37 芽生えた気持ち
村に戻ると、流音は真っ先にアッシュに会いに行った。
お互い顔の怪我に目を丸くしたものの、すぐに痕もなく治ることを報告し合って胸を撫で下ろした。
たくさんお礼を言ったが、アッシュはどの言葉も素直には受け取ってくれなかった。「何もできなかったから」と悔しそうに俯くので、流音はそれ以上何も言えなくなる。
村の娘たちも家族と再会し、騎士たちから事後の説明が行われた。喜びと安堵の声が溢れるかと思いきや、曇天に怒号と悲鳴が響いた。
「お前のせいか! 闇巣食いの疫病神!」
「俺たちを騙してやがったんだな!」
「ああ、恐ろしいっ! 早く出ていって!」
村人たちはユラに非難の視線を向けた。
――どうして?
流音には意味が分からなかった。
ユラのおかげで川の氾濫が収まり、村の財産や娘たちを取り返すことができたのに。
確かに盗賊たちはユラに恨みを持っていた。無関係の村を巻き込んだことは事実かもしれない。だけど、悪いのは全て盗賊たちだ。なぜそんな簡単なことが分からないのだろう。
「ユラは何も悪くない。どうしてそんな風に言うの? ひどいよ……」
流音の悲しみに満ちた声に大人たちは気まずそうに顔を見合わせた。
「いいです、ルノン。仕方のないことです。俺は気にしていません」
ユラはいつもの無表情、いつもの淡々とした口調だった。流音は納得できずに唇を噛む。
「そうそう。仕方がない。ユラの日頃の行いが悪いんだよ? お嬢さん」
シークが娯楽への感想を述べるような気楽さで言った。
「それに……ここにいるのは、散々助けられたくせに無礼な口の利き方しかできない、卑しくて教養のない人たちばかりなんだ。怒るだけエネルギーの無駄。やっぱりこの国もうヤバいな。国民性まで泥沼じゃん。あははー」
どよめく村人たち。高貴な騎士の毒舌に動揺が広がる。
――シーク……もしかしてユラを庇ってくれてるの?
すぐにレイアがシークを殴りつけ、今の発言は騎士団の公的なものではないことを宣言した。
胸にわだかまりを残したまま、流音たちは追い出されるように村を後にした。
夜。
ダイニングの机で眠るヴィヴィタに、流音はタオルをかけた。布団代わりだ。呼吸に合わせて上下するお腹を見ているだけで癒される。
家のドアが開き、ユラが目を丸くした。
「ルノン? まだ眠ってなかったんですか」
「うん。どこ行ってたの?」
ユラ曰く、家の周囲に張っていた結界を強化してきたらしい。今までその存在すら知らなかった流音は驚きつつも、心配になった。彼の顔色が悪い。
「そんなに魔力を使って大丈夫なの?」
「ええ、さすがに疲れました。今日は俺ももう寝ます」
寝る支度を始めたユラを見ないように背を向けつつ、流音はその場に留まる。屋根裏部屋に戻る気になれない。
「どうしました? もしかして、眠れないんですか?」
「うん。車でちょっと寝たし……」
一度は布団に入ったものの、目を瞑るといろいろと考えてしまうのだ。
今日起こったこと。感じた恐怖と痛み、思った以上に育っていたユラへの信頼。
盗賊が言っていた言葉も気になる。
神子様、闇の時代の再来、闇巣食いの救済……。
途方もない陰謀が水面下で進んでいるようだった。あまり関係ないとは思うのに、どうしてか他人事とは思えない。嫌な予感がする。
それに、村人たちの態度にもまだ腹を立てていた。ああいう偏見や差別が闇巣食いを犯罪に走らせているに違いない。
シークの存在も無視できなかった。結局お礼も言いそびれている。ユラと仲直りできる可能性がないか、もう一度会って確かめられないだろうか。
とにかく流音の頭の中は考えることがいっぱいで、ぐちゃぐちゃだった。
「ゆ、ユラ……あの、今日だけ……一緒に寝ちゃダメ?」
十二歳にもなってこんなことを言うのはとても恥ずかしい。もっと幼い頃、つい心霊特集の番組を観てしまったときだって、母に甘えず震えながら寝た。だけどここに母はいない。
この世界にいる間は家族に遠慮しないと決めたし、宣言もしてある。少しくらい子どもっぽいことをしても許されるはず。
なんだかとても甘えたい気分だった。
ユラに我がままを言って許してもらうのが最近一番のお気に入りである。
長い沈黙の末、ユラは「はぁ、いいですけど」と困惑気味に頷いた。
急いで枕を取りに行き、研究室のベッドに二つ並べる。
「えへへ、ありがとう」
「今夜だけです」
「わ、分かってるもん。あ、寝顔は見ないでね。あと寝相悪かったらごめんね」
「ルノンも気をつけて下さい。多分大丈夫だと思いますけど、俺は寝ぼけると大変らしいです」
そう言えば初めてこの世界に来た日、ヴィヴィタに忠告された気がする。確か「八つ裂き」とか。
流音はいろいろな意味でドキドキしながら布団に潜った。ぎりぎり触れるかどうかの距離にユラの気配を感じる。
黙って眠るのがもったいなくて流音は思いついたまま口を開く。
「ねぇ、ユラ。明日はどうする? また町に魔力鑑定に行く?」
「いえ。魔力が完全に回復してからの方がいいですよ……」
「そっか。今日、なんだかおかしかったよね。あのとき、水の魔力以外を感じたの。不思議」
魔力を抑えていた首輪が砕けた瞬間、白い光が広がった。光属性の魔力のようだったけど、少し違う。実際、先ほど部屋で光属性の魔力を意識して引き出そうとしてみたが、同じことはできなかった。杖を使ってもうんともすんとも反応しない。
「ストレスかな? 変な魔力になってたらどうしよう。ユラの研究の影響あるかな?」
ユラが急に体を起こした。びっくりして流音も起き上がる。
「ルノン……やっぱり、今言っておきます」
薄闇の中で深緑の瞳が光る。潤んでいるように見えた。
「明日から、きみの魔力を封じる術と送還魔術の準備をしようと思います。今まですみませんでした。一日も早く、きみを元の世界に帰します」
何を言われているのかすぐには分からず、流音は瞬きを繰り返した。
「俺は自分のしたことを思い知り、反省しました。たった数か月一緒に暮らしただけの俺でさえ、きみが連れ去られてひどく動揺しました。きみの本物の家族は、それとは比べ物にならないほど苦しんでいるでしょう。俺はそんなことも分からなかった。ダメ人間です」
しょんぼりと頭を下げるユラを、流音は信じられない想いで見つめた。
「でも、ユラ……研究は? わたしの魔力を使うんじゃないの?」
「……なんとかします。俺一人でも発動できるように術式を改良していきます。完成までの時間はかかるでしょうが、どのみちきみを帰さないとこれからの研究に集中できません。……ああ、邪魔という意味ではないです」
そんなフォローはどうでもいい。流音は自分でもよく分からない衝動に突き動かされ、ユラのシャツの袖を掴んだ。
「ほ、本当にそれでいいの? だって、ユラにはあんまり時間がないんじゃ……。わたしがあと数か月こっちにいれば、予定通りに研究が完成するんでしょ? わたしは別に……」
「ありがとうございます。でももういいんです。今日と同じことが起こったら、次はきみを取り戻せないかもしれません。俺への憎悪が代わりにきみに向かうのは耐え難いことです。ルノンも怖い思いをするのはもう嫌でしょう?」
ユラの心は既に決まっているようだった。
流音を安全な世界へ帰す。これが彼の精一杯の優しさで、誠意であることは理解できた。
要らないと言われたわけではない。大切にされている。気を遣われている。今までのユラからは考えられないほどの思いやりだと思う。
だから文句は言えない。むしろどうして文句を言いたくなっているのかが分からない。
――変なの……。
最初から元の世界に帰ることは決まっていた。
帰りたい。母に会いたい。元気になって普通の子と同じように学校に行きたい。
その願いが思っていたより早く実現しそうなのに、どうして喜べないのだろう。どうして元の世界での生活が色褪せたように感じるのだろう。
答えは喉元にまでせり上がっていたが、素直に口に出すことはできなかった。代わりにユラに問う。
「ユラは、寂しくないの?」
くしゃくしゃな声にユラは驚いたようだった。だけどいつになく優しく目を細める。
「少しだけ寂しいです。でも平気です。仮初でも家族が傷つくよりはマシです」
その答えが悲しくて悔しくて、流音は枕に突っ伏した。今日は泣きすぎて目元が痛い。
「……み、みんなにも、お別れしなきゃ」
言葉ではそう言いながらも、『みんな』の顔はぼんやりとしか浮かんでこなかった。たくさんお世話になったのに薄情だ。流音は小さく唸る。
「急のことですみません。俺はまた勝手なことを言っているでしょうか。あの……もしかして怒っていますか?」
「……ううん。もう寝る。おやすみ」
ユラが困っている気配がしたが、流音は無視して布団を頭から被る。
糸がぷつりと切れてしまった気がして、体に力が入らない。
――ユラは少しだけなの? わたしは寂しい……すごく寂しい。
この気持ちはなに?
胸が潰れてしまいそう。今まで経験した体調不良とは一線を画す痛みだった。まるで質が違う。
――ああ、そうか、わたし……。
そのとき、「これがそうなんだ」と気づいた。
ユラのそばにいたかった。役に立ちたかった。一緒にお出かけしたり、ご飯を食べたり、魔術を教えてもらったり、研究に打ち込んでいる横顔を眺めていたかった。
ずっとどきどきしていたのに、どうして今まで気づかなかったのだろう。
心の奥底にあった蓋が開いて想いがどんどん溢れてくる。止まらない。
ユラはひどい。ずるい。無神経だし、ケチだし、何にも面白い話をしてくれない。
でもたまに流音が望んだ以上の優しさをくれる。狙ってないくせに心の真ん中を撃ち抜いてくる。
もう容易く家族だなんて言えなかった。つい今しがた子どもっぽく甘えたことを激しく悔いる。
――どうして今更気づいちゃったんだろう。全然楽しくない。最悪だよ……。
もっときらきらしたものだと思っていた。心が弾むような素敵なものだと夢見ていたのに。
流音の初恋は苦々しい後悔から生まれた。




