56 友情
流音以外の子どもたちはあれが古の魔物だとは分からないようだったが、怯えて泣き出す子はいた。王都に魔物はめったに出ない。初めて見るのだろう。無理もなかった。
「――――ッ!」
メリッサブルが咆哮した瞬間、黒と緑の風の刃が発生して地上に傷を刻んだ。激しい揺れとともに建物が倒壊する音や人々の悲鳴が押し寄せてくる。
校庭を挟んだ都の風景が一瞬で無惨に変わり果て、教室はパニックに陥った。
「先生、生徒を連れてすみやかに避難してください。みんな、大人しく先生の言うことを聞いて行動してねー。すぐにお兄さんが騎士の仲間と退治してあげるから」
シークが生徒たちに頼もしい笑みを見せ、窓から外に出た。そして連絡用の疑似鳥を大量に飛ばす。
慌ただしく避難を始めた生徒たちに混じらず、流音は窓から声をかける。
「シーク! どうするの!?」
「騎士ってのはねぇ、勝ち目薄でも民が見ている前で敵から逃げられないんだよ。でもお嬢さんは転移魔術で逃げなよ。それくらいできるよね? ……ああ、できれば遺跡に行ってユラと博士を呼んできてくれる?」
「わ、分かった。気をつけてね」
流音が胸元から手鏡を取り出す。
「ルノンちゃん!? どうしたの? 早く逃げるの!」
ふと気づくと、スピカが避難せずに教室に残っていた。
迷っている時間はない。
「スピカちゃん、一緒に来て!」
コンパクトの術式に意識を傾け、 魔力を注ぎ込もうとしたその時――。
風圧で体が浮かんだ。ばりばりと建物が剥がれる音が聞こえたときには全身に痛みが走る。
メリッサブルが放った風の刃の束が、塾舎に直撃していた。
流音が呻きながら目を開けると、教室から屋根がなくなっていた。それでもまだ被害は少ない方だ。隣の教室は瓦礫に潰れ、周りの建物は全壊している。
「シーク……?」
ボロボロになったシークが地面に片膝をついていた。状況を見れば分かる。彼が風の衝撃波の一部を相殺したのだ。でなければ流音のいる場所も瓦礫で潰れていただろう。
シークの体は傷だらけで、大量の血が流れている。それでも彼は剣を杖に立ち上がろうとする。
誰か、と周りを見渡す。
スピカが震えながら頭を抱えて蹲っている。瓦礫の奥から子どもたちの泣き声が聞こえてくる。
怖い。助けてくれる者がどこにもいない。
――しっかりしなきゃ!
呆然としている場合ではない。流音はポケットに手を入れる。
シークとスピカだけでも連れて転移するべきだったのかもしれない。
だけど、逃げない。少しでも何とかできる可能性があるのに逃げられない。せめて他の騎士が駆けつけてくれるまで、自分がみんなを守る時間を稼ぐ。
【ニーニャの守護者よ、お出ましください!】
流音はニーニャカードに魔力を注ぎ込んだ。〈薔薇〉のカードからキュリスが現れ、眉尻を下げる。
「すまぬ、ルノン。なぜかすぐに出て来られず……怪我はないかえ?」
「わたしは大丈夫! それよりも、シークやみんなを助けられる? お願い!」
ありったけの魔力を込めて祈ると、キュリスは深く頷いた。
水滴が周囲に星屑のように散らばる。癒しの水の力でみんなを――。
そう思った瞬間、風切り音が聞こえた。
「うっ!」
メリッサブルが流音とキュリスを睨み付け、牙を剥いた。小さな風の刃が無数に飛んでくる。キュリスが庇ってくれているが、柔らかい水の壁は今にも破られてしまいそうだった。
流音は震える足を叱咤して走り出した。これ以上瓦礫が崩れたらみんな死んでしまう。
「お嬢さん!? 馬鹿かっ!」
シークの怒号が背中に突き刺さるが、振り向く余裕はなかった。
メリッサブルは完全に流音を標的にしたようだった。憎悪にたぎる赤い瞳が追いかけてくる。
――わたし、古の魔物に嫌われてるのかな?
黒竜にも凶獣にも襲われるなんて。
これが偶然でないのなら、薫が裏で糸を引いているのかもしれない。近くで見ているのかもしれない。
痛めつけて笑うつもりだろうか。それとも殺すつもりなのか。
そう思うと、途方もない恐怖が沸き上がってきて身が竦んだ。
「あっ!」
地面の窪みに足を取られて転んだ。慌てて起き上がろうともがくが、上手くいかない。
ばさり、と翼の羽ばたきが迫る。
「おのれっ! ルノンに近づくな!」
キュリスが水の槍を形成してメリッサブルを貫こうとする。黒と緑の風の刃に相殺され、じりじりと追い詰められていく。闇の気配はすぐそこにある。
――やっぱり古の魔物には敵わないの?
心が一気に弱っていった。それに呼応するようにキュリスの反撃も勢いを失くしていく。
メリッサブルの前足が空を裂き、強烈な風の渦が発生した。
「キュリス!」
渦に呑まれてキュリスが霧散した。ひらりと〈薔薇〉のカードが地上に落ちる。
気づけば、目の前に漆黒の獣が浮かんでいた。
もうこの場に留まるのは無理だ。流音が握りしめていた転移の鏡に魔力を注ぎ込もうとした瞬間、爪が手の甲に伸びてきた。鎖がしゃらりと音を立てて飛んでいく。
地面に尻餅をついたまま、流音は愕然とメリッサブルを見上げた。
地まで震わすような威嚇の声。血の色の瞳が流音を射抜き、凶悪な牙が鈍く輝く。
どうしてこんなにも敵視されているのか分からない。
流音は確信した。殺される。牙が喉元を狙っている。
――ユラ……。
今朝は何を話しただろう。
いってらっしゃいをちゃんと言っただろうか。上手く思い出せない。
流音は恐怖に耐えきれず、ぎゅっと目を閉じた。
***********
スピカは瓦礫の陰で震えていた。
今日は楽しい日のはずだった。久しぶりに一日中流音と一緒にいられると思って、うきうきしていたのに。
スピカにとって流音は自慢のお友達だった。可愛くて優しい、憧れの女の子だ。
流音はいきなり知らない世界に連れて来られ、怖い雰囲気の魔術師と暮らし、いろいろ大変な目に遭っている。それでも素敵な笑顔を絶やさない。
そんな彼女が大好きだった。仲良くしてくれて、本当に嬉しかった。
――このままじゃ、ルノンちゃんが……。
黒い魔物がじりじりと流音に迫っている。彼女が魔物を引きつけてくれたおかげで塾舎に被害はない。流音はみんなのために飛び出したのだ。
――どうしよう。ウチには、何もできないの……こんなときまで……。
メテルの町長の家に生まれ、スピカは恵まれた生活をしていた。食うに困ったことはもちろん、お財布が寂しいと嘆いたこともない。ちゃんと理由を話せばいくらでもお小遣いがもらえる家だった。スピカの部屋の本棚はおびただしい量の書籍で埋まっている。
反面、周囲からのプレッシャーは凄まじいものだ。初対面の人間もスピカを「町長の娘」として扱う。両親は二人の娘の意思を尊重しつつも、厳しくしつけた。
しかしスピカは両親の期待には答えられなかった。
「どうしてこんなこともできないんだ……いや、すまない。伸び伸びやりなさい」
そんな父の嘆きを何度も聞いた。姉のペルネと比べていることは明らかだった。
ペルネは非常に優秀だった。女性らしい柔らかい雰囲気と、鋭い知的さを併せ持っている。父親は二人の娘を平等に愛してくれたが、どちらが自慢かと問われれば迷わず姉の方を選ぶだろう。
自分に自信が持てず、スピカは俯いて歩くようになった。まだ羞恥心を知らない頃は一緒に遊ぶ友達もいたが、次第に一人で過ごすようになる。本を読んでいれば孤独は紛れ、落ち着いていられたものの、どんどん自分の心を失くしていくような気がした。
そんな中、異世界からやってきた流音と友達になった。
たった一人友達ができただけで、あっけなく俯く日々が終わる。
そして町にやってきた旅芸人の少年に恋をした。物語の主人公のように明るくて前向きなアッシュに憧れないはずがなかった。
変わりたい。二人のように前を向きたい。
スピカは決意し、一歩踏み出した。
「まぁ、ペルネさんの妹なのね。彼女は素晴らしい生徒だったわ」
この高等学塾はペルネも通っていたところだ。姉のことは教師たちの記憶にもよく残っていた。教師の不用意な一言のせいで、クラスメイト達からも最初から一目置かれてしまったものの、すぐに「大したことない子」というレッテルを貼られた。新天地で変わろうとしたスピカの決意は早々にくじけた。
自分には足りないものだらけだ。嫌というほど思い知った。
――勇気が、勇気が欲しいの……ルノンちゃんみたいに……。
目の前で大切な友達が危機に陥っている。それなのに一人では何もできない。
凶悪な魔物への恐怖に足が動かなかった。レジェンディアの騎士でさえ、動けなくなるほどの怪我を負っている。自分が助けに行って何ができるというのか。痛い思いをするだけだ。
言い訳が滑らかに頭の中で紡がれていく。
「ルノンちゃん、ごめんなさいなの……」
ふと、手首のミサンガに視線が留まる。流音とアッシュと色違いのミサンガだ。
スピカはある願い事を込めてこれを結んだ。
“ルノンとアッシュの隣に、自信を持って並べるような人間になりたい”
その決意を無駄にしないため、なけなしの勇気を振り絞って町から出てきた。
たった数か月前の自分に負けてどうする。
「うぅ……っ!」
スピカは小さな礫を手にして、駆け出した。
後のことは何も考えていない。今、自分ができる精一杯をしなければ絶対に後悔する。もう二度と立ち上がれないくらいに心が折れてしまう。
勢いのまま、今にも流音の首を食いちぎろうとしていた黒い魔物に向け、思い切り礫を投げつけてやった。
「ウチの大切なお友達にひどいことしないでっ! 離れるの!」
その声は涙に濡れて、聞くに堪えないものだった。
未だ大きな恐怖に占められていたが、スピカの胸には達成感があった。ちゃんとできた。友達を助けに来られた。
「スピカちゃん逃げて!」
魔物の赤い瞳がこちらを睨み付けていた。あっ、と短い声を漏らす間に、魔物は大きく跳躍し、鋭い爪がスピカを切り裂こうする。
――ああ、ダメだったの……『勇気』だけじゃ……。
足りない。全然足りない。
――力が欲しい。お友達を守れるだけの力が……!
スピカは痛みに耐えるために歯を食いしばった。そのとき頭の中で声が聞こえた。
【――ニーニャの守護者よ】
目の前で光が弾けた。
突如巨大な土壁が出現し、黒い魔物の一撃を跳ね返す。
「……えぇ?」
スピカの目の前に、ふわりふわりと揺れる金色の尻尾があった。黒い魔物のものではない。
雄々しいたてがみを誇らしげに立たせ、現れた巨大な獅子が咆哮する。
なんだお前は、と黒い魔物が激しく唸る。スピカも同じような視線を獅子に向けた。
獅子はその場にいる者全ての疑問に自らの口で答える。
「なに、簡単なことである。乙女の涙に応えぬ者は紳士ではない!」




