50 夢の中でも
ユラは眠るのがあまり好きではなかった。ろくな夢を見ないからだ。
研究に没頭して寝食を忘れるのも、無意識に疲労を蓄積させて夢を覚えていられないようにしたかったのかもしれない。
今夜の夢も目を覚めたら忘れているかもしれないが、できれば覚えていたいと思った。珍しく悪い夢ではなさそうなのだ。
目の前に見覚えのある制服を身に纏った流音がいた。サイカ王国の魔術学院の女子用の制服だ。同じくユラは男子用の制服を着ている。
意識は十七歳のままだが、体は何故か十二歳になっていた。
シークが変なことを言ったせいで、流音と同い年になって学院に通う夢を見ているのだ、とユラはすぐに結論付けた。
「どう? 今回はちょっと自信あるんだ」
「はい。とても美味しいです」
サイカ王国の魔術学院の中庭で、並んでお昼を食べた。
流音が作ってくれたサンドイッチはお世辞抜きで美味しかった。夢の中でちゃんと食事ができるのは初めてだな、とぼんやりと考える。
「良かった。たくさん食べてね。ユラは体が細いから心配」
言われると、確かに制服がだぶついていて不恰好だった。流音の制服姿はとても良く似合っているのに。
ユラは黙々とサンドイッチに手を付けた。夢だと分かっていても焦りがあった。このまま成長が止まり、流音より身長が低くなるのはなんだか嫌だった。
「おい、闇巣食いの子がいる。よそに行こうぜ」
「やだぁ。ちょっと魔術の才能に恵まれたからって、闇巣食いが堂々としないでほしいわ」
「いっちょ前に女の子と一緒じゃん。どこの子だ? チャレンジャーだな」
通りすがりの生徒の陰口が耳に入り、懐かしくなった。あの頃は校舎のどこを歩いていても同じような声を聞いたものだ。
今まで魔境の森で過ごし、砂漠の牢に閉じ込められていた。闇巣食いになって初めて大勢の人に接したのが学院だった。自分に向けられた差別や嫉妬で心はどんどん摩耗していった。
『いい? ユランザ。闇巣食いってのはな、嫌な気持ちになるとどんどん悪化するんだ。少しでも長く自由でいたかったら、気をつけなきゃダメだぜ』
牢を出るとき、チェシャナからそう忠告された。ユラは徹底して心を殺し、表情を固定し、悪意の波をやり過ごしてきた。そのうち慣れて、何も感じなくなった。
しかしさすがに申し訳ない気分になった。彼らにではない。一緒にいる流音まで忌まわしいもののように扱われるのは心苦しい。
「ルノン、すみません。学院では俺と離れていた方がいいです」
「どうして? 何も悪いことしてないもん。気にしちゃダメ」
「ですが、俺と一緒にいるとルノンまでのけ者にされます」
流音はユラの手をそっと握りしめ、真剣な表情で告げた。
「ユラのこと、闇巣食いだからって悪く言うような人とは友達にならない。わたしはユラの味方だもん」
「味方……?」
「うん! わたしはユラのためにここにいるの。だから、一緒にいてもいい?」
その柔らかい微笑みにユラは言葉を失った。
彼女の笑顔は何度も見たはずなのに、顔の高さが同じだというだけでまるで違うもののように感じた。
また、体が若返っている影響なのかもしれないが、自分の精神の未熟さも思い知らされた。
彼女が何と言おうが離れるべきなのに、いつの間にか頷いてしまっていた。
ユラも流音と一緒にいたかった。
夢の中ならば許されるだろうか。
やがて本のページをめくるように、季節が次々と巡っていった。
流音はヴィヴィタとも仲が良く、執拗にからかってくるシークも上手くあしらっていた。しかし他の友達は一向に作らない。そのことにユラは気を揉んだが、同時に安堵もしていた。
彼女の一番がずっと自分であればいいのに、と願ってやまなかった。
一緒に町に出かけ、図書館で勉強し、毎年の誕生日を二人で祝い合う。
隣ではいつも流音がにこにこしていて、ヴィヴィタも楽しそうだった。シークに裏切られて決闘することもなく、何年もの時が一瞬で過ぎていった。
ユラは、そして流音も十六歳になり、魔術学院を卒業する日がやってきた。
本当なら十四歳で卒業したはずの学院に長く居座ってしまった。
流音は文字に不自由していて、卒業までの単位取得に手間取っていたのだ。それでも十六歳で魔術学院を卒業できるなら十分である。
ユラは早く魔術学会に所属し、封印魔術の研究に専念したかったのだが、ずるずると卒業を延ばしていた。
たった一人、流音が隣にいるだけで日々は鮮やかに色づいて見えた。未来よりも今の時間を大切にしたくなるほど幸福に満ちていたのだ。
闇巣食いの行く末は独房への幽閉だということは分かっている。流音と一緒に過ごせる時間はあとわずかだ。
早く手を打たないといけなかったのに、嫌なことから目を逸らして彼女だけを見ていた。いつもどうすれば嫌われないか考えてしまい、自分の勉学が手につかないこともあった。
無事に卒業式を終え、ユラは彼女と約束した中庭に訪れた。
花々の園で佇む流音の姿にユラは息を飲む。
風に揺れる艶やかな黒髪、傷一つない白い肌、清き光を宿すオニキスに似た瞳。
十六歳になった流音は、絵画に描かれている女神のようだった。
女性の美醜など分からない。しかし、今目の前にいる少女がユラの目には至上のものとして映った。
「ユラ!」
彼女が無邪気な笑みを浮かべ、駆け寄ってくる。その姿がたまらなく可愛くて、抱きしめたいと思ってしまった。
当然そんなことはできず、歯がゆさだけが胸に残る。
この気持ちがなんなのか分からない。
少し見下ろす位置にある黒い瞳はきらきらしていた。身長を追いつかれなくて良かったと心から思う。
「卒業まであっという間だったね。なんか残念。もう少し学生気分でいたかったな」
「そうですね。俺もそう思います」
ユラは恐る恐る問いかけた。
「ルノンは……卒業後はどうするんですか?」
「もう! どうして今更そんなこと聞くの?」
「聞きづらかったんです。離れてしまうのが怖くて……」
まごうことなき本心を告げると、流音の頬が桃色に染まった。
「ユラがそんなこと言ってくれるなんて思わなかった……」
流音はそっとユラの手を取り、ぎゅっと握りしめた。十二歳のときとは違い、触れたところから熱を持ち、体温が上昇し始めていた。不可思議だ。
「わたしはこれからもずっとユラと一緒にいたい。だって、ユラのことが大好きだもん」
その夢のような言葉が信じられないと思ったのと同時に、これは夢だと思い出した。
なんて都合の良い、恥ずかしい夢を見ているのだろう。彼女は決してそんなことは言わない。
忘れていたわけではなかった。闇巣食いの自分と一緒にいてくれたのも、流音の言葉が不自由なのも、ちゃんとした理由がある。
彼女はこの世界の人間ではない。ユラが自分勝手な理由で召喚した異世界人だ。
ゆっくりと流音の手を解く。
「……これからひどいことを言います。これは夢なのでどうか許してください。現実では絶対に口にしません」
そして彼女の細い手を包むように握り直す。
夢だと分かっていても口にするには勇気が必要だった。自分の中のあやふやなものを言葉にするのは難しく、戸惑いながら祈るように告げた。
「俺はきみをとても大切に思っています。きっと今はもう、研究に必要だからという理由ではありません。何の理由もなく、ただそばにいてほしいと願ってしまいました。この世界でただ一人、俺のことを想ってくれる優しい人」
現実世界の五歳年下の彼女に言っているのか、夢の世界の同い年の彼女に言っているのか自分でもよく分からなくなっていた。
欲しいものが触れられる距離にある。その事実に目がくらんでいた。
「ルノンさえ良ければ……その、俺は、本当はきみを元の世界には――」
最後まで口にすることはできなかった。
流音の瞳から涙がこぼれたからだ。これが答えなのだろうと思った。
――良かったです。夢の中で……。
ユラは黙って流音の手を離した。
その瞬間、世界が大きく揺らいだ。目が覚めるのだと直感的に理解する。
十六歳の流音は両手を胸に当てて、本当に辛そうに涙を流していた。
自分が彼女にこんな表情をさせてしまったのだと思うと、それだけで死にたくなった。
目を開くと後悔が大波になって押し寄せてきて、両手で顔を覆う。
夢の中でも欲張ってはいけなかった。
「おはよう、ユランザ。どんな夢を見た? 聞いてもいいか?」
声の主を確認するのも億劫だった。ユラは呻くように答える。
「とても、残酷な夢でした」
その日ユラは激しい胸の痛みを得ると同時に、水属性の魔術を失った。




