EpisodeⅠ‐Ⅱ
豊穣の月、第三水祀の日。
トラム王国に到着した翌日。
はなれ屋敷で一夜を過ごした俺は、疲弊の抜けきっていない四肢をなんとか言い聞かせて、城の広大な庭園を散策していた。
まだ日も昇りきっておらず、蒼穹に浮かぶ綿雲の一つ一つを隅々まで見渡せる。
飛行船の搭乗経験もない俺は、雲に手が届いた場面を想像して、どんな味がするのだろうか、などと子供じみた疑問を浮かべていた。
小鳥の囀りや園芸樹の葉が奏でる風の音だけが周囲に漂う、長閑な早朝だ。
花園を挟んで視界に映る城は薄っすらと霧を纏っており、見受けられる使用人の姿は綿雲の数よりも少ない。
アジーから聞かされた話を思い出すと、深い溜息が出た。
アニィに語った通り、俺はそもそも世界を救うだとか、そんな大義名分を背負って旅を始めたわけじゃない。
ただ、自分の知らない世界を巡り歩きたかっただけなのだ。
だから、剣術だって魔術だって初めから卓越していた訳でもないし、揺るぎない正義感や達観した判断力なんてのも、持ち合せていなかった。
十代半ばの、年相応に世間知らずな若人でしかなかった。
いつも正しい選択をしてこれたなんて、これっぽっちも思っていない。
むしろ、後悔の記憶の方が遥かに多いだろう。
それでも、アジルヒム・オルトレツィスと出会い、パールと出会い、ロゼンタ・グリムド・カーと出会い、フラン・ミクシリアと出会い……そうやって友を得ては、己の信じる何かを貫いてきた。
このトラム王国でも……黒部の旅団と相対して、彼等を殲滅して……それが正しかったのだと思っていた。いや、思い込んでいた。
勇者、その響きに一種の喜びを感じていないと言えば嘘になる。だが、自分が灰色幻想譚などで語られるような勇者像に相応しいのかと自問すれば、やはり、答えられない。
ライラックやクロッカスなど庭園を鮮やかに彩る花々を見渡していると、城の正門が開く音が聞こえた。
目を細めて正門の方を見ると、俺がアニィと一緒に乗ってきたものと同じ型の……トラム王国の国旗を浅風になびかせた馬車が城まで続く道を進んでいた。
また一人、空の旅に招待された誰かが到着したのだと悟り、近寄っていくと、急停止した馬車の中から、にゅるんと太っちょが這い出てきた。
「にゃっかかぁっ!! おまえさん、久しぶりじゃないかにぃ?」
演劇で聞こえてきそうな派手な笑い方、猫人族特有の訛りある語尾。
その人物は、馬車からどんっと降り立つと、俺を見るなり尖った歯を剥き出しにしてにんまりと笑った。
「おっす」
俺は小声で答えて片手を振り上げた。猫人族は聴覚が人間よりもずっと優れている。あいつにあわせて大声を張り上げる必要がないのは楽で助かる。
ずんぐりと太った腹周りとは不釣り合いな程に細い手足。卵に裁縫針を刺したかのような体形に合わせた特注品のベストは、さっきまで眺めていたライラックの花弁よりも濃い色合いをしている。
毛並みはダークブラウンで、開いている片目は鈍色に妖しく光っていた。
刺突剣と呼ばれる剣を腰に携えた隻眼の剣士パールは、全身を左へ右へと傾けながら大股で俺の前まで近寄ると、より一層、口端を吊り上げた。
「おまえさんにしては早いんじゃないかにぃ?」
「暇人なもんでな」
「にゃかか!! お役御免となった勇者様ほど哀れなものもないにゃぁ。そりゃあ空の旅もさぞかし楽しみだろうにゃあ」
「うるせぇよ。ったく、またおまえの憎まれ口を聞けると思うと、俺も感慨深いぜ」
「そいつぁお互い様だにぃ、にゃかかかぁ」
ご機嫌な様子で腹から笑い声を上げているパールへ、俺は声の調子を一段階落として尋ねた。
「それはそうとパール」
「んにゃ?」
「おまえ、空は大丈夫なのか?」
「だーじょうぶなわけないだろうにぁあ。おいら、失禁覚悟だにぃよ」
「断ればよかったじゃないか?」
「おまえさん、そりゃああんまりだにぃ。久しぶりに友と会えるんにゃったら、下着の一つや二つ、惜しくないにゃあ」
「下品なたとえも変わらねぇな」
「にゃっかか!! 多めにみてくれにゃあ、なんだかんだでおまえさんと再会できて嬉しいんだにゃあ。ロゼやフランも来てるのかにぃ?」
「ロゼはまぁ……ぎりぎりだろうな。むしろ、遅刻じゃねーか? フランはパスだってよ」
「にゃあにゃあ、フランには会えないのかにゃ、しょんぼりするにぃ」
「まぁ、つもる話は後にして、先に王との謁見を済ませてこいよ、アジーも待ってるだろうしな」
「だにゃあ……とと、エクサ」
「ん?」
「おまえさん、やっぱルピーとつがいになるつもりはないのかにぃ?」
「悪いな……あいつのことは嫌いじゃないけど、俺は放蕩生活を止めるつもりはねーんだ。それに、今回の空の旅だって……帰ってこれる保証はないんだぞ」
「にゃっかか!! 安心するにゃあ、怪鳥なんてもんは、おいらが掻っ捌いて葡萄酒で柔らかく似て、晩餐のメインディッシュにしてやるにゃぁ」
「空が怖くてちびってる姿しか想像できないけどな」
「おいらもだにぃ」
「そこは強がれよ……」
「にゃかか!! 出立は明日だにぃ、今夜は飲み明かすにゃよ」
「おう、分かったから。ほら、使用人も困ってるし、さっさと行けって」
パールはまん丸い体に不釣り合いなひょろりと長い尻尾をふわふわと宙に泳がせながら、馬車の元へ戻っていく。
「エクサっ!!」
「なんだよっ、まだなんかあんのかよ」
「おまえさん、さっきまで何を思い詰めとったのか知らぬがにぁ、ルピーを泣かせるような真似だけはするにゃよ?」
「……んなことしねーって」
「にゃか、ならいいにぃ」
ずんぐりにゃんこを見送ると、俺はもうしばらく、外の空気を吸っていようと花園の方角へ踵を返した。
すると、遠くから
「エクサ様、外にお出ででしたか」
「……アニィか」
「朝食のご用意が整っておりますが……」
「無意識なのか?」
突然の詰問に、アニィはややたじろいだ様子をみせた。どうも演技とは思えない。だとすると……、まぁ、使用人と言えば盗み聞きだしな。足音を殺す癖ぐらい自然と身につくものなのかもしれない。
「……?」
「……いや、なんでもない」
「はぁ……朝食はいかがなさいますか?」
「折角だから頂こうかな。アニィが作ったのか?」
「はい、お口に合うかどうか……」
アニィはエプロンの裾をぎゅっと握って、申し訳なさそうに答えた。
「俺の舌は肥えてるぞぉ?」
こういう場面でいじめたくなるのが、ロゼに言わせてみる所の猥褻勇者に繋がるのだろうか。へへっ、こちとらもう開き直ってますがな。
「先に謝らせていただきます。どうかお許しを」
けど、大真面目に頭を下げられると、さすがにばつがわるい。
「うん、こっちこそなんかごめん。大丈夫、俺、女の子の料理大好きだから」
昔の仲間達――女性陣のロゼとフラン――は壊滅的な腕前だったからな。焼くか捌くかの方法しか知らない俺やパールよりも酷いって、どういうことだよ。
その日は確か、日没前からパールと飲み始めていた。
はなれ屋敷には、喫煙を好む客人の来訪に備えてか、客間二部屋程の大きさの喫煙室も設けられていた。
パールはパイプを咥え、もくもくと紫煙を漂わせながら、燻製の羊肉やカビのくっついたチーズを肴に葡萄酒を堪能していた。
俺はメリヴェールから仕入れたと給仕が話してくれたプラム酒をソーダでわってちびちびと口へ運んでいた。
パールは猫人族でありながら、彼等の種が嫌う喫煙や飲酒を嗜む。
相手を知る為の歩み寄りなのだとして、人間の嗜好品に積極的に手を出すパール独自の価値観は、俺が初めて猫人族の集落を訪れた時には周囲からひどく疎まれていた。
俺達が集落を訪れるまで、他種族に対して閉鎖的だった猫人族も、パールやルピーの一件があり、歩み寄る未来を選ぶまでに変わり、その後、パールが旅に同行したいと申し出た時には困惑したものの、振り返ってみれば、彼に助けられた事は一度や二度だけでもなく、いつしか、感謝してもしきれない頼りある仲間となっていたのだ。
「おぬしら、もうできあがっとるのか……」
呆れ顔のアジーが喫煙室に姿を現したのは、俺とパールが飲み始めて数時間後の出来事だったと思う。
「うわっ、煙たっげほっ……それに、さけくさい」
続けて、アジーのとんがり帽子の陰からひょこんと顔を出し、パールがこもらせた濃い煙に咽始めたのは小さな子供だった。
世にも珍しい蒼銀色の頭髪は、湖畔の里ラグランジュで暮らす人達の特徴だ。
酔いも醒めるような美しい髪は、後ろで三つ編みに結われているのが、先程のひょこんの際に確認できていた。
小人のアジーよりも小さな体躯に、酷く不格好に映る大きめの黒外套を羽織っており、だらんともたげた袖が、幼い頃に母から読み聞かされた絵本のゴーストを連想させる。
長旅による日焼けをまるで感じさせない透明感のある白い肌に、湖畔の澄んだ水を思い出させる薄氷色の虹彩。
中性的な容姿に浮かぶ可憐な微笑と、目元に漂わせる活発な印象が、少女の淑やかさと少年の無邪気さとを混在させており、更には体の線を覆い隠す外套も相俟って、その子の性別を曖昧に仕立て上げている。
「おぉ、エミールよ、無理するでないぞ……落魄れた英雄達の毒を取り込む必要などないのじゃから」
「落魄れた英雄で悪かったな」
「にゃかかかぁ、おいらもふくまれてるんだにぃ?」
アピールポイントである口髭も力なくもたげ、呂律も危ういパールの笑い声。そこへ果敢に立ち向かおうと煙の中へ一歩、踏み出す子供。
「英雄の皆様はじめましてっ!! ボクはエミール・コフィンロードと言います。この度はアジルヒム老の代理としてノイエヴェルに搭乗することになりましたっ!!」
人懐っこい喋り方だ。
「男? 女?」
「よく間違われますが、男ですよー」
酔っていたとはいえ、エミール君は俺の不躾な質問にも素直に答えてくれた。そんな彼の代わりに俺を咎めるのがへべれけ猫だ。
「おまえさん、そりゃあぁしつにゃいなしつもんだにゃあ」
「何言ってるかわかんねーし」
「わっ、わっ、大陸の隅々まで名の轟く英雄達とこうして会話できるなんて、とても感激ですっ!!」
言って、濃い煙に咽ながらも勇み足で俺達の傍まで駆け寄ったエミールはまず俺の手を掴んだ。
「ボク、頑張って役に立ちますから、空の旅、必ず成功させましょうね!!」
「お、おぅ」
「にゃっかか!!」
エミールの純真無垢な瞳にやや気圧されながらも頷く。そういった後ろめたさを鋭く見抜いて笑い飛ばしたのは、やはりべろべろ舌足らず猫さんだった。
「もう見抜いてるとは思うがの、エミールはラグランジュの民じゃ。して、一流の魔器製作者でもある。彼等の界隈では賢者などと呼ばれておるでな」
「賢者だなんて、そんな……ボクはただ、みんなの教えを忠実に守っているだけなんです」
おまけに謙虚ときたもんだ。賢者なんて呼び名に聞き覚えはなかったが、アジーの推薦でもある。頼りにして間違いはなさそうなだ。
「そっか、期待させて貰うよ。どうだ? 一杯やるか?」
「い、いえ、ボクは……」
「たわけがっ!! 子供に酒を勧めるでない」
「けど、俺は十六の頃にはもう飲んでたじゃねーか」
「にゃっかか、おいらが飲ませてやったにぃ」
「自慢げに語るでないわっ!! ったく、ぬしらは変わらんのぉ」
「あの、ボクもお話に加わってもいいですか?」
キラキラと目を輝かせて、俺とパールの反応を窺うエミール。
「構わねーけどよ、お子様には、ちょーっと刺激が強いかもしれないぞ」
「おぉ、エミールよ。今日は長旅で疲れたじゃろ? こやつらとはいずれ飛空挺の旅で嫌となるほど顔を合わせる事になるんじゃ。客間へ案内するからの、今日は大人しく休むとええ」
「アジー様がそう仰るのでしたら、そうですね。お言葉に甘えさせていただきます。それでは、勇者様、パール様、どうぞよろしくです」
「あぁ、よろしく」
「よろしくにぃ」
未来ある若者を毒の煙から遠ざけようと、エミールの背中を押して、駆け足気味に退散するアジー。
で、残された落魄れ英雄の俺達は、いつ寝たのか思い出せなくなるまで飲み続け、喫煙室で仲良く日の出を迎えましたとさ。