39 初めての恋
流音は恋を知らなかった。
学校の男の子は少し苦手。病気のことでからかわれて以来、近づかないようにしてきた。恋どころか友情も育たない。
クラスの女の子はいつも恋の話題で盛り上がっていた。片想い中の子はもちろん、彼氏がいる子も少なくなく、みんな「結局片想いのときが一番楽しい」と大人ぶって笑う。そんな中、初恋もまだとは言い出せなかった。だから好きな人がいるふりをして話を合わせ、いざ追及されると「秘密」で躱した。疑われていたと思う。
――好きな人は異世界の魔術師さんだよ、なんて言えないね。
だけどもう見栄を張る必要はなくなった。好きな人のことを聞かれたら、ユラのことを話せばいい。きっとみんな「どうしてそんな人を好きになったの?」と不思議がるだろう。流音は上手く答えられる自信がなかった。
「じゃあ行ってきます。くれぐれも結界の外には出ないで下さいね。夜までには帰ります」
「うん、いってらっしゃい。気をつけてね」
家の扉が閉まった途端、流音は背を丸めた。無理して笑う必要がなくなり、悲壮感を全身に纏う。
ユラは王都の図書館へ向かった。流音の魔力機関を永久に封じる、または安全に破壊するための術式を探すためだ。
流音が元の世界に帰るためには魔力を失くし、この世界の〈不適合者〉にならなければならない。魔力機関をどうこうするのはこの世界の人間にとっては禁忌に近い行為だが、その分資料は多い。「これをやると魔力を失くしちゃうから注意!」という文献を探せばいい。ユラは既にいくつかそういう論文を知っているという。その中でも流音に最も適した安全な方法を探してくれる。
ちなみにこの世界の〈不適合者〉は周囲に及ぼす悪影響がひどければ、各国の政府によって他の世界へ送還される。それについてもユラは情報を集めてくるだろう。
もうほとんど目処は立っているらしく、ユラに宣告された残りの時間は二週間くらい。
あと二週間でこの世界ともお別れだ。
「本当に、どうしてユラのこと好きになっちゃったのかな……」
時間が経ってやや冷静になった頭で考えてみる。
――よく考えてみたら怖いよね、わたし……。
流音は思い出す。
ユラは盗賊を闇魔術で殺した。目の前(視界は塞がれていたが)でそのようなことが起こったのに、あのときの流音は「ユラを庇わなきゃ」ということで頭がいっぱいだった。悪い犯罪者とはいえ人が死んだにもかかわらずだ。
そして今もユラを怖いとは思っていない。許容している。とびきり好きな相手じゃないと説明がつかない。
やっぱり気のせいや勘違いではない。
いつだったか薫に聞いた「ストックホルム症候群」でもないと思う。
もしかしたらユラの不運な境遇に同情しているのかもしれない。それは少しあり得るけど、それだけでこんなに胸が苦しくなるだろうか。
「これからどうしよう……どうすればいいの?」
この三日間、いろいろなことを考えすぎてしまい、流音の意識は擦りきれそうになっていた。
頭ががんがんするし、実は微熱が続いている。
「あああああー! もうヤダーっ!!」
腹から声を出し、思う存分じたばたと暴れる。息が切れるまでそれを続け、流音は机に倒れ伏した。
しばらくぐったりしていると、こつんこつんと音がした。
窓辺のカエルと目が合う。キュリスの泉にいた精霊だ。
「どうしたの?」
流音が窓を開けて尋ねると、カエルは泉の方を指差し、ぴょんぴょんと飛び跳ねた。一緒に来て、と言っているようだ。
泉の辺りには結界がない。しかしキュリスがいれば安全だろう。流音はカエルについていくことにした。
「おお、ルノン。せっかく顔の怪我が治ったというのに、大丈夫かえ? ひどく思い悩んでいるようじゃが」
キュリスに迎えられ、流音は恥じ入った。
先ほどの雄叫びが水の精霊を通してキュリスに伝わったらしい。それで心配してくれたようだ。
盗賊の一件については話してある。毎朝ここに水を汲みに来るので、怪我を隠し通せなかったのだ。キュリスは大いに嘆き、水薔薇オイルを流音の顔に塗りたぐった。キュリスが使うと治癒効果が付与されるらしく、おかげで腫れが綺麗に引いた。
「心配かけてごめんね。あの、わたし、実は……」
まだ元の世界に帰ることは伝えていない。いい機会だと思い、流音はキュリスに話すことにした。
「……そうか。残念じゃのう」
キュリスは眉尻を下げたものの、すぐに優美に微笑んだ。
「ルノンのことは決して忘れぬ。もらった衣も大切にしようぞ。健やかに成長するよう祈っておる」
「うん。ありがとう。わたしもキュリスのこと絶対に忘れない」
茨の棘を避けてぎゅっと抱きつくと、キュリスが優しく頭を撫でてくれた。水薔薇の香りに包まれているといろいろなことを思い出し、流音は込み上げてくる涙をこらえた。
「して、別れが寂しくてしょげておるのか?」
「うん……」
「それだけかのう? わらわにはルノンが何かに迷っておるように見えるのじゃが……話せば楽になるかもしれぬぞ?」
「うっ、鋭い」
全て見透かされているらしく、流音は観念して白状することにした。ユラと面識のないキュリスになら相談できる。
「――それでね、ユラのことがす、……好きだって気づいたの。胸が痛くて、頭も痛くて、どうすればいいのか分からない……」
たどたどしい語りだったが、キュリスは熱心に耳を傾けてくれた。それどころか途中からからかうように目を細め、流音の頬を指でつついてくる。
「も、もうキュリス。わたし真剣に悩んでるんだよ?」
「おお、すまぬ。あまりに微笑ましくてのう。恋煩いじゃったか。良いことじゃ」
「全然良くないよ……気づいた途端に失恋なんて」
流音は膝を抱えてため息を吐く。
「どうしても帰らねばならぬのか?」
「うん。すっごく考えてみたけど、やっぱりこの世界に残るのはね、現実的じゃないと思うの」
この世界に来て五か月近くになる。素敵な友達ができ、町にも馴染み、家事にも慣れ、魔術の修業も楽しかった。ユラ以外にも後ろ髪引かれる要素はたくさんある。
しかし元の世界の重さは変わらない。
「この世界に残るってことは、今までの十何年間分、全部捨てるようなものだもん」
たくさん迷惑をかけたのに、母には一つも親孝行できていない。
元の世界で学んだ知識、友達との約束、お気に入りの小物たち、故郷。
それら全てを諦めてまでこの世界に残りたいとは、まだ思えない。
「それに、ユラがわたしのこと好きになってくれるわけない」
「なぜじゃ?」
「だって、五歳も年下だし、ユラは恋愛に興味なさそうだし、闇巣食いをどうにかできないと一緒にいることも難しいみたいだし……」
どうあがいても、この恋に未来はない。
「だからね、これ以上好きにならないようにしてるの。でも意識すると余計にユラのこと見ちゃうし、考えちゃうし、胸がつかえてご飯も美味しくなくて……早く忘れなくちゃダメだね」
流音は目の端に滲んだ涙を拭った。
様々な感情が好き勝手に流れ、溺れてしまいそうだった。胸が痛くてたまらない。
「恋をして、なぜ浮かない顔をする? 宝物ができたのじゃ。大切におし」
キュリスが自らの胸に手を当てた。まるでそこに宝物があるかのような優しい仕草だった。
「……もしかして、キュリスも恋をしたことがあるの?」
「ああ、あるとも。もう百年以上昔の話じゃ。この森で生き倒れておった吟遊詩人を気まぐれに助けてやったら、お礼に歌をくれた。それがとても嬉しくてのう。ころっと参ってしまったのじゃ。人の男相手に惑うなぞ、わらわも若かったのう」
「人間の男の人と? ど、どうなったの?」
「男は故郷に婚約者を待たせていると、すぐに帰ってしまった。わらわは想いを告げることすらできず、代わりに水薔薇を一株やった。人の子の手では育てられんのじゃが、男の歌には不思議な力があったから、もしかしたらと思うてな。どこか遠い地でわらわと同じ水薔薇が咲いていると良いんじゃが」
「……なんか、悲しい話だね」
流音が俯くと、キュリスは首を横に振った。その顔には一切の憂いも切なさもなく、ただ幸福に満ちていた。
「わらわはあやつを好きになったことを後悔してはおらん。想いを告げなかったこともじゃ。所詮精霊と人間の恋なぞ叶わぬと分かっていた。だが、どれだけ苦しくとも、恋をしておると胸が弾む。狂おしい痛みさえ愛おしくなる。もう二度と会えぬと分かっていてもなお、想いは消えぬ」
「キュリスはまだ……その人のことが好きなんだ」
キュリスは悪戯っぽく笑う。
「未練がましいかもしれんが、これからもずっと好きじゃろうな。じゃが、別に良かろう? 誰に迷惑をかけるわけでもない」
そのとき、目から鱗が落ちたような気がした。
――そっか。ずっと好きでいていいんだ。
両想いになれないと決まった時点で、失恋するのだと思い込んでいた。この心を捨てる方法や胸の痛みを消す方法ばかり考えていて、それが途方もなく辛かった。
自分の心は好きにしていい。自由でいい。
会えなくて寂しくても、好きな気持ちは変わらない。いつか恋心が薄らいでいく日が来るかもしれないけど、いきなり消えてなくなったりはしないのだ。
「わらわはこの恋を誇りに思うておるよ。報われなくとも、あやつの幸せを願い続けている。自己満足やら、自己陶酔やら、風の精霊たちには散々笑われたがのう」
「よ、よく分かんないけど、笑う要素はないよ。キュリスはすごい!」
流音は気づいた。
この三日間、自分のことばかり考えていた。ユラの幸せについてはまるで頭になかったのだ。
「おかえりなさい!」
「た、ただいまです」
夕方、一人と一匹が帰ってきた。抱きついてきたヴィヴィタを撫でながら、流音はユラをにこやかに見上げる。
「どうしました? なんだかご機嫌ですね」
「うん。いろいろ吹っ切れたから」
「はぁ、それは良いことです。……お土産です」
ユラが差し出した包みを受け取る。マドレーヌに似た焼き菓子だった。
「え、ありがとう。お土産買ってきてくれるなんて思わなかった」
「元気がないようだったので。必要なかったでしょうか」
「ううん。すっごく嬉しい。食べるのがもったいないくらい……」
小さな焼き菓子一つでこんなにも胸が高鳴るのが信じられなかった。
「でも一つだけなの? ユラとヴィーたんの分は?」
ユラがきょとんと首を傾げたので、流音は早々に察した。ユラには誰かと分け合うという感覚があまりないらしい。
「もう……じゃあ後で三等分するね。その前に、お話があります」
流音はユラを強引に椅子に座らせ、自らも向かい側に座る。
「なんですか、改まって」
「わたし、やっぱりもう少しこっちの世界にいたい。ユラの研究をちゃんとお手伝いしたいの」
流音は必死に話した。
もう危険な目に遭わないように気をつける。もしものときのための魔術も頑張って覚える。このまま元の世界に帰っても、やり残したことが気になってすっきりしない。
「だからお願い」
流音にとってこの選択はもろ刃の剣だった。
これ以上一緒にいたらもっとユラのことを好きになってしまう。別れが辛くなるに決まっている。
だけど、好きな人の役に立てれば、この恋を誇りに思えるだろう。報われなくても幸せを感じられる。キュリスの域に達するのは難しいかもしれないが、流音も初めての恋を大切にしたかった。
「ルノン、それはダメです。俺はもう――」
「嫌! 勝手に連れてこられたんだもん。帰るタイミングくらい、わたしに決めさせてくれたっていいと思う」
「ですが、またケガをさせてしまったら」
「そんなに迷惑? わたし、いない方がいいのかな、ヴィーたん」
「そんなはずない! ルゥがいた方がおいらもユラも嬉しい!」
断られそうな雰囲気を察し、躊躇いなく先手を打つ流音。ユラは痛みをこらえるように顔をしかめた。
「……どうして急にそんなことを言い出すんです? 俺の研究のことなんか気にせず、元の世界に帰った方が賢いと思います」
「わたし気づいたの。ううん、思い出したって言ったほうがいいかな」
台所から包丁を持ち出すと、ユラはぎょっとして身構えた。刺されるとでも思ったのだろうか。心外である。
流音はお土産の焼き菓子を三等分してユラとヴィヴィタに渡した。
「美味しいものを一人でたくさん食べるよりも、ちょこっとずつでもみんなで食べた方が美味しいんだよ。幸せも同じだと思う」
ユラの研究が完成し、古の魔物の封印をきつくすれば闇巣食いが治るかもしれない。ユラはみんなと同じように生きられて、幸せになることもできるだろう。そうなれば流音も嬉しい。
謎の論理です、と呟いてユラは焼き菓子を見つめた。
「……俺としては研究が進むのは助かります。でも、ルノンが痛い思いをするのはもう嫌なんです。どちらがいいのか分かりません」
「そういうときは本人の意思を尊重すればいいと思う」
流音が力説すると、ユラは小さく息を吐いた。
「本当にいいんですか?」
「うん! 後悔しない!」
「分かりました。改めてお願いします。俺の研究を手伝ってください」
流音は元気良く頷いた。
「やった! ルゥとまだ一緒にいられる!」
その後二人と一匹は三等分した焼き菓子を頬張った。
噛んだ瞬間、じゅわりとバターが染み出し、ハチミツのようなまろやかな甘みが口いっぱいに広がる。
「これ……美味しいですね」
ユラの言葉が嬉しくて、流音の胸はいっぱいになった。




