恩人と間違えて世子に四年間仕えたのに、本当の恩人はなんと彼の宿敵だった
私は恩人を人違いし、裴月珩に四年間も仕え続けた。
彼のために手を洗って料理を作り、密かに力を蓄えてきた。
けれど彼は、婚約者の機嫌を取るために、私に濡れ衣を着せた。
私が人を陥れるような悪女だと決めつけ、春風楼へ放り込んだのだ。
「身に覚えがないのなら、潔白を守り抜け。そうすれば、いずれ屋敷に迎え戻してやる」
私は屈辱に耐えながら、かつて恩返しの証として大切にしてきた品々を差し出した。
ところが彼は、それらをまるで知らず、嫌悪をあらわにして突き返した。
そのとき、ようやく気づいた。
四年間の恩返しは、相手を間違えていたのだ。
あの日、雪の中で私を救ってくれた人は、別にいた。
本当の恩人は、彼の宿敵だった。
冠軍侯の世子、顧毓沢。
私は自分の築いた財産を手に、彼のもとへ身を寄せることを決めた。
裴月珩と、あの憎き趙家を倒す機会をうかがうために。
やがて仇敵たちが投獄され、すべてに決着がついたとき。
顧毓沢は私の髪に顔を埋め、囁いた。
「こんなに長い間待ったのに、君はどうして、恩返しに一生を捧げるとは言ってくれないんだ?」
1
妓楼へ連行される、その直前まで、私は裴月珩の屋敷にある小さな台所で魚のスープを作っていた。
春風楼の裏庭に乱暴に放り出されても、いったい何が起きたのか、さっぱりわからなかった。
私は自分を捕らえてきた王大と王二に向かい、精いっぱい強気な声を張り上げた。
「あなたたち、いったい何をしているの? 世子様が、私をこんな場所へ連れ込んだと知ったら、絶対に許さないわよ!」
二人は少しも怯まなかった。それどころか、私を見る目には同情さえ浮かんでいた。
「円円、俺たちを恨まないでくれ。こ、これも世子様のご命令なんだ」
信じられなかった私は、声を和らげて尋ねた。
「お二人とも、何かの間違いではありませんか? 世子様はお心の広い方です。私が何も悪いことをしていないのはもちろん、仮に世子様のお気に障ることをしたとしても、まさかここまで……」
言い終える前に、私は中庭の脇の部屋から裴月珩が出てくるのを見た。
彼は容姿の美しい女を抱き寄せていた。私に向けられた冷ややかな眼差しには、凍りつくような怒りが宿っていた。
「普段から私がお前に寛大だから、何をしても罰せられないとでも思ったのか?」
「だから、賊に命じて雪澜をさらわせ、彼女の貞操を汚そうとしたのか?」
「ずいぶんと都合のいい算段だな。頭の中がそんな汚らわしいことばかりなら、武安侯府に残って私の食事を作らせておくのも惜しい」
「春風楼へ送ってやろう。お前の望みもかなうだろう」
雪澜?
趙雪澜のことだろうか。
戸部尚書の嫡女で、つい最近、武安侯の世子である裴月珩との婚約が決まった女性。
私の仇敵だ。
私はもう一度、裴月珩の腕の中にいる女を見た。それから、目に浮かびそうになる憎しみを隠すため、そっと顔を伏せた。
「世子様、あまりにもひどいおっしゃりようです。私は雪澜様のお顔さえ拝見したことがありません。それなのに、どうしてそんなことができるというのですか?」
私は確かに、身に覚えのない罪を着せられていた。
趙家を憎んでいるのは事実だ。けれど、この件については本当に何も知らなかった。
趙雪澜はハンカチで顔を覆い、悲しげに訴えた。
「月珩兄様、私はこの侍女と一度も顔を合わせたことがありません。それなのに、あなたとの婚約が決まった途端、自分が鳳凰のような存在になれなくなったからと、こんなひどいことをするなんて……」
「私はとても安心して暮らせそうにありません。いっそのこと、私たちの婚約はなかったことにしましょう。そうすれば命を守れますし、彼女のあなたへの思いも報われるでしょうから」
趙雪澜の言葉を聞いた裴月珩の目は、いっそう冷たくなった。
彼は私を、まるで今にも屠られる家畜でも見るような目で見下ろした。
「雪澜は心優しい女性だ。そんな彼女がお前を陥れるはずがあるか?」
「盛京で、お前が私にぞっこんで、何でも言うことを聞く女だと知らない者はいない。私はお前を側室にしようと考えていたのに、まさか雪澜への嫉妬から、こんな罪を犯すとはな」
「不満に思う必要はない。身に覚えがないのなら、春風楼でも潔白を守り抜けばいい。そうすれば、いずれ理由をつけて屋敷に迎え戻してやる」
私は趙雪澜の目に浮かぶ嘲りを見て、ようやく事情を察した。
おそらく、これは彼女が自分で仕組んだ芝居なのだろう。
裴月珩が私を側室にしようとしていると知って腹を立てたのかもしれない。あるいは、以前に私の顔を見て、自分の立場を脅かす存在だと感じたのかもしれない。
彼女は自分が嫁いでくる前に、私を追い払うつもりなのだ。できることなら、殺してしまいたいのだろう。
私は思い切って手を伸ばし、裴月珩の袖をつかもうとした。
「世子様、私は何もしていません」
彼は私の手を払いのけると、王大と王二に命じ、武安侯府に置いていた私物を馬車からすべて放り出させた。
ようやくわかった。
彼は私を信じていない。
悲しくないと言えば嘘になる。裴月珩のそばで過ごした四年間、私は確かに心を込めて彼に尽くしてきたのだから。
それなのに彼は、調べようとさえせず、私を罪人と決めつけた。
私はもう、自分からすがりつくのをやめた。
地面に散らばった私物を、黙って拾い集めた。
四年間かけて返してきた恩は、もう十分に返したはずだ。
ただ、私は彼の側室になり、機会をうかがいながら趙雪澜と対決し、趙家への復讐を少しずつ果たしていくつもりだった。
それができなくなったのは、残念だった。
2
裴月珩が趙雪澜を抱いたまま中庭の門を出ようとしていた。
私は数歩で追いつき、声をかけた。
「世子様には恩があります。けれど、もう私に恩返しをさせる必要がないのでしたら、この品々をお返しします。これで、あなたと私の恩義は終わりです。今後は何の貸し借りもありません」
これで、いつか趙家に手を出すときも、武安侯府に遠慮せずに済む。
私は手に持っていた品々を差し出した。
ぼろぼろになった油紙傘。
武安侯府の印だけが底に残るほど削られた銀塊。
そして、穀物店で白い小麦粉を入れるのに使う、ありふれた麻袋。
裴月珩は明らかに戸惑った様子だった。やがて、疑わしげで不快そうな声を出した。
「今度は何を企んでいる?」
「私がこんな安物を持っていたことなど、一度もない。私の馬車を汚すようなものを持ち込むな」
今度は私が呆然とする番だった。
本当に覚えていないのだろうか。それとも、忘れてしまっただけなのだろうか。
私は恐る恐る口を開いた。
「五年前、西南地方で災害が起きたとき……」
彼は不愉快なことを思い出したかのように眉をひそめ、私の言葉を遮った。
「話すことがないなら、さっさと楼主に頼んで男を喜ばせる技でも教えてもらえ。これから少しでも楽しく生きられるだろう。そんなくだらない話で、私たちの時間を無駄にするな」
私の顔から血の気が引いた。
涙が、ぽろぽろとこぼれ落ちた。
私は四年間、恩返しをする相手を間違えていたのだろうか。
四年もの時間を、無駄にしてしまった。
裴月珩は私が泣いた理由を勘違いしたらしい。趙雪澜を馬車に乗せたあと、私に向かって少し声を和らげた。
「円円、お前の気持ちはわかっている。だが、私には家柄の釣り合う妻が必要なのだ」
「ここで貞操を守って待っていられるなら、私が結婚したあと、必ず屋敷に迎えて側室にしてやる」
なるほど。
彼は趙雪澜が私を陥れているとわかっていながら、彼女の機嫌を取るために、私をこんな汚らわしい場所へ放り込んだのだ。
それなのに今度は、私に貞操を守って待てと言う。
あまりにも馬鹿げていた。
それでも、私はどうしても気になって尋ねた。
「もし、私が貞操を失ってしまったら?」
彼はしばらく迷ったあと、私の涙を指で拭った。
「もし潔白を守れなかったとしても、お前を責めたりはしない。そのときは屋敷の外に家を用意してやろう」
「つまり、私は外室になれということですか?」
「お前の身分を考えれば、貞操まで失ったあとに外室にしてやるだけでも、十分に身に余る待遇だろう」
私はどうして、ここまで見る目がなかったのだろう。
こんな男が、あの日、雪の中で私に傘を差し出し、命をつなぐための銀と食料をくれた少年であるはずがない。
馬車の中から趙雪澜が急かす声が聞こえた。
私は恩人が残してくれた手がかりを丁寧にしまい、淡々と言った。
「世子様、もうお帰りください。大切な方をいつまでもお待たせしてはいけません」
悪かったのは私のほうだ。
けれど、今となっては災い転じて福となす、ということなのかもしれない。これ以上傷が深くなる前に、損切りできたのだから。
私は武安侯府の馬車が遠ざかり、やがて視界から消えるまで見送った。
振り返ると、楼主が私のそばに立ち、恭しく頭を下げていた。
「旦那様」
私は軽くうなずき、慣れた足取りで春風楼の中へ入った。
そこには、私のために用意された部屋がある。
私は机に向かい、筆を整え、墨をすった。
私はもともと、西南地方の慶州で最大の穀物商を営んでいた林家の娘、林沅だった。
五年前、西南地方では地震が相次ぎ、山間部では洪水が頻発した。田畑も山も湖も実りを失い、かつて豊かな穀倉地帯だった土地が、飢饉に見舞われた。
戸部はいつまでたってもまともに動かなかった。
見かねた林家は倉を開き、民を救うために食料を配った。
ところが当時の戸部侍郎だった趙朔は、天子にこう報告した。
林家は仁義に欠け、地方官と結託して災害救援のための銀や食料を横領している。粥を配り、米を施しているのも、汚職と癒着を隠すためにすぎない、と。
その報告によって、林家は一夜にして人々から憎まれる悪徳商人となった。
ある夜、飢えた民が林家に押し入り、金品を奪い、家を破壊した。私の家族は命を落とした。
私は母が急いで馬小屋の糞の山に隠してくれたおかげで、かろうじて命を拾った。
そのとき、私はまだ十一歳だった。
こうして、帰る家もない孤児になった。
一方の趙家は、私の家族の屍を踏みつけ、林家の金と店を手に入れ、瞬く間に尚書を出すほどの名家へとのし上がった。
私は冤罪を訴えることもできず、生きていく道さえ見つからなかった。
そんな私に、笠で顔を隠した少年が手を差し伸べてくれた。
彼は、泥と糞にまみれた私を嫌がることもなく、小麦粉の入った袋と銀塊を一つ、私に渡した。
自分の傘まで置いていってくれた。
おかげで私は、京の都までたどり着くことができたのだった。
3
銀塊の底には、武安侯府の印が残っていた。
私はそれを手がかりに、何度も確認した。あの頃、武安侯府の世子が確かに慶州に滞在していたことも調べてあった。
裴月珩の評判も、私が想像していた恩人の姿にぴったりだった。
容姿端麗で、人に寛大。努力家で、頭の回転も速い。若くして秀才の試験にも合格している。
私は深く考えることもなく、裴月珩こそが命の恩人だと決めつけてしまった。
世子は何事にも優れているが、ひどい偏食だという話を聞いた。ちょうど私は料理が得意で、ほかに行く当てもなかったため、彼の身の回りの世話と食事を担当する侍女として武安侯府に入った。
恩返しをすること。それから、復讐を果たし、冤罪を晴らす機会を探すこと。
私には、その二つの目的があった。
身分の高い家に近づけば、権力者とのつながりを得やすく、財を築くこともできる。
落ちぶれたとはいえ、私の頭には幼い頃から見聞きしてきた商売の知恵が残っていた。
武安侯府を後ろ盾にし、世子が最も信頼する侍女という立場を利用して、私は秘密裏に自分の商売を始めた。
その中には、春風楼もあった。
酒に溺れ、美人を侍らせ、酔いに任せて口を滑らせる。妓楼や遊興の場ほど、情報を集めるのに適した場所はない。
筆を走らせていた私は、いつの間にか紙の裏まで墨を染み込ませていたことに気づき、はっと我に返った。
これから何をすべきか、改めて整理する。
まず最初に、あの日の恩人をもう一度調べ直す。
当時の私は頼れる人もおらず、使える金もなかった。そのうえ疑うことさえしなかったから、相手を間違えてしまったのだ。
今なら、きちんと調べられる。
人を動かしてから、わずか二日後。私は答えを手に入れた。
ただし、その内容は……。
「慶州で私が恩人に出会った日、裴月珩は理由もわからないまま顧毓沢に半殺しにされ、持っていた金をすべて奪われたというの?」
顧毓沢は冠軍侯の世子だ。
両家は昔から折り合いが悪く、二人の世子も幼い頃から何かにつけて張り合っていた。
裴月珩は生まれつき顧毓沢ほど体が丈夫ではなく、どちらかといえば絵や詩を好み、礼節を重んじる人物として知られていた。早くから秀才の試験にも合格し、評判もよかった。
それに対して顧毓沢は、幼い頃から刀や槍を振り回し、江湖の荒くれ者たちと酒を飲み、肉を食らうのが大好きだった。
彼が屋敷に囲っている女の数は数えきれないほどだという噂もある。
それに……。
春風楼を開いてからというもの、彼はここの常連客になっていた。
私は当時、裴月珩が父親とともに西南地方の災害処理を経験するため、慶州に来ていたことしか知らなかった。
冠軍侯がもともと西南地方の将軍で、慶州に長く滞在していたことを、すっかり忘れていたのだ。
私は傘の骨を指でなぞりながら、楼主に尋ねた。
「今日は顧世子が来る?」
楼主は少し迷ってから、うなずいた。
「顧世子は五日に一度、音塵閣で友人たちを招いて宴を開かれます。今日はちょうど、その日です」
私はため息をついた。
「今夜は私が世話をするわ」
裴月珩で痛い目を見たばかりだ。もし顧毓沢が彼よりひどい男だったら、恩返しをするかどうかも、もう一度よく考えなければならない。
しかも、二つの家が敵対していたせいで、私はこれまで自分の商売を使って裴月珩に便宜を図る一方、顧毓沢にはずいぶんと邪魔をしてきた。
そう思うと、少しばかり気まずくなった。
私は筆を置いた。
まあいい。どれほど気まずくても、一度は顔を合わせなければならない。
何しろ、私はすでに武安侯府を追い出された。手元の証拠もまだ足りず、冤罪を晴らすためには、もう一つ有力な家に身を寄せ、証拠を集め続ける必要がある。
冠軍侯府なら、その条件にぴったりだった。
夕暮れどき、私は音塵閣へ足を踏み入れた。
私はもうすぐ十六歳になる。体つきもすっかり女性らしくなり、深い紅色の襦裙は、両手で抱えられそうなほど細い腰の線を際立たせていた。
髪は蛇のように優雅な形に結い上げ、眉間と目尻、それから唇の中央にほんのり紅を差した。
愛らしさの中に、色事の世界へ足を踏み入れたばかりの初々しさも残している。
中へ入って真っ先に目に飛び込んできたのは、上座に座る男だった。
衣の襟元を少し開け、くつろいだ様子で酒席を囲んでいる。
盛京の人々は、顧毓沢といえば型破りで素行の悪い男だとばかり言う。どうして、こんなに顔立ちが整っていることを誰も褒めないのだろう。
裴月珩より、何倍もいい男ではないか。
私は昔から顔立ちの美しい人に弱い。相手の言動より先に、どうしても顔を見てしまう。
そのとき頭に浮かんだのは、なんとも現金な考えだった。
彼なら私にぴったりだ。美男美女の夫婦になれば、生まれてくる子どもも、きっと顔立ちがいいに違いない。
4
私はすっかり美貌に目を奪われ、挨拶をすることも忘れていた。
酒席に裴月珩がいることにも、気づかなかった。
楼主がそっと私の手のひらをつねってくれたおかげで、ようやく我に返った。
彼女は慌てて取り繕った。
「皆様、こちらは新しく入った子でして、まだ若く、何もわかっておりません。どうか大目に見てやってくださいませ」
男たちは私をじろじろと眺め、下品な言葉を口にした。
「こいつ、裴世子のそばにいた侍女じゃないか。前から顔はきれいだと思っていたが、体つきまでこんなに……」
「へえ、裴世子ともあろうお方が、こんな上玉をよく手放したものだ。飽きたってことか?」
「飽きたんなら好都合だ。俺たちにも楽しませてくれよ」
そこで私は、ようやく裴月珩の存在に気づいた。
彼は不機嫌そうに顔をしかめていたが、私を見つめる目には欲望も隠れていた。
気持ちが悪い。
私が彼を見たことに気づくと、裴月珩は少し機嫌を直し、下品な冗談を口にした男たちに向かって自慢げに話し始めた。
「私は近々、妻を迎えることになっている。円円は雪澜を逆恨みして、わざわざ賊を買収したのだ」
「今日、私が来ると知って、わざわざ自分の初めてを私に捧げようとしているのだろう」
私は吐き気を覚えた。
四年間、あれほど心を尽くしてきた自分が、ひどく惨めだった。胸の奥が凍りつくように冷えていく。
私は顧毓沢に目を向けた。
この数年間、私は生き延びるため、復讐と冤罪を晴らす機会を探すため、さまざまな人間が集まる場所に出入りしてきた。
そこで、まともな人間もいれば、とんでもない人間もいることを知った。
だからこそ、私は確信していた。
ここにいる男たちの中で、目に濁りがないのは顧毓沢だけだった。
彼は私を頭の先から足元まで眺めると、口元をつり上げた。
「裴月珩、お前、自分に都合よく考えすぎじゃないか?」
「円円は、私が指名したんだ」
「いやあ、実に恥ずかしい話だが、私はずいぶん前から円円に一目惚れしていてね。こちらが思いを寄せても、相手には届かないものだ」
「だが、見る目のない男が、こんな磨けば光る玉を石ころのように捨ててくれた。私が拾わなければ、もったいないだろう?」
ようやく落ち着きかけていた裴月珩の顔が、再び真っ黒になった。
彼は杯を叩きつけるように置いた。
「顧毓沢! お前の屋敷には、数えきれないほど女がいるだろう。それなのに、どうして円円にまで手を出すんだ!」
「男なら、円円自身の意思を聞いたらどうだ!」
「円円は私に深く惚れている。今夜だって、私を選ぶに決まっている!」
何を寝ぼけたことを言っているのだろう。
よくもまあ、そんな白々しいことが言えたものだ。
そもそも、お前が私をここへ送り込まなければ、顧毓沢が手を出す機会だってなかったはずだ。
お互いにどちらがもっともらしい顔をしていられるかという勝負なら、私だって負けない。
私は裴月珩に向かって、かつてと同じように、従順で柔らかな笑みを浮かべた。
「裴世子、どうかお言葉にはお気をつけください。私は以前、あなたの身の回りの世話をする侍女でした。食事や身支度を整えるのは、私の仕事です。わずかな給金をいただくために働いていただけなのに、どうして世子様への深い恋心だとか、身分の高い方に取り入ろうとしていたなどと誤解なさるのですか?」
「趙様を嫉妬していたというのも、とんでもない誤解です。私はただの侍女にすぎません。そんなことをするための金など、どこにあるというのでしょう? 世子様なら、調べればすぐにわかるはずです。それなのに、わざわざ私を春風楼へ送り込んだのは、世子様ご自身ではありませんか」
裴月珩の自信満々な表情が、ぴたりと固まった。
「円円、もう意地を張るのはやめなさい。私にも事情があったんだ。あとでちゃんと説明するから、それでいいだろう?」
冗談じゃない。
単に色欲に負けただけではないか。
ここで信じてしまえば、さんざん利用された挙げ句、用が済んだ途端に知らぬ顔をされるのが関の山だ。
私が今まで優しく接しすぎたせいで、彼は指先ひとつ動かせば、私のほうから喜んで飛び込んでくると思っているらしい。
私は裴月珩を一瞥しただけで、すぐに顧毓沢へ視線を戻した。
そして、ほどよく恥じらいを含んだ笑みを浮かべる。
「今までの私は、目の前のことしか見えていなかったようです。まさか顧世子が裴世子より、こんなにも素敵な方だったなんて。どうりで、たくさんのお姉様方が顧世子の屋敷に入りたがるわけですね。私も顧世子についていきたいです……」
顧毓沢は、面白いことが起きるなら見逃さないという顔で立ち上がった。
そのまま私の腰を抱き寄せ、楼主に金二両を渡して、私を「買い取った」。
そして裴月珩に、挑発するように眉を上げた。
「聞こえただろう?」
彼の手のひらには硬い胼胝があった。私の腰を撫でるように触れられ、ぞくりと体が震えた。
この色魔め!
まさか私、また男を見る目を間違えたのだろうか。
5
裴月珩は怒りで顔を真っ赤にし、私を指さして罵った。
「よくもそんな真似ができるな! 私のもとを離れて、まだ何日だと思っている? もう男を探すのか!」
「顧毓沢、お前もいい気になるなよ! こいつは自分から男にすり寄っているんだ。とっくに貞操を失っているかもしれないぞ。私の屋敷の馬番や庭師のような身分の低い男たちに、すでに抱かれている可能性だってある!」
私は眉をひそめた。
その瞬間、顧毓沢が冷たい顔で刀を抜き、裴月珩の首筋に突きつけた。
「お前の言葉が気に入らない」
酒席にいた男たちは、酔いもすっかり醒めたようだった。
我先にと逃げていく。
裴月珩は歯ぎしりしながら、「お前を恐れているわけじゃない。ただ、お前と争うのが面倒なだけだ」と捨て台詞を残し、逃げるようにその場を去った。
ふん。意気地なし。
ついでに、豚の脂に目がくらんだように、あんな男を信じていた自分の愚かさも、もう一度呪っておいた。
顧毓沢が私の腰から手を離した。
私は顔を上げ、笑みを浮かべた彼の切れ長の目を見つめた。
「本当に私についてきたいのか?」
ええと、これは……。
まさか私、自分自身を差し出すことになったのだろうか。
私が答えられずにいると、彼はさらに楽しそうに笑い、私の額を指で弾いた。
「お前、なかなか面白いな」
「安心しろ。私はそこまで獣じみた男じゃない」
彼は私を二階の客室へ連れていった。
部屋には湯を張るための大きな桶があり、周囲には、目隠しの役に立つのかも怪しい屏風が置かれていた。
終わった。
また私は、男を見る目を間違えたらしい。
顧毓沢は寝台に横になると、さっさと体を洗って身ぎれいにしろと言った。あとで大事な用事があるから、自分は少し仮眠を取るのだという。
私がぐずぐずしていると、目を閉じていた彼が片目を開けてこちらを見た。
「手伝ってやろうか?」
いえいえ、それだけは結構です。
私は腹をくくり、腰帯を解いた。
襦裙が床に滑り落ち、白い肌と、赤い蓮の刺繍が施された下着があらわになった。
見たければ見ればいい。
私はひとりぼっちだ。私が何をしようと、巻き添えになる家族もいない。
趙家への復讐を決意したときから、礼儀や恥じらいなど、とうに捨てている。
それに、私は前から顔立ちのいい男が好きだと言っている。
もともとは裴月珩に身を任せるつもりだったのだ。相手がこんなに顔のいい顧毓沢に変わったのなら、むしろ得をしたと思うべきだろう。
もし彼との間に顔立ちのいい子どもが生まれ、林家の血筋を残すことができれば、私も安心して死ねる。
そんなことを考えていた、そのときだった。
風が吹き抜けたかと思うと、私は長い上着にくるまれていた。
顧毓沢は眉をひそめていたが、耳の先は少し赤くなっていた。
「お前、何をしている!」
……は?
「だって、きれいに洗っておけって言ったじゃありませんか。そういうことをするためでしょう? 目を閉じて、体力を温存しているのかと思っていました」
「それに、あんなに乱暴なことはしないって言ったでしょう? いくら優しくされたって、そういうことは痛いんですよね?」
「楼の中のお姉様たちが言っていました。涙が止まらなくなるくらい痛いって……」
彼はとうとう顔まで真っ赤にした。
私に背を向け、ひどく調子の狂った声で言った。
「お前の頭の中は、いったいどうなっているんだ! こんな若いくせに、ろくでもないことばかり覚えやがって!」
「私はいつ、そんなことをすると言った? ……もういい。さっさと体を洗って、支度を済ませろ。隣の部屋で待っている」
そう言い残すと、彼は部屋を出て、後ろ手に扉を勢いよく閉めた。
まったく、意味がわからない。
私は手早く体を洗い、顧毓沢が用意させた冠軍侯府の使用人の衣服に着替えた。
そのまま彼について冠軍侯府へ向かい、ようやくわかった。
彼が言っていた「大事な用事」とは、本当に大事な用事だったのだ。
空には月が高く昇っていたが、屋敷の中庭は明かりで満ちていた。
確かに美しい女性はたくさんいた。ただし、彼女たちはそれぞれ自分の仕事に取り組んでいた。
刺繍や機織りをしている者もいれば、詩を書いたり絵を描いたりしている者もいる。鶏に餌をやったり、ガチョウを捕まえたりしている者までいた。
東屋には、気取らない服装なのに、どこか人を惹きつける気品を備えた夫人が座っていた。
あれ?
何か書いている。
……恋愛小説?
もう一度、よく見てみる。
『俺様王子は妾に恋をする』……?
顧毓沢は彼女に近づき、声をかけた。
「母上」
私は今度こそすぐに礼をした。
ところが、顔を上げた途端、侯夫人に手をつかまれた。
彼女は私の顔をあちこちから眺め、目を輝かせた。
「まあ、なんてかわいい子なの! 芸能人にだってなれそうね!」
「この子に連れられてうちへ来るなんて、あなたもずいぶん苦労したのでしょう?」
「普段は何が得意なの? 何か習ってみたいことはある?」
6
私は、どの質問から答えればいいのかわからなかった。
気づけば、先ほど目にした恋愛小説に視線が向かっていた。
顧毓沢も私の視線を追い、机の上の本を手に取った。
額には青筋が浮かんでいる。
「母上、どうしてまたこんなものを書いているんですか……」
侯夫人は息子を無視し、私の手を握ったまま、あれこれと話し続けた。
そこでようやく知った。
中庭にいる女性たちは、誰も顧毓沢の側室として囲われているわけではなかった。
侯夫人は心優しい人で、さまざまな事情から遊女として生きることになった女性たちのうち、その境遇に甘んじたくないと願う人々に、安心して暮らせる場所を与えていたのだ。
そして顧毓沢自身も、国を守るという大義を胸に、天子から密かに重要な任務を与えられていた。
奸臣を取り除くまでは結婚しないと決めていたのだという。
冠軍侯府は、勢力が強くなりすぎれば敵に陥れられる危険があると考え、わざと彼に「女遊びばかりしていて、重要な役目には向かない」という評判をかぶせていた。
世間の目を欺くためだったのだ。
私は改めて顧毓沢を見た。
その姿は、まるで月明かりの中に立つ清らかな人のようだった。潘安にも勝る美貌とは、まさに彼のためにある言葉だろう。
私に見つめられ、彼は少し居心地が悪そうに咳払いをした。
「母上は、魚を与えるより釣り方を教えるほうが大切だと考えているんだ。屋敷に迎えた女性たちには、それぞれの興味や得意分野に応じて師匠をつけ、仕事も割り振っている」
「お前は、何か学びたいことや、やってみたいことはあるか?」
私がこれまで学んできたことは、恩返しと、冤罪を晴らすこと、そして復讐のためのものばかりだった。
ほかにやりたいことなど、考えたこともない。
けれど、先ほど侯夫人が話してくれたことが本当なら、顧毓沢は天子から信頼されている。彼のそばにいることこそ、今の私にとって最善の選択なのかもしれない。
私は顧毓沢の整った顔を見つめながら、自分に言い聞かせた。
そもそも、彼が私の恩人だということは、すでに確かめてある。
ならば、彼のそばにいて、本当に信頼できる人なのかどうかを見極めることも、恩返しのために必要なはずだ。
考えれば考えるほど、彼についていくのは理にかなっていると思えてきた。
私は素直に答えた。
「私には、特別にやりたいことはありません。顧世子が春風楼から私を救い出してくださったのですから、あなたは私の恩人です」
「以前は裴世子の身の回りの世話をしていました。食事も身支度も、何ひとつ間違えずに整えてきました。料理も得意です。あれほど体の弱かった裴世子も、私が世話をするうちに丈夫になりました」
「ですから、顧世子の身の回りのお世話をさせてください。あなたが快適に過ごせるよう、精いっぱいお仕えします。どうか侯夫人と世子様のお許しをいただけませんか」
顧毓沢は複雑そうな目で私を見つめたあと、うなずいた。
「それなら、今日からお前は私付きの侍女だ。ついてこい。もう夜も遅い。休む時間だ」
「それと、うちでは自分を『奴』などと呼ぶ必要はない。普通に『私』と言えばいい」
えっ?
もっと何度か押し問答をするものだと思っていた。
屋敷にはあれほど多くのお姉様方がいるのに、今まで誰も彼のそばに置いてほしいと言わなかったのだろうか。
顧毓沢は私が考え込む暇も与えず、さっさと別の中庭へ向かった。
侯夫人も止めないのだろうか。
私が世子に近づいて、よからぬことを企んでいる女だったらどうするつもりなのだろう。
振り返ると、侯夫人も呆気に取られた顔をしていた。
「おかしいわね。今回は自分から引き受けたのね……」
彼女が何かつぶやいていたが、私はよく聞き取れなかった。
慌てて顧毓沢のあとを追いかけた。
本来、世子付きの侍女なら、夜もそばに控えて見守るものだ。
ところが顧毓沢は、自分には武芸の心得があると言った。
もし自分でも敵わないような賊が侵入してきたら、私がいてもいなくても結果は同じだ。そう言って、私には隣の部屋を使わせ、自分で休むように命じた。
うん。
顧毓沢は、いい人だ。
口は悪いけれど。
翌朝、私は以前に裴月珩へ仕えていたときと同じように、早起きして顧毓沢の部屋へ向かった。
身支度を整え、顔を洗う手伝いをするつもりだった。
扉を開けると、顧毓沢がこちらに背を向けて立っていた。
上半身は裸で、日に焼けた肌の上には引き締まった筋肉が浮かんでいた。背中には無数の傷痕が走り、そのうちいくつかは、まだ新しいもののように見えた。
私たちは互いに顔を見合わせた。
私はくるりと向きを変え、逃げ出そうとした。
「何を逃げている。こっちへ来い!」
彼に呼び止められ、私はしぶしぶ近づいた。
よくないことだとは思いながらも、目はどうしても彼の体に引き寄せられる。
つい、ごくりと唾を飲み込んでしまった。
一、二、三、四、五、六……。
あれ?
腹筋が八つに割れていない。
私は少しがっかりした。
7
春風楼のお姉様方から聞いた話では、男は体つきがよければ、その後の夫婦生活も幸せになるらしい。
顧毓沢は私の額を指で弾いた。
「何をぶつぶつ言っている。薬を塗れ!」
ああ、また余計なことを考えてしまった。
彼の背中に薬を塗り、着替えを手伝い終えると、私は諦めきれずに尋ねた。
「今夜は、私も部屋の中でお世話をさせていただきましょうか?」
顧毓沢は飲んでいたお茶を、私の顔に吹き出した。
私は顔を拭きながら、構わず話を続けた。
「世子様の傷は、昨夜、私たちがそれぞれの部屋に戻ったあとについたものですよね。もし私が同じ部屋にいれば、すぐに薬を塗ることができます」
「時間にすれば、ほんの少し早くなるだけかもしれません。でも、そのわずかな差で、傷の治りが早くなることもあるでしょう?」
彼はしばらく黙っていた。
まあ、私にも下心はある。
残された時間が限られているのなら、できるだけ彼に尽くしておきたい。それに、せっかくの美貌なのだから、近くで眺める機会も増やしたい。
もし子どもまで残せたら、なおいい。
私は彼に、十分な財産と店を残すつもりだった。心優しい侯夫人にも、成長を手助けしてもらえるよう頼んでおけば、子どもが苦労することもないだろう。
断られたのかと思い始めた頃、彼は「好きにしろ」とだけ言い、立ち上がって部屋を出ていった。
それから私は、部屋の外側に簡単な木の寝台を置いて休むようになった。
数日おきに、夜中に出かける彼を見送り、戻ってくるのを待ち、傷の手当てをした。
顧毓沢の世話は、ますます細やかになっていった。
特に食事には力を入れた。自分の商売の一つである済世堂に頼み、滋養のある薬材をたくさん届けさせ、毎日工夫を凝らした薬膳を作った。
一方で、私は春風楼の楼主やお姉様方に頼み込み、顧毓沢を落とす方法が書かれた本や絵冊子を、山のように集めていた。
一度目の挑戦では、お姉様方に教わったとおり、大胆に身を差し出そうとした。
顧毓沢が戻ってくる前に、こっそり彼の寝台へ潜り込んだのだ。
ところが、彼は私を刺客と勘違いし、目を覚ますなり刀を私の首に突きつけた。
二度目の挑戦では、楼主から教わった「水のように柔らかく、優しく尽くす」という方法を試した。
薬を塗るときにあちこち触れ、彼の胸に寄りかかってみた。
すると、彼は「じっとしていろ」と脅すように言い、私を寝室から追い出した。
三度目の挑戦では、絵冊子に描かれていたとおり、服を脱いで、眠っている顧毓沢に口づけをした。
今度は、少しうまくいった。
彼も私にしばらく口づけを返してくれたのだ。
ところが、その先に何をすればいいのか、私にはわからなかった。
彼の服を脱がせながら、手本にしていた指南書をめくっていたところ、突然、腕をつかまれた。
「……円円?」
私は気まずさのあまり、何も言えなかった。
寝ぼけていた顧毓沢の目が、次第にはっきりと焦点を結んでいく。
彼は、裸のまま自分の上にまたがり、服を脱がせようとしている私を見て、明らかに様子がおかしくなった。
次の瞬間、彼は私を布団でぐるぐる巻きにすると、肩に担いで隣の部屋へ運んだ。
私を寝台に放り出して立ち去り、手元にあった小冊子まで取り上げてしまった。
それから、二度と自分の部屋へ入るな、と言い渡された。特に夜は絶対に駄目だという。
何度誘惑に失敗しても、顧毓沢は私に優しくしてくれた。
普段から行動を制限されることもなく、身分を振りかざして命令されることもなかった。
屋敷のお嬢様たちが食べているお菓子や、楽しんでいる遊び道具まで、私の分を用意してくれることもあった。
十六歳の誕生日には、仏寺に長く滞在していた老夫人をわざわざ屋敷へ招き、私のために礼を行ってくれた。
前年にできなかった、女子が大人になる節目の儀式まで補ってくれたのだ。
心を動かされなかったと言えば、嘘になる。
以前、裴月珩も私を厳しく扱ったことはなかった。
けれど私は、彼が将来の側室として私を手元に置いていただけだとわかっていた。顧毓沢のように、私自身を大切にしてくれたことなどあっただろうか。
顧毓沢はどこへ行くにも私を連れていった。
特に裴月珩がいる場では、いつも以上に優しく、気遣ってくれた。
その様子は、まるで……。
まるで、私たちが仲睦まじい夫婦であるかのようだった。
最初は、ただ顧毓沢の顔立ちに惹かれていただけだった。
けれど今では、本当に彼に心を寄せるようになっていた。
それでも、私たちは夫婦ではない。
私の身分も微妙な立場にある。彼に恋心を抱いてはいけないのだ。
それに、彼が私に優しくしてくれるのは、もともと人柄がいいからだろう。
もし私に特別な気持ちがあるのなら、これまで何度も誘惑してきた私を、どうしてあれほど平然とかわしてきたのだろうか。
8
半年が過ぎる頃には、私は屋敷のほとんどの人と顔見知りになっていた。
私は、堂々たる侯爵家がどうしてこんなにも金に困っているのか、ようやく理解した。
冠軍侯府は、私の商売と何かと競合していた。どうしていつも商売を取り合うのだろうと不思議に思っていたが、理由は単純だった。
収入の半分は国境を守る兵士たちのために使い、残りの半分は、身寄りのない女性たちが自立できるよう、技術を教えるために使っていたのだ。
私は密かに、自分の事業の大半を、半ば売り、半ば譲るような形で冠軍侯府に渡した。
趙家の罪を示す証拠も、ほぼ集め終わっていた。
自分の財産をすべて渡すことになったとしても、構わない。
どうせ、天子に直接訴え出るための登聞鼓を打ち鳴らし、命を落としたあと、悪人たちの手に財産が渡ってしまうくらいなら、よほどましだろう。
それから二か月ほど経った頃。
顧毓沢のために墨をすっていると、彼が力強い筆跡で書いた紙が目に入った。
そこには「戸部」「趙」「武安侯」といった文字があり、何度も丸で囲まれ、線で消されていた。
もしかすると、天子もようやく趙朔と武安侯の欲深さに気づいたのだろうか。
彼らの野心が大きくなりすぎたため、処分する決心を固めたのかもしれない。
もう自分の命を危険にさらして登聞鼓を打つ必要もない。
私はついに、顧毓沢を誘惑して林家の血筋を残そうとする考えを捨てた。
裴月珩の婚礼の日。
両家の体面もあるため、顧毓沢も招待されていた。
私は以前、武安侯府で働いていたことをいいことに、誰にも声をかけず、勝手に近道を通って厠へ向かった。
その途中、武安侯と侯夫人の話し声が聞こえてきた。
「これで安心できるだろう? 今日を境に、趙家と我々は同じ船に乗ったも同然だ。戸部のことも、思いどおりに動かせる」
「それならよかったわ。この婚姻がまとまらなければ、趙家が私たちを身代わりに差し出すのではないかと、ずっと心配していたのです。あのとき、西南地方で厄介な後始末をしたのは、あなたと珩だったのですから……」
「ふん。趙家は所詮、皇族ではない。何かあれば、二度と立ち直れまい。だが、我が侯府には傍系だけでも貴人が一人、才人が二人いる。妹は後宮の四妃の筆頭だ。いずれ皇子を産むだろう。趙家などとは格が違う」
私は、氷の中へ落ちたような気分になった。
どれほど時間が経ったのかもわからない。
ぼんやりとしたまま、ようやく宴席へ戻った。
あの日、自分が恩人を間違えていたと知ったときよりも、さらに滑稽な事実があった。
四年間、頭を下げ、腰を低くして仕えてきた相手が、私の仇敵だったのだ。
その夜、私は機会を見つけ、顧毓沢の机の上に書類を広げた。
そこには、私が集めた趙家の罪の証拠と、武安侯府で働く間に聞き出した秘密が、ほぼすべてそろっていた。
顧毓沢は、それらがどこから手に入ったのかを問いたださなかった。
私も、彼がどうやって私の誕生日を知ったのか、尋ねることはなかった。
趙朔の四十歳の誕生日には、流れるように次々と祝いの品が趙府へ届けられた。
その盛大さは、まるで宮中で宴が催されているかのようだった。
ところが、その日、冠軍侯府の人々は誰一人として外出しなかった。
私はというと、犬が通る穴からこっそり屋敷を抜け出し、そのまま趙家の屋敷にも忍び込んだ。
犬穴万歳。
苦労して潜り込んだ甲斐はあった。
宴が始まった頃、兵士たちが隊列を組んで趙府を取り囲み、趙朔が大勢の人の前で連行されていくのが見えた。
指揮を執っていたのは、顧毓沢だった。
私は門の前で野次馬に交じり、乞食たちの中に紛れていた。
彼は一目で私を見つけた。
私は気まずさに耐えきれず、慌てて逃げ出した。
すると、彼は馬を走らせて追いかけてきて、私をひょいと抱き上げ、腕の中に閉じ込めた。
「お前が大人しく屋敷で待っているわけがないと思ったよ」
彼は、私が勝手に屋敷を抜け出したことを責めなかった。
そのまま私を連れて、京の郊外で最も高い山の頂上へ向かった。
そこからは、趙府と武安侯府のある方向に、空を焦がすような炎が立ち上っているのが見えた。
かつて慶州で、林家が略奪され、滅ぼされたあの日と同じような光景だった。
彼は私の涙を指で拭い、尋ねた。
「林沅、少しは気が晴れたか? 長年のわだかまりは解けたか?」
彼が私の本名を知っていたことに、驚きはなかった。
それは、私たちの間で言葉にせずとも通じ合っていることだった。
私は素直に彼の腕を押しのけ、地面にひざまずき、三度頭を下げた。
「世子様のご恩は、一生忘れません。私は……」
顧毓沢の目が輝いた。
彼は私を引き起こした。
「それで、どうやって恩返しをしてくれるんだ?」
……え?
そんなに期待していたのだろうか。
もし、私が渡すものが少なかったら、かえってけちだと思われてしまうかもしれない。
9
私はためらいがちに口を開いた。
「私の名義で、まだいくらか財産や店が残っています。大半はすでに侯府へ譲ってしまいましたが……」
「残っている分も、かなりの価値があります。恩返しとして、すべて世子様にお渡ししましょうか?」
顧毓沢の顔が、鍋底のように真っ黒になった。
まさか、少なすぎたのだろうか。
私は驚いたものの、冠軍侯府が国のために尽くしているせいで、金銭的に苦しいことも理解していた。
だから、もう少し考えてから続けた。
「屋敷に戻ったら、林家が代々培ってきた商売の知恵をまとめて、侯府にお渡しします。それなら、私がいなくなったあとでも、世子様は商売で利益を上げられるでしょう……」
今度は、彼は袖を払ってその場を立ち去ってしまった。
私は一人、困惑したまま取り残された。
その日を境に、顧毓沢は夜中に出かけなくなった。
当然、私が傷の手当てをする必要もなくなった。
ところが、彼は私を本当にただの侍女として扱うようになったらしい。
何をするにも、私に手伝わせるのだ。
私の寝台は、彼の部屋の外側へ移された。
顔を洗うことも、手を拭くことも、入浴も着替えも、ちょっとしたことまで私にやらせようとする。
何度か入浴中に私を湯船へ引きずり込もうとして、恥をかかせようとしたこともあった。
幸い、私は用心深い。どうにか逃げ切った。
心の中で、私は考えた。
どうやら彼は、本当に私が差し出せるものに不満があるらしい。
林家の冤罪を晴らす詔は、まだ下されていなかった。
私は我慢するしかなかった。
恩返しのために、もっと金を稼ごう。
そう決意すると、そろばんを弾くことばかり考えるようになった。
稼ぐことに集中すれば、顧毓沢の身の回りの世話に、今までどおり時間を割くことはできない。
私は侯夫人に申し出て、世子付きの侍女を辞めることにした。
その話をすると、侯夫人はもともと大きな目を、今にも飛び出しそうなほど見開いた。
それから、花が枝からこぼれ落ちるように、声を上げて笑った。
どうして笑うのだろう。
私にはわからなかったが、商売に専念することを許してもらえたので、ひとまず満足だった。
顧毓沢も、私が金を稼ぐことに集中すると聞くと、珍しく笑顔を見せた。
「いいだろう、林沅。実にいい心がけだ」
もちろんだ。
恩返しをすると言った以上、口先だけで済ませるつもりはない。
私は侯府を出て、自分の屋敷を買った。
それから毎日、部屋にこもってそろばんを弾き、十日以上も顧毓沢に会わずに過ごした。
やがて天子の詔が下った。
顧毓沢は、黄金色の詔書を二通手にして、私の部屋までやってきた。
そして私を引っ張り出し、何やらいろいろと説明し始めた。
私の頭に残ったのは、次の言葉だけだった。
趙朔一族の誅殺。
武安侯府の財産没収と流刑。
林家に罪はなかったこと。
林家の遺児である林沅を県主に封じること。
冠軍侯の世子が功績を立てたこと。
そして……。
県主林沅と、冠軍侯の世子・顧毓沢との婚姻を命じること。
……え?
顧毓沢は私を抱き寄せ、髪に顔を埋めた。
「こんなに長い間待ったのに、君はいつまでたっても、恩返しに一生を捧げるとは言ってくれないんだな」
「仕方がないから、君がくれた店と、私が立てた功績を使って、天子に詔書を出してもらったんだ……」
私は彼の胸に顔を埋めたまま、震える声で尋ねた。
「今、何て言いました?」
彼はくすりと笑い、私の頭を撫でた。
「私たちの婚姻が決まって、そんなにうれしいのか?」
うれしいも何もあるか!
私はわっと泣き出し、彼の足を思いきり踏みつけた。
「顧毓沢、あなた頭がおかしいんじゃないの!」
「私と結婚したいなら、そう言えばいいでしょう!」
「どうして、私が苦労して稼いだ店や銀子を使って、こんなわけのわからない婚姻の詔をもらってくるのよ! 誰がそんなものを欲しがったの!」
「ううっ……私のお金が……せっかく手に入れたお金が、こんなふうに消えてしまうなんて……」
泣いてはいたけれど、本当のところ、私はそれほど不満ではなかった。
夫婦になるというのなら、もともと考えていたことと大して変わらない。
その後、結婚式の日には、侯夫人が新しく書いた小説を一冊、私に贈ってくれた。
題名は『ツンデレ世子の妻取り物語』。
私は、これがなかなか気に入ってしまった。
完
顧毓沢・番外編
その一
最近、商売がどうにも思うようにいかない。
私は昼も夜も、手がかりを追って調べ続け、ようやく黒幕を突き止めた。
まさか、裴月珩のそばにいる、あの目を引くほど美しい侍女だったとは。
面白い。
裴月珩のような男が、いったいどれほどの善行を積めば、あんな逸材を手に入れられるのだろう。
その二
なるほどな。
あの円円という侍女、本来は私のものになるはずだったのか。
恩返しをする相手まで間違えるなんて、本当に間抜けな子だ。
その三
笑える。
裴月珩は、やっぱり女を見る目がない。
あの子を春風楼に送り込むなんて。
急いで先に拾い上げて、助け出さなければ。
その四
ん?
春風楼も、あの子の商売なのか?
まあ、どうでもいい。
本人が自分から私についていくと言ったんだ。それに、私もすかさず楼主に金二両を渡した。
これでもう、逃げられないな。
その五
あの子はまだ若いくせに、毎日いったい何を考えているんだ。
私が、裴月珩のような恋愛脳の男に見えるとでもいうのか?
……それにしても。
あの子、なかなかいい体つきをしている。
その六
ふむ。
私の身の回りの世話をしたいだと?
さっき春風楼にいたときは、私に食べられるのを恐れて、あんなに距離を取っていたくせに。
そもそも、私の部屋には昔から侍女を置いていない。
……まあ、あの子は特別だ。
その七
あの子は、どうしていつも私の部屋へ入り込もうとするんだ?
私は、れっきとした男だぞ!
これでは、どうにも我慢ができない。
……いや、まだ若いんだ。ここは我慢しよう。
その八
あの子は寝つきが悪い。
私が少し動いただけで、驚いた小動物のように頭を上げる。
いったい、これまでどうやって生きてきたんだろう。
去年まで裴月珩のそばにいたのだから、あのろくでなしは、きっと彼女の成人の儀式もしてやらなかったに違いない。
心配はいらない。
私が代わりにしてやろう。
その九
あれ?
最近、どうして私に冷たくなったんだ?
前みたいに、抱きついてくることさえなくなった。
その十
あの子が一人で趙家と戦おうと、あくせくしているのを見ていられなかった。
つい口を滑らせて皇帝に報告したら、案の定、趙家を調べるよう命じられた。
調べてみると、武安侯府も昔、趙家と結託していたことがわかった。
あそこも、あの子の仇敵だったのだ。
この程度のことは、本人に自分で気づかせてやろう。
その十一
あの子、私を怒り死にさせるつもりなのか?
私は金の亡者ではない。
あの子の金銀や店をもらって、いったい何になる?
母上の部屋にある小説には、恩返しのしようがない女性は、身を捧げて報いるものだと書いてあったはずだ。
だから言ったんだ。
あんなものを読みすぎるな、信じすぎるなと!
その十二
大丈夫だ。
春風楼から持ち帰ったあの子の小冊子は、私が没収した。
あれに書かれている誘惑の方法は、男女どちらにも使えるだろう。
今度は私から、あの子を誘惑してやればいい。
その十三
……駄目だった。
その十四
駄目なら駄目で仕方がない。
だが、どうして逃げ出すんだ?
先に誘惑してきたのは、あの子のほうじゃないか。
まったく、女というものは。
おかげで、母上にさんざん笑われる羽目になった。
その十五
さすが私だ。
皇帝に何度も頼み込み、ようやくあの子を県主に封じてもらった。
おまけに、婚姻の詔まで手に入れた。
その十六
怒鳴られた。
だが、問題ない。
少なくとも、妻は手に入った。
上出来だ!




