43 祈り
呼吸をするたび咳き込み、喉の奥がひりつく。
――キュリス! 無事でいて!
流音は茂みをかき分け、闇の炎を避けて進んだ。
頭の中は嫌な想像を打ち消そうとするだけで精一杯で、何も考えてはいなかった。衝動のままに足を動かし、友人の元へ向かう。
やがて辿り着いた泉の縁で、流音は膝から崩れ落ちた。
泉に炎が映り込み、地獄の業火のように蠢く。水薔薇の茨は赤黒い炎に巻かれ、花は炭になっていた。
間に合わなかった。絶望が喉の奥からせり上がってくる。
「おお、ルノン、何をしておる。早うお逃げ」
流音の傍らにキュリスが現れた。
「キュリス!」
大丈夫なの、と問いかけようとした言葉を呑み込む。
キュリスの体は透け、弱々しく明滅していた。しかし水色の瞳が泰然と流音を見据える。
「わらわを心配して来てくれたのじゃな……最期にそなたの顔が見られて良かった。もうお行き」
流音は頭を振る。
「そんな! 嫌だよっ! キュリスは精霊のお姫様なんでしょ? 何とかならないの? どうすればいいか教えて!」
この場を離れることなんてできない。友達とこんなお別れをするなんて耐えられない。
――わたしが、薫くんを怒らせたせいで……!
心の中がぐちゃぐちゃになっていた。
怒り、罪悪感、恐怖、焦り。様々な負の感情とともに涙が溢れてくる。
キュリスが優しく流音の頭を撫でた。水薔薇の華やかな香りがふわりと漂い、しかし一瞬で焦げた臭いでかき消される。
「このような凶暴な炎、この世の自然の理から外れておる。理に組み込まれたわらわにはどうにもならん。しかし、強いものに奪われるのもまた自然の摂理。仕方のないことなのじゃ」
「やめて……仕方がないなんて……その言葉嫌い。キュリスとお別れなんて絶対に嫌……!」
流音は泉に意識を向け、魔力を注ぎ込んだ。魔力を帯びた大量の水を燃え上がる茨の園に振りかけるが、水は蒸発するばかりで炎の勢いを殺すことすらできなかった。
古の魔物――黒竜デューアンサラトの魔力の純度が高すぎて、影響を与えることができないのだ。
それでも流音は水を操ることをやめなかった。こうして少しでも火の手を妨害すれば、闇の炎の魔力が早く尽きるかもしれない。一縷の望みにすがり、奇跡が起こることを信じた。
「もうおやめ。どれだけ願っても、不可能を可能にすることはできぬ。わらわが人間と結ばれぬように、今死を避けられぬように、この世の流れには逆らえぬ。聞き分けておくれ、ルノン。ここでそなたまで命を散らすようなことがあっては、わらわは安らかになれんのじゃ。早う、お逃げ」
流音は奥歯を噛みしめた。
――薫くんが伝えたかったのは……こういうことなの?
こんなひどいことをした薫が憎い。
こんなひどいことが起きる世界を許せない。
何もできない自分の無力さに失望する。
「あっ……」
けたたましい音に振り返ると、炎に蝕まれた木々が傾いできていた。
流音の顔に火の粉が降り注ぎ、そして――。
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精霊は自然界の魔力の循環を補助する大いなる意思。
大地と大気に宿るエネルギーが命を持ち、形を為した者。
本来下賤な人間とは一線を画す存在である。
水薔薇の精霊姫キュリスローザはこの泉の縁で二百年の時を過ごした。
旅人、画家、町の役人、様々な人間を目にし、気まぐれに言葉を交わしてきた。その中でも名前を記憶している者は片手の指の数ほどもいない。
最も古い名前は吟遊詩人の男。
彼の歌声を思い出す度に胸が震える。他の女の元に帰り、もう命絶えて久しい男。それでもあのとき、あの瞬間、自分のために奏でられた調べだけは誰にも渡さない。いつまでも胸の中で響くキュリスの宝物である。
最も新しい名前は異世界からやってきた幼い少女。
彼女が奏でる不思議な笛の音にキュリスは心惹かれた。恋しい男を思い出させ、優しい気持ちになるからだ。
キュリスは少女と友情を結んだ。水辺で踊り、オシャレの話に花を咲かせる時間はかけがえのないものだった。
そして、恋をして日に日に輝いていく少女を見守るのが何より幸せだった。
悠久のときを生きる精霊にとって、一人の人間との接触は短い。一瞬の出来事と言っていい。
あとどれくらい少女と語らう日々が続くだろうと思っていたところだった。
幸せの終わりは唐突に訪れる。
突如森が闇の炎に包まれ、キュリスは自らの最期を悟った。森の精霊たちの苦しみが伝わってくるが、キュリスでさえなす術がない。
こんなことになるなら、古の闇に憑依された少年が森で暮らし始めたとき、追い出すべきだったかもしれない。一目見て分かった。心に感情を灯さず、熱を持たない男。いつか災いを招くかもしれないと内心疑っていた。
野暮と思って少女には告げなかったが、良い男とはお世辞にも言えない。
――しかしルノンよ。わらわより、そなたの男を見る目の方が優れておったようじゃのう。
燃え盛る樹木が流音に向かって倒れていく。その光景がキュリスの瞳には時が止まったようにゆっくりと映りこんだ。
あわやというとき、魔術師の少年が彼女を庇うように覆いかぶさった。流音のために身を挺する姿にキュリスは心を打たれた。
――人の子は、時折このような奇跡を見せてくれるから愛おしい。
自分の命よりも少女を守ることを無意識に選んだ少年。
孤独で冷たい少年を変えた優しい少女。
最後の力を振り絞り、キュリスは倒れくる木を泉の水で払った。寸前のところで二人は下敷きにならずに済む。
その代わり、倒木は水薔薇の園を押し潰した。
キュリスと自然界を結ぶ最後の糸がぷつりと切れた。体を包む光が萎んでいく中、自らの胸に手を当てる。
「ルノン、そなたの宝物を大切におし……さらばじゃ」
無垢な黒い瞳からぽろぽろと涙がこぼれていく。
――ああ、ルノン。泣かないでおくれ。
小さく幼い心が軋む音が聞こえた。彼女を悲しませたくはないのに。
宙に伸ばされる手を取れたらどんなに良いだろう。もう実体化する力はない。声を出すこともできなかった。
「キュリス……消えないでっ!」
消えゆく中、キュリスは切に祈った。
早く逃げて。この闇の炎はすぐさま森を呑み込んでしまうだろう。後には何も残らない。
少年の方は怪我を負っているらしく、痛みで自由に動けないようだった。流音は錯乱して涙を流すばかり。
このままでは二人とも死んでしまう。
――どうか慈悲を。この小さき命たちをお守りください。
祈りを最後に、泡が弾けるようにキュリスは霧散した。
しかし意識が途絶える間際、不思議な声が脳裏に響いた。
【――ニーニャの守護者よ】
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怪我を負ったユラに庇われ、消える間際のキュリスに助けられた。
その瞬間、流音の心は弾けた。
自分がどんなに恵まれているか、どれだけ優しい人たちに守られてきたかを思い知る。
このままでいいのかと心が問う。
――絶対にダメ!
認めない。許さない。諦めない。
心臓の高鳴りとともに全身の血液が沸騰したように熱く脈打つ。
「キュリス……消えないでっ!」
流音は心の底から願い、祈った。
不可能を可能に変える『奇跡』を。
その瞬間、目の前に七つの光の塊が現れた。流音の周りを守るように回り出す。
「どうして……?」
光の正体は屋根裏部屋に置いてあるはずのニーニャカードだった。
「これは、一体……ルノン、何をしたんです?」
「わ、分かんないよ!」
戸惑う流音の胸の前に一際強い光を放つカードが踊り出る。
それは〈薔薇〉のカードだった。頭に赤い薔薇の冠を載せた美しい女性の絵。
目に見えない意思に導かれるように流音が触れると、カードの絵柄ががらりと変わった。
「キュリス……?」
赤薔薇が水色の薔薇に変わり、女性の顔立ちも精霊姫キュリスローザのものに描き変えられる。
【ニーニャの祈りにより〈薔薇〉の守護者は目覚めん】
頭の中で不思議な声が響いた。カードから光の奔流が溢れ出し、形を成していく。
目の前にキュリスが現れ、優美に微笑んだ。
流音が声をかける間もなく、キュリスは上空へ昇り両腕を空に広げる。その姿は夜空に煌々と輝き、女神のようにも天使のようにも見えた。
森に雨が降る。
雨粒はスパンコールのように光り、水薔薇の甘い香りを広げた。闇の炎が消え、森全体が青い光に満たされていく。
「すごいです。古の闇が祓われています……それにこの膨大な魔力は……」
ユラが呆然と呟き、降り注ぐ雨を仰いだ。
雨に呼応するように森の精霊たちも光り出し、歓声と拍手を上げた。森はますます輝きを増す。
「ユラ! ルゥ!」
舌足らずな声に振り返ると、ヴィヴィタが元気よく胸に飛び込んできた。
「ヴィーたん! 大丈夫なの?」
「なんか治った! 痛くない!」
オレンジの体は煤けていたが、どこにも焼けた痕跡はなかった。嬉しそうに流音に頬ずりをする。
「そう言えば俺も痛みが引いています」
ユラの肩の傷もうっすら火傷が残るのみで、ほとんど完治していた。あり得ない光景に流音は驚きつつも安堵の息を吐く。
「良かった……」
ニーニャカードが流音の手元に滑るように収まると、体からがくっと力が抜けた。目の前が真っ白に染まる。ユラとヴィヴィタの慌てた声も遠い。
流音はぼんやりと考えていた。
――青い薔薇の花言葉は……。
奇跡。




