『私』の定義
『私』って、いったい何なんだろう?
ふと、そう思った。何をもって私を私と言うのだろう。
ヒトを構成する細胞の数は、約60兆個と言われている。つまり、60兆個の私の集まりが、『私』なのだ。
それを踏まえたうえで、頭の先からつま先まで意識を巡らせてみる。毛髪の一本一本から爪の先に至るまで、全てが私だ。私でない異物など、当然ながら一つも存在しない。
ところで、60兆個の私達は、個々で差はあれど寿命があり、絶えず古いものは死に、その都度新しい私達が生まれている。でも、そんな自覚はまったくもってない。知らない内に勝手に起こっていることだ。
一番寿命が長い私でも、大体6ヶ月位で生まれ変わるらしい。なら、6ヶ月前の私と今の私は、まったく違う私ということになるのだろうか?
『私』のことなのに、知らない内に違う『私』になっていただなんて、そんなの、本当に『私』だといえるのだろうか?でも、じゃあ結局、『私』って何?
爪を見てみる。少し伸びてきたその爪は、先週学校の先生に切りなさいと注意されたけど、結局めんどくさくて切っていない、その爪。
この爪は、まぎれもない私の一部だ。当然だ、私から生えてきた爪が、私の一部でないわけがない。でも…爪切りで切られた爪は?それも、私の一部と言っていいのだろうか?元私の一部?私だったもの?どう呼ぶのがしっくりくるだろう。
私から切り離された時点で、それはもう私ではないのだろうか?もし私だったとして、私は私の一部を、今まで平然とした顔でゴミ箱へ捨てていたことになる。同じ私なのに、私が私を捨てていたのだ。ゴミ箱へ捨てられる私と、これからも私であり続ける私。両者の違いは何だろう?どちらも同じ私なのに。
でもこんなのは、別に爪に限った事ではない。体の中でも、今も起こっていることだ。心臓を構成する私の寿命が尽きて、新しく生まれた私が同じく心臓を構成する。
そうだ…死んでも、代わりの私が勝手に生まれてくる。わたしはなんという重大な事実を知ってしまったのだろう。
わたしは、いつのまにか違うわたしになっていた。そして、たとえ死んでもまた新しく生まれたわたしが、今までと同じように素知らぬ顔をして過ごすことになる。
なら…と思い、台所へと歩いて行く。目的のモノはすぐに見つかった。お母さんは大の料理好きで、たくさんのフライパンや包丁を持っている。今回使うのは、この中華包丁だ。腕にずっしりと重みが伝わってくる。
両手に中華包丁を持ちながら、今度は庭に出てお父さんが日曜大工で使う工具や木材を漁り出す。わたしはお父さん似なのか、料理よりも、何かを作ることの方が好きだった。お父さんの日曜大工は何度も手伝ったことがあるし、直ぐそこで欠伸をしている犬のポチの小屋を作ったのはわたしだ。お父さんが作るものよりも上手く出来た自信がある。
そんな経験があったお蔭で、思いのほか直ぐに出来上がってしまった。うん、我ながら良い出来だと思う、簡易断頭台の完成だ。
中華包丁に括り付けた丈夫なタコ糸を握りしめ、丸くくり抜いた板の中にすっぽりと顔を差し込む。握っていたタコ糸を離すと、中華包丁が空気を切り裂きながらわたしの首元に一直線で落下してきた。
さて…今度生まれてくる新しいわたしは、いったいどんなわたしだろう?
「ばいばい、今のわたし。ハッピーバースデー、未来のわたし」