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ダウンジャケット

作者: 麻生完備

1月8日(火曜日)

 昨晩の寒さがこたえた。

 悠吾は今朝、この冬はじめてダウンジャケットを羽織って出勤しすることにした。

 最高気温が昨日より2度ほど高くなるという予報だったのだが、出歩くのは朝と夜だと彼は思い、そのまま出掛けた。

 自転車に乗って駅へ走る。空気は冷たく頬を切っていく。体は羽毛と空気の層のおかげで全く寒くはなかった。日差しは強くよく晴れた気持のいい朝だった。

 途中、切らしていたボールペンを買うためにコンビニへ立ち寄ったが、目的の商品がなく無駄足になった。事務所近くの文具屋に素直に寄ればよかったと悠吾は思い、コンビニを後にした。

 自転車にまたがり再度ペダルをこぎ始めた時、足が少しふらつくのを感じた。

「がんばれ俺、なんてな」

 悠吾は力の入らない足を励ましつつ自転車を進ませる。そんな彼を、車が何台も追い抜いていった。

 自転車を左右に振りながらスピードをあげていると、ペダルを踏むごとに体が熱くなってきて汗がにじんできた。駅前の駐輪場で自転車を預けた時、ダウンジャケットの下では汗が吹き出していてシャツが気持ち悪く肌にはりついていた。

「失敗したかな」

 悠吾は自分が汗っかきなのを今更思い出し、服を一枚減らせばよかったと後悔した。

 駐輪場から駅に向かう間、悠吾は上着の下に着込んだパーカーのフードを頭から外して、ジャケットのジッパーをおろした。外気に肌をさらしながら歩いていると冷たい空気が入りこみ熱せられた体に気持ちよく感じられた。体表を覆っていた熱気が首元から上がってきて、眼鏡を曇らせ視界を真っ白にしてしまった。

 しばらく歩いても眼鏡はクリアにならずに白いままだった。視界不良のなか、ぼやけて見える駅の改札をくぐり、ホームへ降りる階段のそばで立ち止まった。少しでも汗が引くようにと、電車を待つ間ここで涼もうと思った。ハンカチを忘れていたので汗を拭くこともままならなかった。

 この寒い時期にジャケットジッパーを下ろし胸をはだけて涼んでいる人を見たらどう思うだろうかと悠吾は考えていた。他人に汗の匂いがしないだろうかと少し匂いをかいでみたりした。

 下り方面の電車がやってくるアナウンスがあって悠吾はホームに降りた。

 日の差さないホームは暗くて、蛍光灯は寂しい青白い光をたたえていた。ジャケットの襟をバタバタさせて待つ悠吾の耳に、電車が入ってくる騒々しい音が聞こえてきた。当然電車が止まるものだと思ってホームの縁に悠吾は二、三歩近づいた。

 間が悪い、ということを悠吾はその瞬間思ったかもしれない。あるいは彼は事故を引き起こす人のそれに近い状態だったのかもしれない。それとも別の何かが彼にまとわりついていて、それが牙を剥いたのかもしれなかった。

 つんざくような大きな警笛がして、電車が轟音を轟かして進入してきた。悠吾は驚いて顔を上げた。

「わっ」

 鉄の塊の奥、見開いた目をした運転席の男と目があった。電車は凶悪なスピードをともなって悠吾の目の前に迫っていた。空気を押しのけてできた風が、圧縮され、塊となって悠吾の体にぶつかった。圧倒的な風圧がダウンジャケットの内側に入りこみ、悠吾の体が、一瞬倍の大きさにふくれ上がったように見えた。なすすべなく悠吾は2メートルほどうしろに押し出されて尻餅をついた。身体中をとり巻いた冷たい空気が彼の汗をきっと冷やした。悠吾は座り込んだ体勢のまま固まってしまって、目の端で車列が過ぎ去っていくのを見送った。

 ホームの中ほどから駅員がかけてきて、大丈夫ですか、危なかったですよ、と話しかけてきていた。悠吾の耳には電車の轟音とつんざくような警笛の音の残響音だけが聞こえていた。

 通り過ぎていった電車は、明るい日差しの中真っ直ぐに延びた二本のレールの先に小さくなっていた。太陽の光を強く反射する瞬間があって悠吾の目を打った。まぶたの奥に青や赤色に瞬く列車の残像が焼きついた。警笛の余韻も耳に遠くなり、今起こった出来事が本当の事なのかどうか悠吾は少し混乱した。

 悠吾は立ち上がることができないでいた。ホームの暗さに慣れるまで、目を閉じて待った。短く息を吐き出した時その瞬間まで呼吸を止めていたことに気がついた。汗の不快感などとうに失せていた。そのことがかえって悠吾に現実を思い知らせた。

「ボールペン買わなくちゃ、な」

 ダウンジャケットの奥は隅々まで冷えていた。




久しぶりに書きました。

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― 新着の感想 ―
[一言] 間一髪、その一瞬の描写が、とても巧みで、どきっとしました。良い短篇を読ませていただきました。ありがとうございます。これからも執筆がんばってください。
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