EpisodeⅠ‐Ⅳ
豊穣の月、第三木祀の日
さて、いよいよ俺達は出立の瞬間を迎えようとしていた。
飛空挺を囲んでいた仮組みの足場や屋根が取り払われ、城の庭園へ全貌を曝け出した飛空挺に、国民達の好奇心の視線が一斉に集まる。
「アニィ?」
国総出の見送りに応じようと甲板に揃ったのは俺、パール、ロゼ、エミール……そして、なぜかアニィだった。
シメオン双子は操舵室に待機しており、甲板には全部で五人立っている。
「申し遅れました。この度、飛空挺に同乗させて頂く次第となりました。アジルヒム・オルトレツィス様の使用人であるアニィ・カプリでございます。皆様、御用とあれば、なんなりとお申し付けください」
「ふむ、ではアニィ、妾は肉が食べたいぞ、あいたっ!!」
「今ぐらい我慢しろ」
エミールは甲板から身を半ば乗り出して、陽気に手を振っている。
パールは「空は青いにゃあ、雲は白いにゃぁ」とぶつぶつ唱えており、視線は常に忙しなく泳いでいる。普段はそそり立っている耳も、今は頼りなくぺたんと折れていた。
アニィは瀟洒たる立ち振る舞いで、俺達よりも数歩後ろに控えていた。
俺はロゼを抱っこすると、国民達の目に映るように掲げてみせる。
「こ、こら、エクサっ!! やめぬかっ!!」
「こうでもしないと、お前の姿が見えないんだからしかたねーだろ」
王の傍に控えるアジーがげらげらと、指を差して笑っていた。
そして、遂に飛空挺がゆっくりと地を離れる。
国民達から歓声がわき上がり、俺もこの貴重な体験に感動を隠し切れず、つい「おぉぉぉ」と叫んでしまう。
じたばたともがくロゼを降ろしてやり、勇者の剣を天に翳した。
ゆっくりと小さくなっていくトラム王国の民。最後に王の姿を確かめようと、目を細めた時。
王の元へ慌ただしく駆け寄る使用人の姿が確認でき、妙な胸騒ぎを覚えた。
王がなにかを叫び、アジーが飛び跳ねるように立ち上がる。
その拍子にアジーのとんがり帽子がずり落ちていたが、彼は気にも留めず、こちらへ向かって何かを訴えていた。だが、飛空挺は加速を始めており、アジーの声は終ぞ届かなかった。
「なぁ、パール」
「にゃ、にゃにぃ?」空への恐怖からか、変に色めいた口調になってることには突っ込まず、俺は離陸直後の違和感を尋ねかけた。
「アジー達……なんか、おかしくなかったか?」
「そんにゃの確かめてる余裕なんてなかったにゃあ。それよりもにぃ、さっさと中に入るにぃ」
両の手を甲板に付けて、四本足となり、猫そのものといった様子でよたよたと飛空挺の中へ逃げ込むパール。
その後にアニィとエミールが続き、取り残された俺は、ロゼにも同様の質問を投げかけた。
「ロゼ、アジーの様子に気付いたか?」
「……そなたのセクハラに怯えていて、それどころではなかったなぁ」
皮肉を返された。つんと顔を背けて黙り込むロゼ。
諦めてホールに入ろうとする俺の背中に、しかし、彼女はこう付け加えた。
「一瞬ではあったが魔力を感じたぞ……エクサ、そなたの仕業ではないのか?」
「……俺じゃないな。おまえでもないんだろ? だとすると、なんだ? アジーは、何に気付いた?」
「けひひ、やはり、そなたらとの旅は一筋縄ではいかぬな」
僅かばかりの不穏な気配を残して、飛空挺は無事、空へと旅立った。
王都の輪郭が霞んでゆくと、飛空挺は雲泥を貫く山々を越え、赤砂の続く砂漠を過ぎ、棚田に寄り添う河川をも渡っていった。
緩やかに流れていく各地の景色で、かつての旅が思い起こされ、在りし日の冒険が脳裏に蘇ってくる。
山塊の麓で遭遇した竜の親子との対話、砂を赤く染め上げた砂蟹との対決、河川の横断を拒んできた水霊との約束。
雲を掴もうと再び甲板へ出た俺とロゼとエミールの三人は、眼下に広がる風景の移り変わりを、それぞれ異なる想いで眺めているようだった。
過去の追想に耽り黙り込んでいる俺とは別に、エミールは常に嬉々とした声を上げている。そんなエミールの相手を一々付き合わされているのがロゼだ。
パールは既に喫煙室にこもっており、アニィもそんなあいつの呼び掛けに備えて、一緒に二階へ上がっていった。
「あっ、ロゼ、あっちを見てよっ!! あの森の奥にボクの故郷、ラグランジュがあるんだ」
「う、うむ、そうなのか」
「湖がね、とても綺麗なんだ。雪が降ると湖面を歩けるようになってね、皆で氷を彫って、色々な彫像をつくるんだよ」
「ほぉ、それはさぞかし美しい光景なのだろうなぁ」
傍から見ていると、やはり蒼紅の並び立ちは余計に目を疲れさせるものだ。
「すっかり打ち解けたみたいだな」
「ち、違うのだ。これはエミールとやらが馴れ馴れしいだけでな」
「そんなひどいよっ!! ボク達、年齢も近いみたいだし仲良くしようよ」
「妾はこうみえてもなぁ、そこの猥褻勇者よりも遥かに高齢よ」
「えぇ!?」
「だーれが猥褻勇者だ、だれが!!」
「こ、こっちにくるでないっ!!」
「おらぁ」
「こ、これ、だから妾に触れるなと、エミール、助けよっ!!」
「でも、なんだか楽しそうだし」
「妾は不愉快極まりないのだがな!!」
強引にロゼを抱きかかえた状態で、甲板をぐるぐる回っていると、そこに酷く冷めた声が響いた。
「嫌がる子供を振り回して……貴方は一応は勇者なのですよね、エクサ様?」
「はい、すみません」
「だからっ!! 妾は子供ではないとっ」
ぎゃあぎゃあ喚いているロゼを無視して、アニィへパールの容態を訊く。
「室内に戻られてからはすっかりとお元気になられました。晩餐まで二階で酒を楽しみたいと仰られたので、幾つかの酒瓶や氷と、それに簡単な軽食をご用意して失礼させて頂きました」
「そうか、あとであいつの酒にも付き合ってやらないとな」
「もう……黒海が見えてきましたね」
アニィの一言に、俺もロゼもエミールも口を閉じて、飛空挺の先に広がる黒き海平線を見つめた。
あちらこちらで打ち寄せては水煙を上げるうねりが白い泡を孕んでいるが、海面はほとんどが黒水で満たされている。
世界の終わりを暗示するかのような……この先に新世界があるのだと信じる俺達の希望を飲み込むかのような混沌たる様。
この深い底に、新大陸の噂を確かめるべく出立した多くの航海者が眠っているのだ。もちろん、空の旅人達もまた、怪鳥に襲われては、翼を折られ海へ堕ちていったのだろう。
「噂で聞いてたけど……本当に真っ黒なんだね」
「あの波の往来は、風だけとは思えぬな」
エミールの呆然とした呟きに対して、ロゼは小さな片手を空へ翳し、風の具合を確かめながら答えた。
「私達の旅は……無事、実りを結ぶのでしょうか」
「任せておけよ。その為の俺達だ」
俺の体の良い一言に、ロゼは「けひひ」と不気味な笑いを挟む。
「外の様子はどうっすかねー?」
その声は、かつて仲間達と旅した時の記憶を想起させた。この独特な訛りは、えっと確か……。
俺が記憶を掘り返すよりも早く、彼は自ら答えを口にした。
「あ、皆さん。どうも……はじめましての方ははじめましてっすね。自分は、この旅で操縦を任されたシメオンの兄、ロー・シメオンです」
土汚れが染み付いたかの黄褐色の肌、日に焼けた髪はどれも歪な輪を描いて、先を好き勝手に曲げている。
深みあるエメラルドグリーンの瞳だけが鮮やかな光彩を放っていた。
操縦士の印象にそぐわないクリーム色にサーモンピンクのチェックを引いたシャツが、一際に目を惹く。
既にはなれ屋敷で顔合わせは済んでいたのだが、陽光に晒された顔貌は、空へと旅立ったからか、それとも城の堅苦しい空気から解放されたからか、とても溌剌として見えた。
口調も彼本来の訛りを取り戻し、アジーとの場で挨拶した彼とはとても結び付かないような饒舌さを得ている。
「ロー様。操縦は?」と、アニィが手短に質問し
「今は、弟のムーが見てるので安心してくださいな。風向きも安定してるっすから、ちょいと挨拶がてら、黒海を拝みにきたんす」
ローは朗らかに答えた。
この場の会話は、初対面の面々に譲ることにして、俺は黒海を眺めていた。
「ボクはエミール・コフィンロードです。それで、こっちがロゼです」
「おい、なぜ妾だけ愛称で紹介する?」
「エミール様はアジルヒム様の代理としてこの旅に招待されました。ロゼンタ様……ロゼンタ・グリムド・カー様は、ロー様もご存知かと思いますが、エクサ様同様、英雄に数えられるお一人で御座います」
不服そうなロゼに代わって、アニィが付け加えている。
「ほうほう、こりゃ光栄です」
「そなたのその訛り、オールドパークの出か?」
「ご明察っす。自分と弟はオールドパーク出身になりますんで、このノイエヴェルに導入されてます浮揚鉱石についても、あるていどの理解があるっすよ」
「ねねっ、ローさんは怪鳥を見たことがあるの?」
「自分は……その……」
エミールの無垢な問いかけを受けて、見るからに動揺し、返答に窮するロー・シメオン。
「間近で見たら生きて帰れてないだろうさ」
と、ここで助け船を出してやる。
「そ、そうっすね、えぇ、自分達はその……遠くに影を見ただけなんすよ。それだけで、自分達は東の空を諦たんす」
「そっかぁ、ボク達はどうなるのかな……やっぱり襲われるのかなぁ」
「けひひ、ぜひともご登場願いたいものよ」
「ロゼは信じてないの?」
「そうでない。妾は……語るに驚かすのが好きなのだ……いい茶請けになるでな」
「あ、奇遇だね。ボクも伝承を皆に語るの好きだよ。旅の醍醐味だよね」
「そなた、絶対にわかっておらぬな?」
「そんなことないよー」
「そんなことあるわ」
ロゼが言いたい茶請けとは、話題になるという言い回しではなく、文字通り怪鳥の肉を茶と一緒に出して、あいつの故郷の……魔女会の連中に一泡吹かせてやりたいという意味なのだろう。
「ははっ、なんだかお似合いだな」
「エクサ、からかうでない。そなたこそトラムの姫様に会えなくて残念だったなぁ、えぇ?」
「んー 俺? リーシャ姫に興味あるとか言ってたか?」
「四年前は可愛い可愛いと騒いでいたではないか」
「はー、よく覚えてんなー」
「ふんっ、ロリコン勇者め」
「なら、俺のストライクゾーンはお前だけだな、ロゼっ!!」
「その嫌らしい目をやめろよぉ!!」
ロゼとの距離をじりじり詰め寄り、今にも飛び掛かろうとした刹那。
「そういえば、出立のとき、王のお傍にリーシャ様の姿が見えませんでしたね」
「……あっ?」
「そうであったか?」
アニィの何気ない一言に、俺とロゼはほぼ同時に声を裏返した。
「いや、まさかな……」
「これって、フラグ、かな?」
最後にエミールが言い残した、いわゆるフラグというものが、どういう意味なのか。俺はすぐに理解することになった。
漂う雲が茜色に染まる頃。
飛空挺の食堂中央に据えられた円卓には、晩餐の給仕に忙しいアニィと、操縦から手を放せないシメオンを除く面々が揃っていた。
客間と然して変わらない高さの天井には、完成の間に合わなかった瑠璃聖石のシャンデリアが幾つか吊り下がっており、その表面には発光を白く変色させる為の加工が施されている。
アジー曰く、魔術刻印で発光する装置の為、魔力供給が必要不可欠であること、よって、基本的には大きな間取りの部屋、食堂や遊戯室、それから飛行そのものに影響を及ぼす操舵室などにのみ供給するようにし、可能な限りの節約を試みて欲しいとの事だった。
飛空挺の動力室に貯蔵されている魔力は、前以ってトラム王国の魔術師達から捧げられたものであり、それでも、以ってして一ヶ月が猶予だと予想されている。
道中、魔力の扱いに長けているロゼ(もしかするとエミールも)がこまめに魔力を補充した所で、全体の割合としては微々たるものなのだとか。
動力源となっている浮揚鉱石は、魔力供給を必要とせずとも揚力を生じさせるため、墜落の心配はないとの事らしいが、なんにせよ節約は悪くないだろう。
「にゃにゃ、怪鳥さんは出なかったにぃ? にゃかか、晩餐が寂しくなるにゃあ」
「そなたはまるで役に立ちそうもないがな」
早くもできあがっているパールを見て、半ば呆れ口調で冷やかすロゼ。
しばらく他愛のない会話を続けていると、突然、勢いよく客間側の扉が開かれ、俺達は何事かと一斉に振り返っていた。
「優雅な空の旅、いかがお過ごしでしょうか。みさなま、初めまして……あたくしはリーシャ・トラム・ランベルジュと申します。この度、空の旅に選ばれし皆様と晩餐を共にできること、心嬉しく思いますわ」
「側近のレイ・ナイトブランドで御座います。以後、お見知りおきを……」
扉の前に立っていたのは、きらきらを振り撒く麗しき姫君と、その脇に控える黒尽くめの従者。
「「「お姫様っ!?」」」
何人かの驚愕の声が重なり、その様を満足げに見渡すリーシャ姫。
こうしてノイエヴェルの搭乗員が、全て明らかとなったのだ。