二日前
定食屋の老店主が幅広い長剣を拾ったのは昨日の事である。店内の片隅、L字型のカウンターの一番端に立て掛けられたそれを見たとき、老店主は真っ先に言い訳を考えた。
無刀令が敢行され早四十年。一介の国民であるところの老店主がこんな凶器を持っていると勘違いされれば、厳罰は間違いないだろう。死ぬ程の事はない、はずだ。しかし自分の年齢を鑑みるに、日中の労働などを行わされれば死は免れない様に感じられた。老いた体には、辛い労働や拷問なども死に直結するのだ。
脂汗を浮かべた老店主の手には、件の長剣が握られている。質のよい革の鞘に入れられた物だ。生まれてこの方包丁や鍬以外の刃物を握ったことのない老店主には、剣が非常に重く感じられた。持っているだけで、手が震える。刃はまだ見ていない。鞘から抜いてしまうと、魂を喰われるそうに思えたからだ。この下に、人の命を軽く奪う狂気が眠っていると思うと、恐ろしくて堪らなくなる。だからと言って、手放しは出来ない。落せばそれで、呪われてしまう様にも思えたからだ。
いっそ、捨ててしまおうか。
いや、それは駄目だ。駄目。
でも、しかし……一体……。
と永遠に廻る答えなき自問自答を繰り返し、時間を浪費していた。
そして気付けばいつの間にか定食屋の開店の時間になっていた。入口の扉の向こうでは、何も知らない能天気な人が闊歩しているのだろう、と思うと酷く羨ましくなった。こんな物、見つけなければ、とも思った。
しかし幾ら考え事に耽った所で握られた剣が消えるわけではない。
老店主は剣をどこに仕舞おうか、と逡巡し、カウンターの下に隠す事にする。客からは絶対に見えず、老店主にはいつでも見れるという場所だ。自分の目に付かない場所にあると、何故だか心配になりそうだったからだ。
店の外に出て、立て看板をグルリと回し『開店』の文字を出す。頭に布を撒いて、腰に白い前掛けを付ければ老店主のいつもの格好になった。しかし今日は顔つきがいつもより良くない。青ざめているのがよく分かった。
「なぁオジサン。昨日、ここに剣を忘れたんだけどよぉ」
店を開店させて直ぐ。最初のお客として入ってきた黒いローブを羽織った男が、開口一番にそう言った。胸にはギルドのロゴが入っている。男はフードを取りながら、カウンター席に座った。髭が濃く、目つきが悪い。しかしカウンターにいつも立っている老店主には昨日、こんな客が来た記憶も無かったので、少し訝しんだ。
「剣、ですか?」
「ああ剣だよ、剣。革の鞘に入った剣だよ。鈍色の刀身の奴。見てないか?」
刀身の色は初めて知った。どうやら男の言っている物が昨日、拾った剣だと理解すると、老店主は即座に渡す事を決める。あんなもの手元にあったら生きた心地がしないからだ。手元から離れるなら、例え不信でも渡した方がいい。そう思い、老店主はカウンターの下から剣を抜き取った。
誰にも見られていない(店内には老店主と男しかいないのだが)事を確認し素早く男の前に出した。男は髭を摩りながら「おぉ……なるほどねぇ」と呟いて、
「そうそう、これだよこれ。いやぁ、ありがとうオジサン。商売道具が無くなって、困ってたんだ。無刀令のご時世に、よく通報しないで持っていてくれたなぁ。感謝するよ」
「い、いいです、よ。ええ、落とし主が見つかって、安心しました」
事実、自分の手から剣が消えたことに、老店主は安心した。
男は剣をローブの中に仕舞うと、髭を摩りながら店内を見渡し、注文票を見つけると「あー、芋煮の定食かぁー。久々に食いてぇなぁ」とぼやき、懐の中を確認した。金があるか見たようだ。――どうやら金は足りたらしい。
「んじゃ、あの芋煮の定食で」
「え、ええ。分かりました」
老店主はおっかなびっくりしながらも注文を聞き入れ、料理に取り掛かった。すると次第に店の中にはお客が入ってきて、いつしか老店主はローブの男の存在を忘れていった。
喧騒の中、男の座っていた場所を見る。そこには空になった定食の盆と、金がきっちり置かれ、男の姿はいつの間にか消えていた。