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蜘蛛の糸

作者: 昼夜

「ねえねえ、昨日のMステ見た?」

「見た見た。恰好よかったよねえ、木下君」

「なあ? 宿題やった? 見せてくんね?」

「ええー。お昼奢ってくれるならいいよ」

「え~何だよ、ケチ。じゃあいいよ。他の人に頼む」


 馬鹿ばっかり。


 龍介は机に突っ伏し、クラスの賑わいに耳を傾けていた。

(有象無象が群れやがって。宿題くらい自分でやれよ)


 もう子供じゃない。

 それなのにろくに宿題すらできない連中は、皆中学生からやり直したらいい。龍介は本気でそう思っていた。

 高校に入ってから、龍介には友達という友達がいたことがない。かといって苛められているわけでもない。要するに誰からもその存在を認知されていなかった。


 クラスメイトと会話するのは日直の時だけだ。委員会にも部活にも龍介は入っていない。

 全てが中身のない馴れ合いで、時間の無駄だと思ったからだ。


 キーンコーンカーンコーン。


 チャイムがなる。チャイムの音は龍介にとって福音といえた。この音が響き渡れば、誰もがせかされるように席につく。下らない会話に耳を塞ぐ必要もなくなる。

 クラスの連中は皆つまらない授業の奴隷となり、少ない脳みそでその場しのぎの勉強をはじめる。


(絶対に抜け出してやる。この低能集団から抜け出して、絶対東大に入るんだ) 

 龍介は自習用ノートを開き、黙々と勉強を始める。

 二時限目の授業は日本史なのに、開いている参考書は数学だ。


「それで、え~、応仁の乱ですね。この戦いで、京都が焼け野原になったんですよ」


(焼け野原なのはお前の授業だよ。寝てるやつばっかじゃねーか。下らない授業やりやがって)


 龍介は辺りを見回し、ため息をつく。

 この教室内にある全てのものが自分を苛つかせる。ここはまさに焼け野原だ。

 龍介の頭の中には、東京大学に入れなければ負け組だという思考が染みついていた。


 そんな歪んだ龍介の精神状態を支えるのは、輝かしい未来への野望と創作の世界だけだった。ことさら、漫画の世界は龍介を夢中にさせた。

 勉強が行き詰まると、いつもノートの片隅に短い漫画を描く。


 主な登場人物は大好きな猫と犬だ。猫と犬が時に争い、力を合わせ、無邪気に泣き笑いする。それだけでよかった。内容がどんなものでも、現実と関係さえなければそれは龍介の心を癒してくれた。


「おい、石川。石川龍介!」

「は、はい!」

「さっきから当ててるんだぞ。何ぼーっとしてるんだ。ちゃんと授業聞かないと駄目だろ?」


 あはははは。クラスが湧いた。

 寝てるくせにこういう時だけ元気な連中だ。そうやって今だけ笑っていればいい。そして、後で後悔するんだな。

 龍介は憮然とした表情で頭を下げ、机に突っ伏した。


 抜け出してやる。抜け出してやる。俺はお前らとは違う。

 そんな負の感情だけが龍介の原動力だ。


 それから一年間、龍介は受験勉強に一日の八十パーセントを費やした。

 ノートには数学の方程式や化学の元素記号、英文が写経のように並んでいる。自分が間違えた問題に加えて、難関大学の傾向と対策を独自にまとめたノートだ。

 その複雑な内容が増えてゆくに比例して、犬と猫の愛らしいイラストも増えていった。


 年が変わり、センター試験が終わった。

 龍介は軽々とボーダーラインを越え、足きりを回避した。それと同時に、滑り止めとして私立の難関大学をおさえた。

 自称進学校だった龍介の学校では、それは紛れもなく快挙だった。


「すっげえ。お前、あそこセンターでとったのかよ……神じゃん」

「やばいねー。ねえねえ、どうやって勉強してるの」


 龍介にとってセンターは前哨戦だったが、周りの生徒達はまるで関ケ原にでも勝利したかのような持ち上げぶりだった。まさに、一時的だが龍介幕府が成立したと言っても過言ではない。


「そんなことないよ。普通に参考書を読んでるだけ」

 (結果を出した途端に擦り寄ってきやがる。こいつらにプライドはないのか)


 龍介はますます彼らを侮蔑した。

 こんな奴らに勉強を教える暇があったら自分の勉強をする。なんて言ったって第一希望は東大だ。こんな中途半端な奴らと馴れ合ってる余裕はない。

 群がる大衆をかき分け、龍介は足早に学校を去った。


 三月。国立大学の合格発表の日だ。

 龍介は掲示板を見上げていた。



 ない。いつもならあるはずの、俺の受験番号がない。

 何故? あれだけ勉強したのに。どうして……?。

 龍介は呆然とした。

 脇目も振らず家に帰り、すぐにパソコンを開く。


 そして、ネット掲示板へ行き慣れ親しんだ受験用スレッドを覗く。

 SSランク。東京大学。

 その文字を食い入るように見つめ、倒れるように目線をきった。

 その下のAランク大学に、龍介がセンターで抑えた大学の名前があった。


「そうだ……いいんだ。Aランクだぞ。十分じゃないか」

 自分に言い聞かせるように何度も呟く。FまであるうちのAだ。大抵の人間よりは上だ。全ての受験生の内の上位一パーセントには入っている。

 龍介は腹を抱えて笑った。これで奴らとはおさらばだ! その瞳はわずかに潤んでいた。


 全ての受験日程が終わり、クラスのほとんどの生徒が進路を確定させた。


「お前、どうするの? 浪人すんの?」

「……うん」

「私、田舎の大学行くんだ」

「へ、へえ。いいじゃない。自然が多そう」

 顔を引きつらせて話す人、人、人。


 龍介は内心愉快でたまらなかった。怠けるだけ怠けてきた人間が没落するのを見るのは非常に愉快だ。アリとキリギリスの物語が作られた頃から、人類はそういったものを楽しんで生きてきた。いいじゃないか、田舎の大学。自然が多そうで。

 龍介は内心ほくそ笑んだ。


 しかし、龍介は薄々違和感を感じていた。自分を取り巻く人間の変化に。


 第一志望に落ちた時点で、周りからすれば龍介もまた敗者の一人だったのだ。変な気を遣っているのかわからないが、太鼓持ち達は皆一様に気まずそうな顔をしていた。


「……」

 龍介はノートに猫の絵を描いた。受験が終わってからというものの、これくらいしかやることがない。

 クラスメイトたちは、卒業が近いこともあって旅行の計画などで盛り上がっている。

 クラスの喧騒を眺めていると、その中から一人の男子生徒がおもむろに近寄ってきた。


「石川くん」

「……ん?」

 龍介は顔を上げた。

 目の前に立っているのは精悍な顔立ちをした青年だった。

 彼は確か野球部の副キャプテンの、名前は三島だ。


「ごめん。驚かせちゃった? ちょっと石川君に聞きたいことがあって」

「い、いや大丈夫だけど。何」

「俺、受験ダメダメでさ。だから浪人するんだ。それで、どうしても石川君にアドバイスをもらいたくて」

 三島は恥ずかしそうに言った。野球部特有の毬栗頭も、今ではすっかりセミロングだ。


「……何で俺なの。他の優秀な奴に聞けばいいじゃん」

「このクラスで一番、しかもダントツで優秀なのは石川くんだよ。俺、いつも見てたんだ。君が休み時間でも体育祭でも文化祭でも、一人で黙々と勉強してたの。ずっとすげえって思ってた。俺は、部活を言い訳にして勉強をしなかったからね……石川くんみたいにストイックにやれば浪人なんてせずにすんだかもしれないのにな」

 三島は自嘲気味に笑った。


 龍介は正直三島を鬱陶しく思った。

 だが、このバカ騒ぎムードの中で自分に話しかけてくるそのセンスの良さは認めてあげることにした。

 龍介は受験時代の相棒だったノートに別れを告げた。


 それはなんとなく、本当に出来心だった。

「……ん」


「え? これって」

「やるよ。もう俺には必要ないものだから」

 龍介は手元に置いてあったノートを手渡した。


「いいの?」

「いいよ。まあ、それがあればAランク大学には受かると思うよ」

「Aランク? よくわからないけど、石川くんのノートだもんな! 絶対大事に使うよ!」

 ありがとう!

 そう言うと三島は龍介の手を掴み、握手をした。

 外国人の握手のような、力強い、生命力あふれる握手だった。


(久しぶりに人の手に触ったな。幼稚園以来かも。しかし、それが男とは)


 龍介は三島に軽く会釈をし、トイレに立った。

 本当はなんとなく気恥ずかしくなっただけだった。

 それ以来、卒業までの間は三島と少し話すようになった。何度かクラス旅行に誘われたが、龍介はそれだけは断固として断った。


 卒業式の日、誰もが泣いていた。もちろん、三島も。

 龍介だけが壊れた玩具のような目をしていた。

 こんな所、さっさとおさらばだ。サヨナラできてせいせいするよ。


 龍介は意気揚々と大学に入った。学部は法学部だ。


 法学部は文系の中でも偏差値が高い。だから選んだ。

 


しかし、今までろくに人と接して来なかった龍介が個人の自由度が高い大学に順応できるわけはなく、結局高校と同じで誰一人として友達ができなかった。


 サークルも、部活も、バイトも。ボランティアもやっていない。

 法律の勉強も、弁護士は飽和していて営業が大変だと聞いてからやる気を失ってしまった。

 ただ寝て、起きる。その繰り返しの日々。

 それだけで一年が過ぎ去った。


 龍介の乾いた心には最早何の感情もない。あれだけ原動力となっていた負の感情も、尊大な自尊心も今ではどこへ行ったのか跡形もない。


 どうすればよかったんだ。


 薄々感づいていた。

 自分がおかしな人間だということに。学歴やら職業やら、そんなレッテルばかり気にして生きてきた、凡人にすらなれない有象無象に過ぎないということに。


 人は全てが終わってから、ようやく大切なことに気付く。

 俺は確かに努力家だった。でも、人として最低だったんだ。


 上を目指して頑張っていた気持ちは本物だったが、そのために多くのものを無視してしまった。今更気付いても、もう遅い。

 龍介はただひたすら後悔の念に打ちひしがれ、公園のベンチに座った。

 昔、この公園で歓声をあげていたころは自分にも友達がいた。あだ名が合った。生きる喜びがあった。

 かつては活気があった公園も今ではほとんど子供が見当たらない。

 ポツリと、一人の子供がブランコに乗って携帯ゲームをしているだけだ。 


 まるで俺の人生みたいだな。龍介は心で呟いた。

「……ごめんなさい」

 不意に出たのは謝罪の言葉だった。一体自分は誰に謝っているのだろう。親か? 先生か? いや、散々見下していたクラスメイトたちか。


 公園のベンチから覗く三叉路は、龍介にとって羨ましいものばかり満ち溢れていた。今の龍介には、道行く全ての人が輝いてみえる。


 その時だった。


「石川くん?」


 懐かしい声がした。

 顔を上げると見覚えのあるような、ないような精悍な青年が龍介の目の前に立っていた。


「三島くん」


「やっぱり石川くんか! 久しぶりだね」

「……ああ、久しぶり」


 声の主は三島だった。何故だろう、妙に懐かしく感じる。高校を卒業してから二年しか経っていないのに。目の前にいる三島が物凄く大人びているからだろうか。不思議だ。いや、普通は大人びるものか。

 龍介は自分が恥ずかしくなった。


 それと同時に、三島が天の使いのように思えた。地獄へ差し伸べられた一縷の蜘蛛の糸のように、どん底にいる自分を救いに来てくれたように感じた。


「石川くんのノート、本当に役に立ったよ。難しいところも分かりやすく噛み砕いててあってさ。やっぱり君は凄いね」

「いや、全然。俺なんて結局第一希望に受かんなかったし」

「いやいや、現役で私立最難関だろ? 凄いよ!」

「そんなことない」


 龍介は俯いた。本心だった。

 あれだけ全てを勉強に捧げたのに、結局自分は夢を叶えられなかった。第二希望の大学に現役で入る人間など、掃いて捨てるほどいる。


「……石川くん。少し変わったんじゃない?」

「え?」

「なんか丸くなったていうか。棘がなくなった」

 三島は微笑んだ。

 その笑顔を見て、龍介の顔もわずかに緩んだ。


「それとさ、あの漫画。凄く癒しになったよ」

「漫画?」

 龍介は目を丸くした。


「そう。あのノートの漫画……恥ずかしいんだけどさ。俺、実は今漫画サークルに所属してるんだ。君の漫画に感化されて。本人の前で言うのは凄く恥ずかしいんだけど」

「え!」


 まさか自分の漫画がそこまで人に影響を与えるとは。あんなにさりげなく描いていた漫画が、思わぬところで実を結んでいた。

 龍介の瞳は熱を帯びた。


「今もまだ描いてるの? 良かったらまた読みたいんだけど」

「た、たまに描いてる!」


 本当はもう書いてなかった。でも、ここで描いてないと言ったらもう彼ともそれっきりになってしまう気がして、つい嘘をついてしまった。


「本当かい! じゃあ、携帯のアドレス教えて! 俺のはね――」


 人生で初めて同級生とアドレス交換。

 心に、初めての多幸感が満ち溢れる。

 無駄じゃなかったのだ。あの冷たく凍てつくような日々も、こうして今に繋がっている。失敗してしまった過去に戻ることはできない。輪廻転生して、やり直すこともできない。


 だからこそ、人生は面白い。


 数奇な巡り合わせが、時に思わぬ悪戯をしてくれる。

 世の中には意味のないことなどないのだ。勝ちも負けもない。

 二十歳になって、ようやく気付いた。

 乾いた心が透明の水で満たされてゆく。


 今、龍介は久しぶりに心の底から笑えている。

(これが、友達……)



「ところで、三島くんはどこの大学に行ってるの?」

 龍介は何気なく尋ねた。


「僕? ああ、その……」

 三島くんは少し照れくさそうに、そして若干申し訳なさそうに言った。



「一応、東京大学なんだ」

ありがとうございました。

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[良い点] 自分を信じることしか出来なかった人が、現実の生々しさに打ちひしがれてしまう。 この話は今の俺に刺さりました。 虚しさの残っている彼にはぜひ、漫画を書いていて欲しい。 努力というのは別…
2016/02/13 04:44 退会済み
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