一日前
「ねぇ、喋ってよ」
なにを? と訊こうとした口は既のところで閉じた。ピーキーな彼女に面倒事を与えるのは危険である。混ぜれば感情の爆発が起きるのはいつもの事なので、あたり障りなく男は「好きだよ」と呟いた。
「わたしも」
ニヘラッ、と崩れた顔を男へ向ける。
いつも、彼女は、愛情に飢えていた。
病的なまでに――もしくは病気の様に、彼女は男の囁くその場凌ぎの愛の言葉を求めていた。好きと言ってもらえれば嬉しがる。男はそんな彼女の性格を知って、あしらうように軽い愛を口にした。
それが彼女と男の関係。不具合で今にも千切れそうな、継ぎ接ぎだらけの布で縫い付けられた人形の様な関係。糸は切れ、しかし自分の意志で感情をむき出しにする人形は――崩れている様で完成している。
男は通りを行くヒトの影を見た。どいつもこいつも、馬鹿らしい顔をして幸せを手に入れていた。
笑顔を振りまく女。仏頂面で道行く男。誰を誘うわけでもなく肌を見せる女。鼻の下を伸ばす男。
ふわふわと重さを失った感情全てが入り乱れて形成された通りの空気に、男は眩暈を覚えた。隣を歩く彼女は何も知らない表情で、きゃっきゃと騒いでいる。「ねぇ、また喋ってよ」指名は常時、入ってきた。「好きだよ」その度に空気の様な言葉を耳に潜り込ませれば、少女は喜んだ。そして数歩行けばまた、同じモノを求めて来る。
嫌気はしない。自分が手に入れた全ては彼女だったから、男は何も文句がない。
でも、それ以上に『壊れてしまった』のは男である。彼女はそんな男を知らない。――知っていても、理解していない。色々弱い子だから、男は彼女を守ると決めている。
どんなに愛に飢えた彼女でも、男がいれば満たされる。満ちていく。
しかし男はそんな事が無い。だからこそ、彼女よりも遥かに現実にとって『異物』である事を、男は正しく理解していた。彼女がいくら、自分に体温を与えてくれようと、男の冷めた体では熱はすぐに力を失う。もがき苦しんで掻き集めたのは少なくとも、人間らしさではなかった
男は彼女の頭を撫でた。黒くて細い、髪の毛だ。手に乗せ傾ければさらさらと落ちていく。花の様な匂いも、尾を引いた。「くすぐったい」と彼女は言う。でもその顔は幸せで満ちていた。辺りに充満する眩暈の元とは違う、質量を持った幸せを男は少なくとも手に入れていた。
「ねぇ、いっぱい喋ってよ」
彼女の催促はこれで、まだいい方だ。
変わらず続いていた日常に安堵しながら、男は喉を鳴らした。
ばら撒いた五本の禁器が――男が望み、求める『狂気』の花を咲かせるのをゆっくりと気長に待ちながら。糸の切れた人形は、ゆらゆらと喧騒の中へ消えた。