶ。
「ば、馬鹿な! ゼモンは死んだはず! 我が祖国の英雄の名を騙るな!」
「それはこちらのセリフだ。よく恥ずかしげもなくモノリスの王を名乗れたものだ。貴様など、玉座の簒奪者に他ならん」
座長の怒りがこもった声が響き、流音はお腹の底を殴られたような気分になった。周囲は水を打ったかのように静まり返り、モノリス王だけが顔を真っ赤にして激昂した。
「何を! グライ、さっさとこの者を不敬罪で捕えよ! 殺しても構わん!」
座長はカッと目を見開いた。
「貴様にレジェンディアの騎士を従える資格などない! 騎士よ、正統の王に忠誠を誓え!」
座長は一拍の後、振り返った。その顔に一瞬だけ苦悶と躊躇いの色が見えたが、すぐに毅然とした表情に戻る。そして尻餅をついたままのアッシュの腕を引き、立ち上がらせた。
「この者こそ、ガーヴェイの卑劣な策略により非業の死を遂げたモノリス国王と正妃の第三子――アシュレイド・モノリス・ジュカリン様である!」
その言葉に、流音もユラもアッシュも目を丸くした。
――アッシュが王様の子ども……じゃあ、王子様ってこと?
今日一番の驚きが、競技場に激しく波を打った。




