19 修業と準備
ごくり。
ヴィヴィタが固唾を飲んで見守る中、流音は桶の水の中に杖を向ける。
――集中、集中、集中……。
杖の先の葉が青い粒子を放ち始める。
この杖には自分の魔力を視覚化してくれる効果があった。目に見えるだけで、魔力の操作がかなりしやすくなる。
「えいっ!」
気合のかけ声とともに、魔力を思い切り水の中に注入した。
ぱぁんっ、と水風船が弾けたような音が響く。
「ふえぇ……」
水が飛散し、桶の中が空っぽになっていた。
流音とヴィヴィタは頭から水浸しだ。家の外で良かった。
ヴィヴィタを拭いてやろうと流音はハンカチを取り出す。
「ご、ごめんね、ヴィーたん。失敗しちゃった」
「ううん。おいら、大丈夫。こんなのすぐ乾く! それより今の失敗? 今までと違った!」
「そうですね。目覚ましい進歩です。少なくとも魔力の注入はできていました。注入しすぎて爆発してしまっただけです」
少し離れた場所で流音の様子を見ていたユラが頷く。この失敗を予見していたようで腹が立ったが、褒められたので流音は文句を呑み込む。
「本当? できてた?」
「はい。その調子で今度はもっとゆっくり、少なめに注いでみて下さい」
「う、うん」
水を汲み直し、何度も挑戦した。
慎重に、まんべんなく、優しく、少しずつ。
数時間後。
流音は体の力を抜き、静かな水面を見つめる。
杖を構えて念じると、青い粒子が水に溶け込んでいった。
自分と水を一つにするイメージ。
流音が無言で杖を動かす。すると、水がゆっくりと持ち上がり、空中で綺麗な円を描いた。
「やった!」
喜んだ瞬間、水の輪が歪んだが、壊れることはなかった。自分の手足のように動く。
「ルゥ、すごい!」
ヴィヴィタが水の輪を嬉しそうにくぐり、ユラを呼びに飛んでいった。
「……合格です。よく頑張りましたね」
ユラが小さく頷いた。
杖を使った修業を始めて三日目のことだった。
「ほう、それは良かったのう」
「えへへ」
流音はキュリスに会いに泉に来ていた。
修業の成果を報告すると、キュリスは自分のことのように目を細めた。
「でも、本番はこれからだもん。合成魔術のしくみを聞いたけど意味が分からないの。魔術レベルはΔで一番簡単だってユラは言うけど……」
まずは水薔薇オイルを使わず、安い材料で練習することになっている。それでさえ上手くできなければ、人に売る商品を作るなど夢のまた夢だ。
「人間の基準はよく分からぬが、ひたむきに励むことじゃ。何事も一歩ずつ成し遂げていくものじゃろう?」
わらわはあまり歩かぬがの、とキュリスは声をあげて笑う。
「それにしても、水薔薇オイルは娘子に大人気なのじゃな。紛い物まで出回るのは許せぬが、なかなか気分が良い。常に美しく咲きたいという気持ちはわらわも人の娘子も同じじゃ。良い石鹸を作り、たくさん売ってきておくれ」
流音は硬い表情で頷く。プレッシャーが肩にのしかかっていた。
あと十日ほどで魔術を成功させなければならない。一歩ずつ進んでいきたいところだが、流音には時間がないのだ。
「うん、頑張る。それでね、本物の水薔薇オイルを使っていますって証明するために、キュリスの精霊紋っていうのが必要なの。この紙につけてくれる?」
流音はスピカに渡された紙を広げる。
これも出店への条件の一つだ。スピカの父、つまりメテルの町長曰く、他の商人の手前、「精霊姫キュリスローザの許可を取って販売している」という証明が必要なのだという。
「ああ、この紙には見覚えがあるのう。何十年か前に森の水脈調査にきた人間どもにも頼まれたやつじゃ」
「そう。そのときの精霊紋と照らし合わせて、キュリスのものか確認してくれるんだって」
「なるほど。しかし人間というものは誠に面倒な生き物よ」
キュリスは紙に手を当て、魔力を込めた。揺らめくような青い手形が紙に浮かび上がる。これが精霊紋だ。
「わぁ、綺麗……。ありがとう、キュリス」
「礼には及ばぬ。ルノンにあらぬ疑いを持たれるのは、わらわも望まぬことじゃ」
また後日水薔薇オイルをもらいに来ることを約束して、二人は別れた。
休む間もなく流音は町の図書館へ向かった。
「すごく綺麗な青なの。これが精霊のお姫様の手形……」
スピカがキュリスの精霊紋を見て、頬に手を当てうっとりとため息を落とした。流音がその様子を見つめていると我に返って小さくなる。
「じゃ、じゃあ、お姉ちゃんに頼んで照合してもらうの。参加料とユランザさんのサインも確かにお預かりするの」
「うん。お、お願いします」
土壇場で飛び入りするのは申し訳ないので、先に凪の市への参加申し込みをすることにした。つまり、もう後には引けない。
もしも石鹸を作れなかったらスピカたちに迷惑をかけた上、ユラへの借金だけが残る。
――うう、やっぱりプレッシャー……。
流音の震える手を見て、スピカがそっと肩を叩いた。
「価格の設定や露店の準備は、ウチとお姉ちゃんでやっておくの。ルノンちゃんは魔術の練習に集中してほしいの」
願ってもない言葉に流音はすがりついた。
「本当? 甘えていい? すごく助かる」
「任せてなの。その代わり、ちょっと失敗しちゃった水薔薇石鹸があったら、ウチに安く買わせてほしいの。コネの有効利用なの」
ふんわりと微笑むスピカに流音はぎゅっと抱きつく。
「そんなのただでいいよ。ううん、むしろ売り上げだってスピカちゃんとペルネさんと分けるからね」
「お姉ちゃんは役人だから副業はダメなの。ウチが代わりにお礼しとくから気にしなくていいの。頑張ってね、ルノンちゃん」
流音は友達からの優しい言葉に何度も頷いた。
ユラは金型に入れた材料に手をかざし、詠唱した。
【清き泡沫、顕現せよ】
すると材料が淡い光を放ち、瞬きをする間に混ざり合って固まった。
型の中に白く滑らかな塊が現れる。
「こんな感じです。やってみて下さい。これは水属性の魔術なので、きみは詠唱しなくてもでき――」
「できないよ。簡単に言わないで」
流音はユラが合成した物体を型から取り出し、触れてみた。安いオイルを代用しているので良い匂いはしないが、乾いた固形石鹸が出来上がっている。
「うー、形も綺麗……」
「石鹸作りに関してはかなり研究しました。本職の人間にも負けません」
流音はユラが作った変な匂いのする石鹸を思い出した。あれは森で手に入る材料でも泡立つように研究して作ったらしい。ちゃんとした材料を使えば、町で売っているものと同じものが作れるのだ。
少しお金を出せばいいものが作れるのにどこまでもケチな人だな、と流音は呆れた。
「魔力で材料を溶かし、融合させて、形を作って、余分な水分を消す。それだけです」
ユラは魔術円を描いた紙を広げ、文字や記号の解説をした。
この世界の魔術円はカンニングペーパーのようなものだ。本来頭の中で構築する術式を記しておき、間違えないようにするためのもの。それ自体には効力はない。
「原理を全て理解するのが一番ですが、今はそうも言っていられません」
この世界の文字も魔術の記号も流音には分からない。魔術円を丸暗記して頭の中で順番に描き、そこに魔力を適量注ぐ。簡単な魔術ならばそれでも可能らしい。
「さぁ、まずは失敗覚悟で挑戦してください。数をこなすしかありません」
「ルゥ、やってみて!」
ユラとヴィヴィタに背中を押され、流音はおずおずと頷く。
杖を材料にかざし、魔術円を目でなぞりながら頭に思い描く。材料と術式を重ね合せるようにして魔力を注いでいった。
――あれ、今どこまで描いたっけ?
流音が自分の描いていた線を見失った瞬間、型の中身が破裂した。
バラエティ番組で突然パイをぶつけられた人の気持ちが分かった。
「大丈夫ですか、ルノン」
さほど驚いていないユラの声。
今回被害を受けたのは自分だけだった。それには安心した。
べっとりとした物体を顔から取り除き、流音はため息を吐く。
「難しい……」
先は長そうだった。




