EpisodeⅠ‐Ⅴ
「にゃかかかっ!!」
ごろごろと、まん丸いお腹を抱えて高らかに笑うパール。そんな英雄の態度に、姫の従者の眉が微かに震えた気がした。
自分に向けられている視線を悟ったのか、レイ・ナイトブランドと名乗った青年は表情を仮面の如く塗り固める。
「わー、王女様ー、また会えましたねー!!」
再会を無邪気に喜ぶエミールを横目に、ロゼが冷やかに告げる。
「妾たちの旅を阻むものが、怪鳥ではなく国の王女様であったとはなぁ、けひひ、予想できぬものよ」
「まっ、しかたないか……」
「シメオン様にお伝えして参ります」
ロゼの言葉に、俺、アニィの賛同が続き、早くも旅の中断へ向けて動き始めたアニィを、トラム王国第一王女リーシャ・トラム・ランベルジュは慌てて目で追い掛け、星屑を散らせた。
「使用人の方、どうかお待ちになってください。あたくしは、その、国へ戻るつもりはありませんの」
「いや、そこはもう、あんたの意見がどうこうって問題じゃなくてな」
「恐れ入りますが、勇者……エクサ・イシュノルア様」
淡々と口を挟んだのは、表情も然ることながら、アニィと似て声に色味のないレイだった。高貴な出の者に仕える人間は、自然と感情を押し殺す癖がつくのかもしれない。
「んな、かたっくるしい呼び方しなくても、エクサでいいよ」
「では……エクサ、様」
「あ、はい」
悪気はなかったのだが、反って彼の口調が不自然になってしまった。ごめん。
「どうやら貴方達は勘違いなさっておいでのようですので、この場にて明言させて頂きます……姫様と私は、王の許可を得て、この飛空挺に搭乗しているものとご理解ください」
「レイ、そのような言い方はよくありませんわ。えぇ、全然よくありません」
「証拠はあるのか?」
「封書はここに」
そう言って、レイが静かに俺達の食卓の前に置いたものは、トラム王家の印で封蝋された一通の封書だった。
「にゃか、エクサ、あけてみるにぃ」
パールがすっと、目にも止まらぬ速さで爪を立てて、封を切り、一同が息を呑んで見守る中、俺が代表して指を伸ばす。
中からは一枚の、見るからに高級な羊皮紙が出てきた。
文面を要約すると、そこにはこのような旨が記されていた。
「トラム王国第一王女リーシャ・トラム・ランベルジュとその専属従者レイ・ナイトブランド両名の飛空挺搭乗をここに認める……と」
「如何にも」
「そなた、王の印璽を拝借したのか?」
ここでロゼが口火を切った。
「そうではありませんわ。あたくし、本当にお父様へ直談判したのです。お父様はかつてトラム王国を大いなる脅威から救ってくださった英雄の皆様を信じて、これを書き認めてくれたのですわ」
「にゃか、おいら達にそれを信じろというのかにぃ?」
「それは……その、封蝋では証明になりませんか?」
平然としているレイとは違い、表情をころころと変えつつ、なんとか俺達の信頼を勝ち取ろうとしている健気なリーシャ姫。
「アニィはどう思う?」
「私ですか? 王女様への不躾を承知で申しますが……あまり信じておりません。王は第一王女であるリーシャ様をそれはもう大事になさっておいでだと、アジルヒム様からも伺っておりました。それに……王は既に一度……第二王女様を……」
と、言い淀むアニィをそのまま押さえ付けるように、レイが強い口調で遮る。
「口を慎むべきです……アニィ・カプリ」
「……申し訳ございません」
「この場に身分は関係ないにぃ」
アニィを庇ってか、パールは取り分けたまま放置していた野菜のフリッターを一齧りしてから、威圧的な隻眼をレイに向けた。
「我々使用人は、いついかなる時であれ己の立場を弁えなければなりません、でなければ、先程の彼女の様に口が過ぎるのです」
「レイ、もうやめて頂戴。あたくしはただ……この空の旅で見識を広めたくて……英雄の皆様とお話がしたくて……この飛空挺で……素敵な思い出をと……」
儚げに瞳を潤ませるお姫様を受けて、俺達の誰もが、これ以上、彼女を責めることを望んでないことを主張するように揃って口を噤んだ。
「とにかく、私はリーシャ様とレイ様のお食事をご用意してまいります」
「でしたら、あたくしも手伝いに」と、円卓を迂回してアニィを追い掛けようとしたリーシャ姫を、当のアニィが慌てて留まらせた。
「滅相も御座いません。どうか椅子にお掛けになって楽になさっていてください」
「じゃあ、ボクが手伝うよ。もうお腹いっぱいだし」
今度はエミールが立候補するも、やはりアニィは「お気持ちだけで、お気持ちだけで」と頭を何度も下げて拒んだ。
ここでのらなきゃ勇者じゃない。
「しかたないなー、よし、俺がいこう」
「いえ、結構です」
「扱いっ!!」
なんでだろ、どこで俺の好感度が下がってしまったのだろうか。パールやロゼの下品な笑いが次期立候補者の演説とならぬ間に、アニィはアサシンよろしくの足捌きで調理場の方へと消えた。
「あ、あの……エクサ様」
「ん?」
偶然にも空いていた隣の椅子へ腰掛けたリーシャ姫が、躊躇いがちに俺の名を呼んだ。
姫様の衣装は、旅行用に選んだのか、それとも本人の趣向なのか分からないが、王女という冠と比べると、些か質素に見える。
肌の露出が控えめなのは当然だが、特徴と呼べるような部分は腰回りで優雅に波打つラッフルぐらいのもので、無地のドレスはアイボリーカラーだ。
しかし、主張に煩くない衣服が、姫様の飾り気のない美しさを際立たせており、隠しようのない煌きを強めているのも事実であった。
一方で、姫の奥に座っているレイ・ナイトブランドは、姫様から発せられる輝きを吸い寄せるような晦冥を体現していた。
頭髪から燕尾服、更には肌の色まで、全体的に黒の割合が高く、眼鏡の縁と真っ直ぐ伸びた前髪の隙間から見える眼差しは、横から見つめても、予期せぬ場面で遭遇するナイフ――たとえば、南の河川では、渡船する場合に必要となる手形を、乗り際、係員にペーパーナイフで折り目合わせに裂いてもらう――のように、状況に惑わされない不変的な鋭さを孕んでいた。
「エクサ様は変身などできますか?」
「はっ?」
この王女様はいきなり何を言い出すんだ? へんしん、え、変身?
「メテオ、レディー?」
なにかを期待する姫の眼差しが眩しい。変身ってあれだろ、灰色幻想譚の。
「いや、ちょっとまって」
「隕石、くるー?」
と、ここでエミールも便乗してきた。
「待って、読んだ記憶あるな。それ灰色幻想譚の八十八巻だろ?」
「ですわっ!! まぁ!! エクサ様も灰色幻想譚をお読みになられておいでなのですわね」
「ボクもボクもっ!!」
「なんで盛り上がってるにぃ?」
俺達三人の話題についていけないパールが、困惑した面持ちで酒を呷っている。
「そういえば、灰色幻想譚には怪鳥が登場する巻もあったよな……あれは、何巻だったか」
「記念すべき三十巻ですわ。そう、シャオムがデビューして四周年の節目に刊行されました」
「そうだそうだ、思い出した」
「ほう、それは興味深い話よ」
話題が灰色幻想譚――ともすれば変身――から怪鳥へ逸れ、心の内で安堵しつつ、俺はロゼの言葉に続けた。
「まぁ、そもそも怪鳥って表現自体、固有のものでもないからな。俺達が求める伝説と結び付ける訳にもいかない」
「そうですね。あくまで個人的な意見ではありますが……あの灰色界は、少々、幻想が過ぎてるかと」
と、ここでレイが流暢に、愛読家同士でしか伝わないような隠語を混ぜつつ、やや迂回した揶揄を口にした。
「そんなことないのにー」
どうやらその愛読家らしいエミールが口を尖らせている。
そこへ、アニィがワゴンを押して戻り、卓上には再びパイ料理や甲殻類の包み焼きなどが並び、既に満腹だと呟いていたエミールの近くには、フルーツの盛り合わせが置かれた。
「にく、妾はにくが好ましいぞっ」
子供のように騒ぎ立てるロゼ、そんな彼女をにゃかかと笑い飛ばすパール。
葡萄を一房、自分の皿へ持っていき、陶器のような綺麗な指でつまみ始めたエミールへ、灰色幻想譚の話を続けようと声を掛けているリーシャ姫。
姫の隣で、黙々と料理を取り分けているレイ、ロゼの御所望に応えるべく、調理場へ戻るアニィ。
欠けているのは操縦士のシメオンのみか、それとも……。
晩餐もお開きとなり、飛空挺に夜の帳が下った頃。
俺はパール、ロゼと密会を開く為、二人を喫煙室に誘っていた。
今夜の東の空は雲が薄いのか、月明かりが僅かばかり窓から差している。
喫煙室は、足の低い花崗岩のテーブルを挟むように、同じ色合いのソファーが並んでいて、書斎へ通じるドアの脇、部屋の角に貯蔵庫がひっそりと身を預けていた。貯蔵庫の上には小さな製氷装置も見受けられる。これは内部でエリクシルと呼ばれる薬液に圧をあてて、冷媒を行い氷を生み出すのだと、昔、アジーが熱弁していたが、途中から小難しい用語が飛び出すようになり、詳しく理解することを諦めたものだった。とかく、開化の時代を先駆けた発明の一つだ。
喫煙室の扉は、書斎側も通路側も同様に閂が見当たらない。
操舵室との隔たりを築く壁沿いには、濃い茶色で塗装された木製の食器棚が二つ、隙間を埋めるように置かれていた。
俺が氷と水を用意している間に、パールは棚からグラスを三つ、それにウイスキーと葡萄酒の酒瓶、ソーダサイフォン(炭酸水を作る器具)を取り出してテーブルの上に並べていた。
月灯りを背で浴びるように立っていたロゼを隣へ座るように促して、対面に座るパールが煙草に火をつけるのを待って、俺は口を開いた。
「姫様の件、どう思う?」
「けひひ、封書は間違いなく偽書だろうなぁ」
けたけたと不気味に笑いながら、ロゼはいの一番に封書の信憑性を否定した。
「王がリーシャ姫の放蕩を許すとは思えないにぃ」
「パール、あの二人の様子はどうだった?」
「にゃあ、おいらにもわからないにゃよ、姫様は激しく興奮してたみたいだけどにゃあ、あの使用人は手強いにぃ」
「俺もロゼと同じ意見で、あの封書は偽物だと思う。だが、印璽はどう説明がつく? リーシャ姫も同じ類のものを持っていたのか? それとも、レイが……王の目を盗んで、印璽を拝借したのか?」
「印璽であれば、蝋に押すだけで済むもの。拝借するのも、可能ではないか?」
「かもなぁ……トラム王の人柄を見るに、厳重に管理してるとも思えない。だとしたら、その企てが、あの二人の間でどこまで共有されているか、だ。たぶん、実際にあれこれ動き回るのはレイの役目なんだろう。リーシャ姫は単に、レイの証言を鵜呑みにして、あの封書が本物であり、王が自分の旅立ちを認めてくれているものだと信じているだけの可能性がある」
パールが、見つからない答えを超常現象で描くかのような、胡散臭い占い師じみた仕草で、天井へ煙草の煙を大きく吐いた。
「ロゼの手荷物を飛空挺に運んでたのもあいつだったにぃ。もしかすると、この飛空挺のどこかにも、なにか仕込んでいるかもしれないにゃあ」
「やたら荷物が多いと思ったが、もしかしてあれって」
「けひひ、そなたはあれが全部、妾の荷物だと思ったのか? 妾は言ったであろう? 妾の荷物は、妾の部屋まで頼む、とな」
血のような色合いの葡萄酒を愛おしそうに口元へ運ぶロゼ。その横顔はあまりにも赤が似合いすぎており、魔女というよりも灰色幻想譚で語られる吸血鬼のようだ。
「あの場では止められたが、素直に旅を中断するって選択肢はあるか?」
「にゃにゃ、お勧めしないにぃ」
「妾も同感よ」
「ですよねー……」
あの封書が偽物だと仮定して話を進めると、きっと今宵の王は、王女の失踪に酷く心を悩ませていることだろう。
「下手すれば、俺達が誘拐したと……王は糾弾するかもしれない。これじゃあ四年前の再現だ」
「あの時とは、立場が逆であるがな」
「一度起きたことってのは、当人が忘れた、或いは乗り越えたと感じていても、その実、心の底では深い傷となって残っているものだ。そして、王の場合、それが黒部の旅団であり、王女の失踪だった。だから、客観性が押し潰され、懐疑的になってしまった王が、俺達を咎める可能性ってのは、決して低くないだろう」
「むしろ、今帰れば、槍で貫かれる未来しか浮かばないにぃ」
「けひひ、妾はそれでも一向に構わぬがな」
「まぁ、お前はな……」
「エクサ、おまえさん、冒険の書はまだ持ち歩いてるにぃ?」
「おう」
「にゃら、四年前の事も書いてあるのかにゃあ?」
「ある……まぁ、記載すべき部分を取捨選択してるけどな」
「ほぉ、確か、冒険の書はアジーがそなたの為に束ねた魔道書であったな? あれはそなたの魔力を通して、記憶から言葉を紡ぐ書。いつから、そなたは記憶の選り好みを可能にしてたのか?」
ロゼの見識は概ね正しかった。俺がアジーから受け取った魔道書……冒険の書は当初、俺の記憶をほぼそのままに転写する癖のあるものだったのだ。
だが、日課として、旅の思い出を綴っている内に、いつしか自然と……記憶の選定ができるようになっていた。
「魔道書と言っても、結局は紙の集まりだ。最悪、塗り潰すこともできるし、自分で書き加えることもできた。要は、人に見られて困るような部分……性癖とかな。そういうのはさすがに残す必要がないからさ、そう思っている内にできるようになってたって感じだ」
「そなたの性癖など、書かれていても読みたくはないぞ」
「そうかぁ? 俺がどれだけロゼを愛しく思っているのか、よくわかるぜ?」
「ふん、知ったことか」
「寂しいこと言うなよぉ!!」
言って、俺はいつも通り、ロゼへ襲い掛かった。
「だからっ!! 妾に気安く触れるでないっ!!」
「目の前でいちゃいちゃしないでほしいにゃあ」
ため息まじりにパールが呟き、その日の密会はあまり功を奏さないまま、ただの晩酌へと変わっていった。