止まっていた釜が、動いた
翌朝、健一は再び工房を訪ねた。
今日はバーゼルを連れていない。
昨日の帰りがけに「明日また来ます」と言ったとき、バーゼルが「では私も」と続けるより先に「一人で大丈夫です」と遮った。少し傷ついた顔をしていたが、仕方ない。
今日はちゃんと仕事をしに来る。見学じゃない。
工房の扉を開けると、マーゴが入り口のすぐそばに立っていた。
昨日から待ち構えていたような立ち方だった。腕を組んでいる。目つきが昨日より鋭い。
「坊ちゃま、また来られましたか」
「昨日の続きを話させてください」
「……お断りしても、来ますか」
「来ます」
マーゴが鼻から息を吐いた。呆れているのか、怒っているのか、判断がつかない顔だった。
「どうぞ」
短く言って、奥に歩き始める。健一はその背中についていった。
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工房の隅に小さな卓があった。帳簿や仕様書が積まれている。マーゴはそこに健一を連れていって、向かいに座った。座る、というより、陣取る、という感じだった。
「話を聞くのは聞きます」
マーゴは言った。
「ただし、はっきり言わせてもらいます」
「どうぞ」
「フォルク師は、この工房を三十年守ってきた方です。坊ちゃまが生まれるより前から、ここで働いてきた」
「知っています」
「その師匠のやり方を、子どもに——」
マーゴは一度止まった。
「失礼、坊ちゃまに変えろと言われる筋合いは、私にはわかりません」
健一は何も言わなかった。
続きがあるのがわかったからだ。
「フォルク師は昨日、坊ちゃまに何か言われて、ひどく考え込んでいました。長く師匠を見てきた私には、ああいう顔の意味がわかります。傷ついているんです。自分がずっとやってきたことを、否定されたと思って」
マーゴの声は怒っていなかった。静かだった。だから余計に、重かった。
健一はしばらく卓の木目を見ていた。
「……一つ、確認させてください」
「なんですか」
「フォルク師のことを、守りたいんですよね」
マーゴが少し、目を細めた。
「当然です」
「私もそうです」
沈黙。
「フォルク師のやり方を変えたいんじゃないです」
健一は続けた。
「フォルク師がやらなくていい部分を、フォルク師から切り離したいんです」
「……同じことでしょう」
「違います」
健一は卓の上に昨日書いた図を広げた。ポーションの生産フロー。各工程の担当と、所要時間の試算。
「フォルク師にしかできないのは、抽出の判断です。
原料の質を見て、エーテル水の配合を決めて、抽出の完了を見極める——これは三十年の経験がないとできない。
他の誰にも代えられない」
マーゴは図を見ていた。腕を組んだままだったが、視線は動いていた。
「濃縮は違います。
フォルク師から火加減の基準を教えてもらえれば、他の人間にもできる。
今は師が一人で両方やっているから、片方が必ず止まっている。
抽出している間は濃縮が止まる。
濃縮している間は次の抽出が始められない」
「……」
「切り離すのは、師匠の仕事を奪うためじゃない。
師匠にしかできない仕事に、師匠の時間を全部使ってもらうためです」
マーゴは図から目を上げなかった。
長い沈黙だった。工房の音が続いている。薬草をすり潰す音。誰かが棚を動かす音。
「……フォルク師は」
マーゴがゆっくり言った。
「昨日、否定されたと思っていたんじゃなかったんですか」
「昨日、師は気づいたんだと思います」
健一は言った。
「自分が全部抱えていたことに」
「それは」
「傷ついたんじゃなくて、疲れが出たんだと思います。三十年分の」
マーゴが初めて、腕を下ろした。
卓の端に手を置いて、図をじっと見ている。何かを考えている顔だった。
「……フォルク師に、聞いてみます」
「ありがとうございます」
「坊ちゃまに礼を言われる筋合いはありません」
ぶっきらぼうに言って、マーゴは立ち上がった。奥に向かって歩いていく。
健一はその背中を見ながら、内心で小さく息を吐いた。
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フォルクは釜の前にいた。
今日も、昨日と同じ場所に、同じ姿勢で立っていた。
ただ、横顔が少し違った。昨日より、どこか軽い。眠れたのかもしれない、と健一は思った。
マーゴが隣に立って、低い声で何かを話しかけた。健一には聞こえなかった。フォルクは釜を見たまま聞いていて、やがてゆっくりと頷いた。
そして健一の方を向いた。
「……やってみましょう」
短く、静かな言葉だった。
マーゴが健一を見た。表情は変わっていない。ぶっきらぼうなままだ。でも、もう腕は組んでいなかった。
「……わかりました」
マーゴは言った。
「誰に教えるか、フォルク師と決めます。坊ちゃまは乾燥の基準とやらを紙に書いてください」
「もう書いてあります」
健一は懐から折りたたんだ紙を出した。昨夜書いたものだ。
薬草の状態、触感、色の変化、乾燥完了の判断基準を、できるだけ具体的な言葉で書き出してある。
マーゴが受け取って、広げた。しばらく読んでいた。
「……細かいですね」
「基準が人によって違うと、また属人化します」
「ぞくじん、か」
マーゴはその言葉を繰り返した。
「まあ、確かに今はウルダさんの勘頼みですね。あの人が休むと乾燥工程が止まる」
「そこも直したいと思っています。今日は濃縮から始めて、順番に」
マーゴはもう一度紙を見て、折りたたんで懐にしまった。
「……坊ちゃまは」
「はい」
「なんで、そんなに細かいんですか」
健一は少し考えた。
「前の仕事の癖です」
「前の仕事……?」
「……子どもの頃の、話です」
マーゴは何か言いかけて、やめた。
十二歳の子どもが「前の仕事」と言っていることへの違和感を、追及するのをやめた、という顔だった。
「……まあ、いいです。始めましょう」
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濃縮担当に選ばれたのは、イルという二十代の職人だった。
真面目そうな、細い青年だ。フォルクに呼ばれて来たとき、少し緊張した顔をしていた。
「フォルクさんの仕事を引き継ぐわけじゃない」
健一は最初に言った。
「フォルクさんが教えてくれた通りに、釜の火を管理するだけです。
判断はフォルクさんがする。イルさんは手を動かす担当」
「……それだけで、いいんですか」
「それが一番大事な仕事です」
イルは少し考えてから、頷いた。
フォルクが隣に立って、濃縮釜の前でイルに火加減を説明し始めた。
低い、穏やかな声だった。三十年分の知識が、ゆっくりと言葉になっていく。
健一はその様子を少し離れて見ていた。
マーゴが隣に来た。
「……フォルク師が、人に教えているところ」
マーゴは小声で言った。
「初めて見ました」
「そうですか」
「ずっと一人でやってきた人だから」
マーゴは腕を組んだ。
「誰かに頼むのが、苦手な人なんです」
健一は何も言わなかった。
よく働き、よく食べ、よく増えよ。頼むことが弱さに見える、そういう空気の中で三十年。
……よく休めも入れろマジで。
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二時間後、工房で初めて二つの釜が同時に動いた。
フォルクが抽出フラスコを見守っている。その三歩隣で、イルが濃縮釜の火を管理している。フォルクが「もう少し弱めろ」と短く言う。イルが頷いて、火加減を調整する。
それだけのことだった。
地味な、静かな場面だった。でも健一は、工房の入り口に立ったまま、しばらくそこから動けなかった。
止まっていた釜が、動いている。
冷えていた場所に、熱がある。
誰かを悪者にしなくても、誰かに無理をさせなくても——仕組みを直せば、動く。
それが、見えた。
——Ctrl+S。
空中で右手を動かした。今日は手が、冷たくなかった。
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その週の終わり、健一は帳簿を開いた。
納品数の欄に、数字を書き入れる。
週産出数、七十二本。
契約量は六十本だ。
初めて、超えた。
派手に喜ぶ気にはなれなかった。これはスタートラインだ。来週も再来週も、この数字を出し続けられるかどうかが本当の問題だ。仕組みが定着するまでは、まだ油断できない。
帳簿を閉じて、Ctrl+Sの形を作った。
「……来週もこの数字、出せますかね」
声がして振り返ると、マーゴが工房の隅に立っていた。ぶっきらぼうな顔のままだ。でも、帳簿を見ていた。
「出せるように設計しています」
「設計」マーゴはその言葉を繰り返した。
「坊ちゃまはよく、そういう言葉を使いますね」
「癖です」
「前の仕事の」
「……そうです」
マーゴは少し間を置いてから、鼻を鳴らした。
「まあ」と言った。
「悪くはなかったです、今日は」
それだけ言って、工房の奥に戻っていった。
健一は背中を見送りながら、小さく笑った。
悪くはなかった。
それで、十分だった。




