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異世界構造是正録 〜人は悪くない、仕組みが悪い〜  作者: 今無ヅイ


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3/3

止まっていた釜が、動いた

 翌朝、健一は再び工房を訪ねた。


 今日はバーゼルを連れていない。


 昨日の帰りがけに「明日また来ます」と言ったとき、バーゼルが「では私も」と続けるより先に「一人で大丈夫です」と遮った。少し傷ついた顔をしていたが、仕方ない。


 今日はちゃんと仕事をしに来る。見学じゃない。


 工房の扉を開けると、マーゴが入り口のすぐそばに立っていた。


 昨日から待ち構えていたような立ち方だった。腕を組んでいる。目つきが昨日より鋭い。


「坊ちゃま、また来られましたか」

「昨日の続きを話させてください」

「……お断りしても、来ますか」

「来ます」


 マーゴが鼻から息を吐いた。呆れているのか、怒っているのか、判断がつかない顔だった。


「どうぞ」


 短く言って、奥に歩き始める。健一はその背中についていった。


 ---


 工房の隅に小さな卓があった。帳簿や仕様書が積まれている。マーゴはそこに健一を連れていって、向かいに座った。座る、というより、陣取る、という感じだった。


「話を聞くのは聞きます」


 マーゴは言った。


「ただし、はっきり言わせてもらいます」

「どうぞ」


「フォルク師は、この工房を三十年守ってきた方です。坊ちゃまが生まれるより前から、ここで働いてきた」


「知っています」


「その師匠のやり方を、子どもに——」

 マーゴは一度止まった。

「失礼、坊ちゃまに変えろと言われる筋合いは、私にはわかりません」


 健一は何も言わなかった。


 続きがあるのがわかったからだ。


「フォルク師は昨日、坊ちゃまに何か言われて、ひどく考え込んでいました。長く師匠を見てきた私には、ああいう顔の意味がわかります。傷ついているんです。自分がずっとやってきたことを、否定されたと思って」


 マーゴの声は怒っていなかった。静かだった。だから余計に、重かった。


 健一はしばらく卓の木目を見ていた。


「……一つ、確認させてください」


「なんですか」


「フォルク師のことを、守りたいんですよね」


 マーゴが少し、目を細めた。


「当然です」

「私もそうです」


 沈黙。


「フォルク師のやり方を変えたいんじゃないです」


 健一は続けた。


「フォルク師がやらなくていい部分を、フォルク師から切り離したいんです」


「……同じことでしょう」


「違います」


 健一は卓の上に昨日書いた図を広げた。ポーションの生産フロー。各工程の担当と、所要時間の試算。


「フォルク師にしかできないのは、抽出の判断です。

 原料の質を見て、エーテル水の配合を決めて、抽出の完了を見極める——これは三十年の経験がないとできない。

 他の誰にも代えられない」


 マーゴは図を見ていた。腕を組んだままだったが、視線は動いていた。


「濃縮は違います。

 フォルク師から火加減の基準を教えてもらえれば、他の人間にもできる。

 今は師が一人で両方やっているから、片方が必ず止まっている。

 抽出している間は濃縮が止まる。

 濃縮している間は次の抽出が始められない」


「……」


「切り離すのは、師匠の仕事を奪うためじゃない。

 師匠にしかできない仕事に、師匠の時間を全部使ってもらうためです」


 マーゴは図から目を上げなかった。


 長い沈黙だった。工房の音が続いている。薬草をすり潰す音。誰かが棚を動かす音。


「……フォルク師は」

 マーゴがゆっくり言った。


「昨日、否定されたと思っていたんじゃなかったんですか」


「昨日、師は気づいたんだと思います」


 健一は言った。


「自分が全部抱えていたことに」


「それは」


「傷ついたんじゃなくて、疲れが出たんだと思います。三十年分の」


 マーゴが初めて、腕を下ろした。


 卓の端に手を置いて、図をじっと見ている。何かを考えている顔だった。


「……フォルク師に、聞いてみます」


「ありがとうございます」


「坊ちゃまに礼を言われる筋合いはありません」


 ぶっきらぼうに言って、マーゴは立ち上がった。奥に向かって歩いていく。

 健一はその背中を見ながら、内心で小さく息を吐いた。


 ---


 フォルクは釜の前にいた。


 今日も、昨日と同じ場所に、同じ姿勢で立っていた。

 ただ、横顔が少し違った。昨日より、どこか軽い。眠れたのかもしれない、と健一は思った。


 マーゴが隣に立って、低い声で何かを話しかけた。健一には聞こえなかった。フォルクは釜を見たまま聞いていて、やがてゆっくりと頷いた。


 そして健一の方を向いた。


「……やってみましょう」


 短く、静かな言葉だった。


 マーゴが健一を見た。表情は変わっていない。ぶっきらぼうなままだ。でも、もう腕は組んでいなかった。


「……わかりました」

 マーゴは言った。


「誰に教えるか、フォルク師と決めます。坊ちゃまは乾燥の基準とやらを紙に書いてください」


「もう書いてあります」


 健一は懐から折りたたんだ紙を出した。昨夜書いたものだ。

 薬草の状態、触感、色の変化、乾燥完了の判断基準を、できるだけ具体的な言葉で書き出してある。


 マーゴが受け取って、広げた。しばらく読んでいた。


「……細かいですね」


「基準が人によって違うと、また属人化します」


「ぞくじん、か」


 マーゴはその言葉を繰り返した。


「まあ、確かに今はウルダさんの勘頼みですね。あの人が休むと乾燥工程が止まる」


「そこも直したいと思っています。今日は濃縮から始めて、順番に」


 マーゴはもう一度紙を見て、折りたたんで懐にしまった。


「……坊ちゃまは」


「はい」


「なんで、そんなに細かいんですか」


 健一は少し考えた。


「前の仕事の癖です」


「前の仕事……?」


「……子どもの頃の、話です」


 マーゴは何か言いかけて、やめた。

 十二歳の子どもが「前の仕事」と言っていることへの違和感を、追及するのをやめた、という顔だった。


「……まあ、いいです。始めましょう」


 ---


 濃縮担当に選ばれたのは、イルという二十代の職人だった。


 真面目そうな、細い青年だ。フォルクに呼ばれて来たとき、少し緊張した顔をしていた。


「フォルクさんの仕事を引き継ぐわけじゃない」


 健一は最初に言った。

「フォルクさんが教えてくれた通りに、釜の火を管理するだけです。

 判断はフォルクさんがする。イルさんは手を動かす担当」


「……それだけで、いいんですか」


「それが一番大事な仕事です」


 イルは少し考えてから、頷いた。


 フォルクが隣に立って、濃縮釜の前でイルに火加減を説明し始めた。

 低い、穏やかな声だった。三十年分の知識が、ゆっくりと言葉になっていく。


 健一はその様子を少し離れて見ていた。


 マーゴが隣に来た。


「……フォルク師が、人に教えているところ」


 マーゴは小声で言った。


「初めて見ました」


「そうですか」


「ずっと一人でやってきた人だから」


 マーゴは腕を組んだ。

「誰かに頼むのが、苦手な人なんです」


 健一は何も言わなかった。


 よく働き、よく食べ、よく増えよ。頼むことが弱さに見える、そういう空気の中で三十年。


 ……よく休めも入れろマジで。


 ---


 二時間後、工房で初めて二つの釜が同時に動いた。


 フォルクが抽出フラスコを見守っている。その三歩隣で、イルが濃縮釜の火を管理している。フォルクが「もう少し弱めろ」と短く言う。イルが頷いて、火加減を調整する。


 それだけのことだった。


 地味な、静かな場面だった。でも健一は、工房の入り口に立ったまま、しばらくそこから動けなかった。


 止まっていた釜が、動いている。


 冷えていた場所に、熱がある。


 誰かを悪者にしなくても、誰かに無理をさせなくても——仕組みを直せば、動く。


 それが、見えた。


 ——Ctrl+S。


 空中で右手を動かした。今日は手が、冷たくなかった。


 ---


 その週の終わり、健一は帳簿を開いた。


 納品数の欄に、数字を書き入れる。


 週産出数、七十二本。


 契約量は六十本だ。


 初めて、超えた。


 派手に喜ぶ気にはなれなかった。これはスタートラインだ。来週も再来週も、この数字を出し続けられるかどうかが本当の問題だ。仕組みが定着するまでは、まだ油断できない。


 帳簿を閉じて、Ctrl+Sの形を作った。


「……来週もこの数字、出せますかね」


 声がして振り返ると、マーゴが工房の隅に立っていた。ぶっきらぼうな顔のままだ。でも、帳簿を見ていた。


「出せるように設計しています」


「設計」マーゴはその言葉を繰り返した。


「坊ちゃまはよく、そういう言葉を使いますね」


「癖です」


「前の仕事の」


「……そうです」


 マーゴは少し間を置いてから、鼻を鳴らした。


「まあ」と言った。


「悪くはなかったです、今日は」


 それだけ言って、工房の奥に戻っていった。


 健一は背中を見送りながら、小さく笑った。


 悪くはなかった。


 それで、十分だった。

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