EpisodeⅠ‐Ⅵ
悲鳴が、咆哮が、怒号が、絶叫が、ありとあらゆる類の叫びがトラム王国の城下を支配していた。
日没を拒む紅の狼煙が至る所で上がっており、石畳の縫い目を這う液体は赤黒く、鉄の匂いが充満している。
民家の前に干された衣服には血飛沫が点々と付着しており、開け放たれたままの薄暗い玄関奥に息絶えた誰かの姿を見つけてしまう。
黒部の旅団。そう呼ばれる義賊集団が第二王女様を攫って、反旗を翻したのは、俺達がトラム王国を訪れて三日後の話だった。
彼等、黒部の旅団が民へ剣を向けたのは、この日が初めてだったと聞いている。元は付近の魔物退治や、貴族達の横暴を抑止するための暴動など、貧困層の味方として立ち回っていた彼等であったが故、不平不満を募らす国民の決壊を恐れた王はその存在を黙認してきたのだ。だが、第二王女の誘拐が城内で明らかとなり、その首謀犯が王属騎士団の長の一人であるローランド・ギフティだと発覚すると、王は、偶然にもトラム王国へ立ち寄っていた俺達……即ち各地で名を馳せていた勇者一行を頼った。
表向きは黒部の旅団殲滅戦と謳われ、秘密裏に第二王女の確保を命じられた俺は、この国で初めて、人間を相手に刃を向けること(これは血を流すことを定められた戦いという意味でだ)となった。しかし、それでも、俺は剣術と僅かばかりの魔術を駆使して、意識だけを奪いながら、城下を駆け抜けていた。
王や城の重鎮達の証言を鵜呑みにすれば、第二王女はそもそも……国民の目から隠されていた存在らしい。生まれてこの方、日の光を知らず、地下に幽閉されてきた少女。彼女は生まれつき呪われていたのだと王達は口を揃えて話した。
名はアリシア姫といい、身体的特徴としては、第一王女のリーシャ姫とは異なる、暗色の髪を持つ少女だったらしい。
ローランド・ギフティが元より黒部の旅団と結託していたのか、或いは第二王女を攫って後、彼等を頼りにしたのかは分からない。
どちらにせよ、争いは既に激化の一途を辿っており、俺達は民の避難を手助けしつつ、アリシア姫の姿を捜す他なかった。
「エクサっ!!」
広がりつつある戦地に少しでも長く手が届くようにと、行動を別にしていた仲間の一人、フラン・ミクシリアの呼ぶ声が、俺の足を止める。
振り返れば、彼女は灰味の強い萌黄色の翼を優雅に羽ばたかせながら、赤く燃える空から舞い降りた所だった。
短く切り揃えられた明るめの茶色い頭髪は生え際から毛先へ向かうにしたがって色合いが淡く移ろっている。
妖艶な魅力を秘めたつり目の右側には泣きぼくろが一つあった。露出過多な鎧で豊満な肉体を支えており、背中の部分は翼の所為か、大胆な切り目が入っている。
彼女の愛用する細い槍の先端から鮮血が滴っており、俺はすぐにその矛先から目を逸らした。
「フランっ!! 王女が見つかったのか!?」
「残念ながら……」と、彼女は視線を伏せて、首を左右へ振った。
フランが何かを言い掛けた時、彼女の鈴のような声を遮って、甲高い悲鳴が響き渡った。
「ここあたりはまだ避難が間に合ってないみたいなんだ」
「わかったわ」
俺とフランは再び戦地を駆けていく。
そして、その果てに、やがて……俺とフランは出会ってしまったのだ。
運命の悪戯か、歯車の狂いか、この時、なぜか――魔界と交信しろ、さもなければ、人の目も欺けない――といった灰色幻想譚の一節が脳裡を掠めていたのを不思議と覚えている。
ローランド・ギフティは、どうしたって正気に見えた。
瞳孔は萎んでおらず、口鬚は丁寧に寝かされている。ただ、彼の半ば砕けた鎧だけが、返り血を浴びて、おぞましい光沢を放っていた。
「アリシア姫をこちらへ引き渡せ。ローランド」
「なるほど。君等が噂に聞く勇者一行とやらか。この国はどうかな? 寒くはないかね?」
彼は旅人と語らうかの大らかな態度で俺達と接した。
「あたしらは世間話をしたい訳じゃないのよ。わかるわね? 素直に王女様を渡して頂戴」
「おぉ、美しき方。貴女とは仮面舞踏会でお会いしたかったものだ。しかし、叶わない。アリシア姫もそうだ。君達の要求は、叶わない」
「ローランドっ!! あんたはこの状況を理解しているのか!? 民が……多くの犠牲が生まれている。もうこれ以上……争いを続けさせてはいけない。それが、どうしてっ!!」
「なるほど、この争いを私が望んでいたと、君はそう主張したい訳だね。このローランド・ギフティ、かつては国へ忠誠を誓いしもの。このような顛末を望んでいた筈がない」
「なら、どうしてだっ!?」
「吠えるのはよろしくないよ。君は、ええと、金髪碧眼の青年といえば、そう、エクサ・イシュノルアだ。勇者君、よく聞いておくれ、私は彼女を守らねばならなかった。アリシア姫を守ることが我らの忠義だったのだ」
「守る……? アリシア姫を攫ったのはあんただろ?」
「秘密は墓へ持っていくと決めていてね。それよりも、この命で黒部の旅団は止まるかもしれないよ。君のその剣で、この命、奪えるか?」
「……あんたは……何を考えているんだ?」
「さもなければ、誰の目も欺けないのだっ!!」
それは、彼の印象に酷く似合わない、死地へ赴くものが上げる雄叫びに成り損ねた情けない声だった。
「エクサっ!!」
フランが俺の名を叫ぶよりも早く、俺の肉体は迫る剣閃に反応していた。
騎士団の長に認められるだけあり、彼の動きは凄まじく早かった。
お互いの素早さも相俟って、決着は一瞬で付く。
ローランドが横薙ぎに振るった刃は空を裂き、俺の剣は、気付くと、彼の腹部を貫いていた。
「この命、最愛のものへ」
ローランド・ギフティは事切れる直前、息も絶え絶えに血と言葉を吐いて、そのまま力なく項垂れ落ちた。
いつしか、空は雲を集めており、紅に染まる城下を鎮めようと、大量の雨粒を降らせ始めていた。
頬を濡らす滴が、何であるかも分からずに、呆けて立ち尽くす俺の肩を掴んで、フランは珍しく声を張り上げた。
「エクサ、しっかりして。誰かに責められたいのなら、あたしが好きなだけ責めてあげる。誰かに慰められたいのなら、そうね、ロゼを好きなだけ抱き締めていいわ。特別に見逃してあげるから。酒に溺れたいのなら、きっとパールが付き合ってくれるわ。そして……彼の、ローランドの言葉の意味は、必ずアジーが解明してくれる。そうでしょ? あたし達は今までだって、そうして助け合ってきたじゃない。だからね、今は動いて頂戴。あたしには、貴方が背負えないわ。抱っこだって嫌よ。でも、仲間をこのまま置いていくつもりもないの。エクサ……あたし達の大切な仲間達だって、身を挺して頑張ってる。それなのに……貴方はっ」
「もういい。フラン、ありがとな。わかってるさ、急ごう……早くアリシア姫を見つけないと」
「えぇ」
しかし、俺達は最後までトラム王国第二王女を見つけられはしなかった。国民も知らないアリシア姫の行方は、杳として知れぬまま……そもそも、そのような少女が本当に存在したのかすら疑わしくなったが、誰も芽生えた疑問を口に出そうとはしなかった。
やがて、表向きとしては、黒部の旅団の掃討へ大いに貢献してくれたものだと王に感謝され、民にも崇められた。
だが、あの日、俺も、パールも、ロゼも、アジーも、フランも……等しく人の命を奪っていた。その罪を各々がどう受け止めていたのかはわからない。
しかし、あの日を境にして、俺達の誰から言うでもなく旅は終わり、仲間達は大陸各地へ四散したのだった。
豊穣の月、第三金祀の日。
あの日の夢に魘されたのは、随分と久しぶりだった。きっと、昨晩の出来事が色々と重なり、終いには就寝前に冒険の書を読み返していたのが原因だろう。
窓を開けて新鮮な外気を取り込もうと思い、ベッドから立ち上がった。
欠伸を噛み殺して、ぼやけた視線を窓際へ送ると、そこにローランドの亡霊が立っていた。
返り血を浴びたままの、腹部を剣で貫かれたままの、絶命の間際のローランド・ギフティは血の気の引いた青白い顔色をしている。
「空の彼方までご苦労なこって」
俺の皮肉に対して、ローランドは微笑を向けるだけだ。
「アジーから聞いたよ。あんたの守りたかったもの……なぁ、アリシア姫の事は、俺も墓まで持っていくべきなのかね? それとも、いっそ全てを吐露して、自分だけ救われるってのもありか? どちらにしろ、勇者らしくなんてないよな」
自嘲的な笑みをこぼすと、彼は窓の外へと向きを変えながら、細々と告げた。
「東の空を見るといい。綺麗な朝焼けだよ」
「……まるで嵐の前の静けさだな」
「エクサ君。魔界と交信しろ、さもなければ、人の目も欺けない」
彼の隣に立って、東の空を眺めていると、閂によって施錠された扉を誰かが力強く叩き始めた。
生者の干渉を受けて、日の光に紛れていく亡霊。
彼の輪郭が数多の粒となって窓の外へ逃れていくのを、黙したまま見つめていると、扉を叩いていた人物が痺れを切らして、ついには叫び出した。
「エクサ様っ!! 起きておられますか!? リーシャ様が……リーシャ様の姿が消えましたっ!!」
それは出会って初めて聞く、アニィ・カプリの切羽詰った声音だった。