2 誘拐されました
流音は目を見張る。
人形みたいに美しい少年だった。
歳は十六、七歳くらいだろうか。近所の高校生と同じくらい。
声を聴いていなければ女性と見間違うほど中性的な容姿だ。
肩まで伸びた赤茶色の髪が顔の右半分を不自然に隠している。
どうしてだろうという疑問はすぐに解けた。赤い瞳のせいで目立たなかったが、右目の下に三センチほどの傷が垣間見えた。
こう思っては失礼かもしれないが、その痛々しい傷が少年の唯一の人間らしい部分だった。それ以外のパーツは整いすぎていて、どこか造り物めいている。
――こ、コスプレイヤーさん……?
少年は丈の長い黒いコートを羽織っていた。ローブと言い換えてもいい。日常ではまず見かけない服装だが、少年には不思議と似合っている。
漫画やゲームのキャラクターがそのまま目の前に立っている感じで、現実感がない。
――ここ、どこなの?
先ほどまで桜の木の下を歩いていたのに、いつの間にか土壁に囲まれた薄暗い場所にいる。少年の足元に置かれているランプの光で何とか周囲を確認できた。
――穴に落ちて地下に……? ううん、そんなんじゃないよね?
呆然と周りを見渡す。
流音が座り込んでいる地面には、線が走っていた。
大きな円の中に納まるように星が描かれ、アルファベットに似た文字がびっしりと書き込まれている。その中央で、流音は座り込んでいた。
星マークの尖がった部分には、花や剣、動物の頭蓋骨のようなものが置かれている。
――えっと……もしかして、魔法陣? なんかの儀式?
漫画やアニメでしか見たことがないものが、足の下に広がっていた。
流音ははっと気づく。
よく見ると魔法陣の色が赤黒い。鉄の匂いもする。
多分、血液だ。
流音は慌てて立ち上がり、制服のスカートを払った。手に赤色が付着し、泣きそうになる。
目の前の少年は、それを黙って見ている。
「この人誰!? 吸血鬼? 悪魔? ここは魔界? それとも地獄? わたし、もしかして本当に死んじゃったの!?」
もう限界だった。涙混じりの声で叫ぶ。
『いえ、俺は魔術師です。ここはただの洞窟。そしてきみは生きています』
「ひっ」
目の前の少年は口を動かしていない。その声は流音の頭の中に響いてきた。
『驚かせてすみません。俺も驚いています』
わなわな震える流音とは違い、少年の表情は一ミリも動いていない。とても信じられなかった。
『〈心話〉は疲れるので、先に〈洗礼〉をさせて下さい。話はそれからです』
何の躊躇いもなく、少年は自らの親指を噛んだ。血がすーっと白い肌に零れ落ちる。
そして、その血に濡れた指を近づけてきた。
流音はイヤイヤと首を振り、後ずさる。
『〈洗礼〉を受けないと、損をするのはきみです。言葉が通じません』
「な、何それ……何を言ってるの?」
『分かりませんか? 本当に困りました。随分知能の低い人間を呼び出してしまったようですね』
頭の中で声が聞こえる原理も、少年の言っていることもさっぱり分からないが、馬鹿にされていることは何となく理解した。
『まぁ、いいです。その方が扱いやすい面もあるでしょう。きみの名前を教えて下さい』
知らない人に個人情報を教えてはいけません、と母にも学校の先生にもきつく言われている。流音はその教えに従い、口を閉ざした。
『名乗らないなら、適当に……面倒ですね。一号と呼ぶことにしましょう』
「イヤ!」
反射的に叫んでいた。
『イヤ、という名前ですか?』
本気なのか、とぼけているのか、少年の無表情からは何も読み取れない。
流音は渋々答えた。一号と呼ばれるのはとても不愉快だ。
「若山、流音」
『ワカヤマ・ルノン……ファーストネームはどちらです?』
「……流音」
少年は頷き、素早く腕を伸ばして流音の肩を掴んだ。
恐怖で身が竦んで動けなかった。
少年の血濡れの親指が、左の耳たぶ、右の耳たぶ、喉元の順に軽く触れていく。
「――――」
初めて少年が自らの口で言葉を紡いだ。が、何を言っているのか流音には分からない。めちゃくちゃな外国語に聞こえる。
混乱する流音を見て、少年がぱちぱちとまばたきをした。
【大いなる英知よ。この地を踏む新たな生命――ルノンに、言霊の加護を与えたまえ】
頭に呪文が響いた瞬間、全身が光に包まれた。
光がとても温かかく優しかったので、流音は悲鳴をあげずにいられた。
「ルノン、俺の言葉は分かりますか?」
光が萎むと、少年はポケットから包帯を取り出し、親指に巻きつけ始めた。流音はおずおずと頷く。彼の言葉が日本語として聞こえたのだ。
少し考え、流音は恐々と口を開く。
「あなたは、誰?」
「俺はユランザ・ファウストと言います。ユラと呼んでください。先ほども言ったとおり、魔術師です」
日本人ではないことにまず驚き、彼の職業に改めて仰天する。
「ま、魔術師って、魔法使いみたいなもの?」
「似て非なるものです」
嘘だ、とすぐに思った。
サンタの正体を幼稚園児のときに見破っていた流音である。魔術も魔法も実際には存在しないものだと知っていた。
しかし、頭に響いた声や、体を満たした光が何かのトリックだとも思えない。突然この洞窟にワープしたことも、魔術でも使われないと説明できない気がする。
さらに都合の悪いことに気づいた。
先ほどまで赤く輝いていたユラの瞳が、今は深い緑色に変わっている。一瞬で目の色が変わるなんて、普通ではあり得ない。
――本物!? 信じられないけど、でも……。
流音は完全に混乱していた。
「魔術師なんて、そんなの……」
「きみのいた世界では存在しませんか? それとも絶滅していますか?」
「世界?」
ユラはゆっくりと告げた。
「ここは、きみのいた世界とは別の世界……きみにとっては異世界です」
異世界。
そのワードに流音は呆気にとられる。
「えっと……どうして? なんでわたし、ここにいるの?」
「俺が連れてきたからです。召喚魔術で」
この状況を的確に表す言葉を流音は見つけた。
「誘拐?」
「そうですね。きみからすれば、俺は誘拐犯といって差し支えありません」
少年はあっさり認める。
「な、何が目的なの? わたしのこと、どうするの?」
「そう警戒しないで下さい。むやみに子どもを傷つける研究はしていません。そんな趣味もありません。話すと長くなります。家で説明しましょう。ここは空気が悪いです」
指摘されると、途端に血生臭さが増した気がした。
家についていくなんてとんでもないが、この場所にとどまるのも嫌だ。
――魔術師とか、異世界とか、意味分かんないけど、とりあえず落ち着こう……。
十一歳とは思えないほど賢くてしっかりしている、とご近所で評判の流音である。
誘拐犯が相手でも立派に対応しようと意気込む。
流音は控えめにユラを見上げた。
彼の顔からは何の感情も感じ取れない。敵意や悪意もだ。
目の色が深緑に変わってからは、不思議と怖くなかった。
歳がそう離れていないせいもあるかもしれない。流音がテレビドラマで見た「誘拐犯」はもっと大人で、嫌な笑顔を浮かべていた。
――今のところ、手荒なことはされなさそう、かな?
ユラを信用するわけにもいかないが、今は黙って従おうと流音は決める。抵抗したらいきなりキレるかもしれないし、何か事を起こすなら周りに他の人間がいるときにすべきだ。
自分の判断に満足して流音は頷いた。
「きみは身なりがいいのに、こんなに荷物を運んで……貴族の家でメイド見習いでもしていたのですか?」
ユラの言葉に流音は自らの服装を見下ろす。
小学校指定の、ワンピースタイプの濃紺の制服だ。胸元に大きな赤いリボンがあるが、全体的に上品で大人しいデザインである。
この世界のメイドはこういう服を着ているのだろうか。そもそも流音は喫茶店で働くコスプレ的なメイドしか知らない。
貴族の屋敷で働く本物のメイドさん。少しだけ見てみたい。
――て、何考えてるの、わたし。メイドさんのことなんて今はどうでもいいのに。
好奇心で思考があらぬ方向へ向くのは流音の悪い癖――というか数少ない子どもらしい部分であった。
ユラがランプと地面に落ちていた流音の荷物を持ち上げ、先に歩き始める。
自分で持つ、と言う間もなかった。流音は通学用のリュックを背負い直し、その背を追いかける。
洞窟は緩やかにカーブしていた。
少し歩いただけで光が差しこみ、流音は出口で目を細める。
外は深い森だった。瑞々しい空気に、思わず深呼吸してしまう。
空は高く、紫がかった青が広がっていた。森には幹がくねった木々が生い茂り、毒々しい色の花が咲き乱れ、見上げるほど大きなキノコが群生している。
――童話の中に迷い込んだみたい……悪い魔女に会いそう。
気候は穏やかだった。寒くも暑くもないし、湿気も気にならない。
「この先です」
ユラは獣道を進む。
こんな場所ではぐれるわけにはいかない。流音は恐る恐る後に続く。
「そうだ、体調はどうですか? 気持ち悪かったり、頭が痛んだりしませんか?」
「え……だ、大丈夫」
そう言えばさっきまで具合が悪かったのに、今は健康そのものだ。羽が生えたように体が軽い。不思議だ。
――びっくりしすぎて治ったのかも……。
その可能性は大いにあった。
流音は未だにこの状況をまるで把握できていない。
森の中には目を疑うものが溢れていた。
赤と青のマーブル模様のリンゴ、自分の顔と同じ大きさの蜘蛛、人間のように腹を抱えて笑う猿……。
驚きすぎて言葉も出てこない。
ユラを質問攻めにしたいが、考えることがいっぱいでちっともまとまらない。
――本当に異世界なんだ……どうしよう。
きょろきょろと忙しく首を動かしていたせいで、足元への意識が散漫になっていた。
「はわっ」
わずかなくぼみに足を取られ、流音は盛大に転んだ。
手の平と膝が痛い。そして何より、視線が痛い。
「…………大丈夫ですか?」
ちっとも大丈夫ではなかった。恥ずかしくて死にそうになる。が、いつまでも地面に引っ付いているわけにもいかず、流音は涙をこらえて立ち上がった。幸い、手も膝も赤くなっただけでケガはない。
ユラは助け起こそうという素振りを一切見せなかった。義務のように大丈夫か問いかけるだけ。
――この人……キライ。
転んだのは自分の不注意だが、この状況に陥れたのは間違いなくユラだ。
恨むのは筋違い、ということもないだろう。
流音に睨まれても、ユラは涼しい顔を崩さなかった。