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白と黒の中

作者: 花岡巳殿

 少年は椅子に座す。

 辺りに灯は灯っておらず、暗闇の中、少年が外にいるのか家の中にいるのかも理解できない。

 光の宿らない碧眼が睨むのは、虚空。まるでそこに何かがあると言わんばかりに、少年はただジッと目線を上へ上へと伸ばした。

 擦りむいた脛の出るパンツスタイル。一枚身にまとうシャツは所々がほつれていて、みすぼらしい。下級層の生まれの子供なのかと思えば、膝の上で高価そうな真っ白い毛並のイヌのぬいぐるみを抱いている。純白に輝く毛並。暗黒の中で光もしない少年の碧眼とは反対に、息すらしていないはずのイヌは、まるで生きているかのように美しい。少年が微動すれば、イヌの毛がふわりと跳ね、辺りにシャンと涼しい音が鳴る。揺れた毛からまるで光の粒子が飛び出したように見えた。

 少年はくすんだ碧眼を瞼で隠す。と言っても辺りに灯がないせいで、瞼を閉じようが開こうが、景色は変わることはないはずだ。

 だが瞼を閉じた少年は、今までと違う景色に、思わず肩を震わせる。真っ暗だった景色は、目を閉じた途端、真っ白い世界へと変わった。

 四方、上下とも白に包まれた世界。そんな世界の中で少年は真っ暗な世界と変わらない体勢で存在していた。抱いていたイヌを強く抱けば、また毛が揺れ、シャンと音が鳴る。

 少年は先の見えない世界に不安を覚えた。黒の世界の時は何も感じなかったのに、白い世界では冷静さを保てなくなった。明るいはずの世界なのに、白い壁の向こうに出口らしき出口が見つけられない。それが酷く少年の心を苦しめた。

 瞼を開けたい。だがそれが出来なかった。白い世界の片隅、黒い世界ではもう出会うことの出来ない大切なモノの気配を感じたのだ。

 白の背景によく映える、黒いタキシード姿の『何か』

 体はタキシードを着た人のそれであるのに、首から上が、黒く毛深い犬なのだ。犬歯がはみ出た口、高く立った耳、そして少年と同じ色の鋭い目。少年はつい嬉しくなり、今まで白の世界に抱いていた恐怖を消し去り、目を閉じたまま立ち上がって愛しい人の元へと駆けた。

 だが白い床の何もない所で躓き転び、抱いていたイヌを床に落とす。つい目を開けてしまった。

 そこはまた、光のない黒い世界。床に転がる白い毛並のイヌが光の粒子をまき散らかしているかのような、閉ざされた世界だった。

 暗闇の中、少年は自分が躓いた物の正体に手を伸ばす。

 すると何やら生温かいものに触れ、咄嗟に手を引いた。だが少年のか弱く、すぐにでも折れてしまいそうな手は、目にもとまらぬ速さで伸びてきた『何かに』捉えられてしまう。

 悲鳴も上げず、少年は冷静にそれの正体を分析し、自分の持つ『手』と同じものだと悟る。

「可愛い子。この世界にもう大切なものはないかい?」

 男の声。「ケケケ」と卑しい笑い声が聞こえる。姿は暗くて見えないが、嗄れた声から老人なのかと思う。だが少年の腕を握る力は老人とは比べ物にならないほど強い。少年が軽く引いてもまったく離れない。きっと虚弱な、骨と皮ばかりで出来た、老人ではない男なんだろうと少年は勝手に想像した。

「大切なものは本当にもうないかい? あるだろう沢山。俺は大切なもの沢山あったよ。お父さんも、お母さんも、お兄ちゃんもお姉ちゃんも弟も妹も奥さんも息子も娘も犬も猫も皆大切なモノで、気づけば皆いなくなってしまっていたよ」

 男は嗄れた声で「ん?」と唸る。

「“いなく”してしまったのは俺だったか?」

 そんなことどうでもいい、と男はまた「けけけ」と嗤い、少年の手を引いた。少年の体が傾ぐ。

「つまりだ。この世界にあるモノ全部大切なモノなんだよ。それに皆気づいてないだけなんだ。そして“失って”みて大切なモノだったと気づくんだ。馬鹿だな、人っていうのは。……だから君にとって俺も、世界にある大切なモノの一つなんだよ。さぁ、だから早く“失って”気づくべきだよ。ほら」

 皺がれた声が湿気を帯びていく。男は掴んでいた少年の手に「シャン」と音の鳴る、冷たい鉄のようなものを持たせた。少年がその冷たい鉄を力任せに引っ張れば、男が「ぎへっ」と呻き、むせ返る。数回せき込んだ男は、冷たい鉄の“紐”らしきものを持つ少年の手に手を伸ばす。

「頼む……頼むよ君……」

「自惚れるなよこのクズ」

 鋭い声が暗い世界に響く。少年の声に、男の喉が鳴った。

 少年は手に持っていた冷たい紐――鉄の鎖を、暗闇の中むやみやたらに投げつける。ズタン、と床に落ちた鎖の音に、男が悲鳴を上げた。

「大切なモノは失って気づくだと? それはお前みたいなクズの概念だろ。一緒にするな。消失から生じた悲しみの感情に、煽られ錯覚しているにすぎないよ、そんなモノ。自分の概念を人に押し付けるな。僕は決してそんな貧弱な人間の思考になんて左右されない。お前が望むように、僕はお前を決して“殺しはしない”」

 少年は言い放ち、虚空に唾を吹き付けた。男の呻きの隙間から、甲高い嗚咽が響き始める。

 少年は立ち上がる前に、床に落としたイヌを拾い、自身の右足首に手を伸ばした。そこには冷たい鉄の感触がある。闇に投げつけた、あの鎖と一緒のモノだ。

 少年は立ち上がりざま鎖を持ち上げ、その冷たい感触を手繰り寄せながら歩いていく。ガン、とむき出しになった脛に無機物があたって立ち止まり、手探りでそれが“自分の座っていた椅子”であると察知すると、手にした鎖を床に投げ捨て、椅子に座る。

 暗い暗い世界の中。

 聞こえるのは男のむせび泣く声。過酷な試練に耐えかね、死に逃げ道を見出した無能の男。だが無能ゆえ自ら死ぬ方法を知らず、唯一知っていた“知識”を頼りに、少年に死を懇願した。だがそれは少年の中の基準ではない。


 自分一人のために世界は回っていない。


 男はそんなことも知らず、これから一生、この黒い世界の中、首に冷たい鉄を巻かれて生きていく。その鉄が錆びついた頃には、男の望んだ結末が待っていることだろう。

 少年は右足首にある鉄の感触を意識し殺すと、脇に抱えていた白いイヌを膝の上に乗せた。シャン、と鳴ったのは少年が身動ぎした時だ。イヌの毛が跳ねる音と認識した少年は、薄い瞼をゆっくりと落としていく。

 そこにはまた白い世界。明るくて人に安心感を与えるはずの空間は、延々と続く白のせいで、見る人に“希望のない世界”を思い起こさせる。

 だが少年の心にもう恐怖はない。むしろこの世界で生きることを望んだ。

 白い世界。椅子に座るのは真っ白い毛並のイヌを抱く少年。壁や床と同色のイヌは今にも空間の中に溶け込んでいきそうだ。

 そんな息のしないイヌを撫でる少年の目の前に奇怪な存在。タキシードを着た人の体に、首は黒い毛並の犬。碧い目を持つ奇怪な存在は、白い世界でただ一人、目を閉じ椅子に座す少年を見つめると、優しげに数回瞬きをした。

 瞼の向こう、奇怪な存在に呼ばれた気がして、少年はゆっくりと瞼を開けた。そこはもう“白い世界”だった。

 肉眼で奇怪な存在を見つけた少年はその場を動かず、座ったままで碧い目に光を宿して笑う。泥だらけだった頬や衣服は、白いイヌが放つ粒子に包まれ綺麗になり、そしてイヌのぬいぐるみは一瞬で銀色の髪が薫る一人の女性へと変じた。女性は白い空間を歩いて行き、奇怪な存在の隣に立つと、仲睦まじく、寄り添い見つめ合う。

 そんな二人の姿を見て、少年はより一層笑みを深めた。だがその場を動くことは出来ない。二人の傍に駆け寄ることは出来ない。

 瓶の中に入った硝子玉を転がすような感覚が少年の胸に広がる。カラカラと音を立て、儚げに鳴る涼しげな音は、最後の幸せを知らせる音だった。いずれこの硝子玉も、消えてなくなってしまう。

 少年は硝子玉の存在を確かめるように自分の胸に手をあてた。そして仲睦まじい二人を見つめ、喉を震わせる。


 愛してくれて、ありがとう


 そして少年は目を閉じた。

 胸の中にあった硝子玉はゆっくりと消えていき、いくら瓶を揺らしても、もう音は出ない。少年の心の中には何も残っていない。

 息を吸いながら、少年はゆっくりと目を開ける。そこはまた“黒い世界”。男の泣き声が響く現実の世界。膝の上には白いイヌのぬいぐるみの姿はなかった。

 碧い目にあった光はまた消えて、少年は一切の笑みを消し去り虚空を睨む。

 少年はこの黒い世界から逃げだすことは出来ない。それほど、この少年の犯した罪は大きいのだ。




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