みんな真面目な異世界
転生から二年が経った。
税の徴収タイミングを農閑期にずらし、仕入れ業者を二社に増やし、燃料費を実費精算に切り替えた。それだけで領地の赤字は半分以下になった。領内では「神童」という言葉が出始めていた。
ただし、神童であることと、子供であることは別の話らしい。
バーゼルは帳簿を当然のように持ってくるようになったが、工房への同行を申し出たときは「お坊ちゃまが入られるには、危のうございます」と渋い顔をした。火を使う作業場への、純粋な心配だ。
悪意はない。ただ、十二歳という事実があるだけだ。
健一はそれを承知しながら、今日も帳簿を開いた。
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その朝、健一は父の執務室を訪ねた。
オルヴァン・ヴァルベルグ子爵は、息子が入ってきても書類から目を上げなかった。五十がらみの、穏やかな顔をした人物だ。怒鳴り声を聞いたことがない。
使用人への当たりが強いところも見たことがない。根っからの善人、というやつだ。
問題は、善人であることと、経営が上手いことは別の話だという点だが——それはいずれ。
「父上、ギルドへの納品記録を確認させてください」
「ああ、ケニクス。また帳簿か」
オルヴァンは苦笑した。二年前と違って、驚かない。ただ、少し困ったような顔をする。我が子が数字ばかり見ていることへの、父親としての心配だ。これも悪意はない。
「たまには外で遊んでもいいんだぞ」
「遊ぶより先に、確認したいことがあります」
健一は差し出された台帳を受け取って、ページをめくった。
冒険者ギルドへのポーション納品記録。ヴァルベルグ領は薬草の産地で、自領で栽培した高品質な原料を使ったポーションを定期的にギルドへ卸している。領の収入源の一つだ。
数字を目で追いながら、健一は眉をわずかに動かした。
——Ctrl+F。
脳内でキーを叩く。意識が鋭くなって、台帳の数字が立体的に見え始める。納品量の推移、契約量との差分、月ごとのばらつき——
ハイライトされた。赤く。
「……父上、納品の契約量に対して、実績が平均六割程度しか達成できていません。月によっては四割を切っています」
「うむ……工房が頑張ってくれているんだが、なかなか難しくてな」
「難しい、というのは」
「職人たちは真面目にやってくれているんだ。サボっているわけでも、手を抜いているわけでもない」
オルヴァンが少し困ったような顔をした。この顔を、健一は知っている。善人が「誰も責められない」状況に置かれたときの顔だ。
「わかりました。工房を見てきます」
「——待て、ケニクス」
立ち上がりかけた健一を、オルヴァンが呼び止めた。
「工房は火を使う。バーゼルを連れていきなさい」
健一は一秒だけ間を置いた。
「……承知しました」
人は悪くない。ただ、十二歳という事実がある。
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領地の外れに、ポーション工房はあった。
石造りの、こぢんまりとした建物だ。
近づくと、青草と薬品の混ざったような匂いがする。
健一は初めて嗅ぐ匂いのはずなのに、どこか懐かしい気がしたが、それは前世で残業中に飲んでいた栄養ドリンクに似ている、と気づいて即座に考えるのをやめた。
あまり思い出したくない記憶だ。
隣ではバーゼルが「足元にお気をつけて」と言い続けている。石畳の、特に凹凸のない道で。
「バーゼルさん、足元は大丈夫です」
「念のためでございます」
工房の中に入ると、数人の職人が動いていた。一人がすりつぶした薬草をフラスコに移している。一人が棚の整理をしている。奥では白髪の老人が大きな釜の前に立って、じっと中を見つめていた。
全員が、動いている。
手を止めている人間が、一人もいない。
健一はしばらく入り口に立ったまま、工房全体を眺めた。
——Ctrl+F。
検索ワードは最初から決まっていた。
「止まっている時間」。
意識が工房の隅々に広がっていく。人の動きが、工程の連なりが——視覚情報として整列されて、ハイライトが走る。
見えた。一か所ではなかった。
まず乾燥室。薬草が棚に広げられているが、完了の判断基準が掲示されていない。いつ次の工程に回すかを、誰かの勘と経験に依存している。
次に奥の老人。抽出フラスコを見守りながら、何もできずに待っている。一日のうち何時間か、ただ鍋の前に立っている。その隣の濃縮用の釜が、冷えたまま止まっている。
全部、直列だ。
一つ終わったら、次を始める。順番待ちが、工程のあちこちで起きている。
「どちら様でしょうか」
声をかけられて、健一は振り返った。四十がらみの、がっしりした体格の女性が立っていた。工房の責任者だろう。目つきが鋭い。こちらを値踏みしている。
「ヴァルベルグ家の三男、ケニクスです。工房の様子を見せてもらいに来ました」
「……坊ちゃまが、ですか」
警戒が顔に出ていた。子どもが来て、何か余計なことを言われる、とでも思っているのだろう。当然の反応だ。
「邪魔はしません。見るだけです」
そう言って、健一は工房の中をゆっくり歩き始めた。
職人たちが横目でこちらを見ながら、手を動かし続けている。誰一人、止まらない。
それが、少し苦しかった。
全員が一生懸命なのに、数字が出ない。誰を責めることもできない状況で、「足りない」という結果だけが積み上がっていく。
——知ってる。前世でも、何度もあった。
健一は奥まで歩いて、釜の前の老人の隣に立った。白髪を後ろに束ねた、七十がらみの男だ。皺が深い。目が静かだ。健一が隣に来ても、釜から視線を動かさなかった。
「……師匠と呼んでもいいですか」
老人が少し、目を動かした。
「私はフォルク。この工房で抽出を担当しております」
「フォルク師。今、何をしているところですか」
「抽出の、終わりを待っております」
「終わったら、次は」
「濃縮に移ります」
「濃縮は、今できませんか」
フォルクが初めて釜から顔を上げて、健一を見た。静かな目だった。怒っているわけではない。ただ、少し意外そうだった。
「……抽出が終わってからでないと、濃縮には入れません」
「なぜですか」
「抽出の具合を見てから、濃縮の火加減を決める必要があります」
「見てから、どのくらい時間がかかりますか」
「……一刻ほど、でしょうか」
「では、見ている間に濃縮を別の人間が始めることはできますか。火加減の指示だけ出して」
沈黙。
フォルクは健一を見て、それから釜を見て、それからまた健一を見た。
「……濃縮は、魔法が要りません。火加減を一定に保つだけです。ただ、私がやらないと——」
そこで止まった。
老人が、何かに気づいた顔をした。
健一は何も言わなかった。言わなくてよかった。フォルク自身が、今、気づいている。
「……私がやらないと、と思っておりました」
フォルクが、静かに言った。
「ずっと、そう思っておりました。抽出も濃縮も、私でないとうまくいかないと」
健一は何も言わずに、老人の横顔を見た。
よく働き、よく食べ、よく増えよ——この国の女神、ラボリアの言葉だ。
国中に染み込んだ、生活の道徳だ。神殿に通わなくても、気づけば体に入っている類の価値観。
「よく働け」は、どうやら「休むな」という意味に化けやすいらしい。手を止めることが怠惰に見える。誰かに頼ることが弱さに見える。
だから全部、一人で抱える。
……よく休めも、入れろよな。ラボリア。
内心でぼやいて、健一は口を開いた。
「そうじゃないと思います」
「フォルク師にしかできないのは、抽出の判断です。濃縮の火加減は、教えれば誰でもできる。師が全部抱えているから、片方が止まっている」
「……」
「師が悪いんじゃないです。仕組みが、師に頼りすぎていたんです」
フォルクが、ゆっくりと息を吐いた。長い、長い息だった。何年分かが混ざっているような気がして、健一は少し目を伏せた。
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帰り道、健一は空を見上げた。
秋の夕方で、空が橙色だった。前世では空を見る余裕なんてなかったな、とぼんやり思う。
目の奥が、鈍く痛んでいた。
工房で二度、Ctrl+Fを使った。その分だけ、いつもより強い。
子どもの体は疲れやすいな、と健一は思った。
火加減の管理を覚えた職人を一人アサインして、乾燥完了の基準を明文化して——頭の中で既に次の手順が動いている。
隣でバーゼルが「お疲れではありませんか」と言い続けている。
「大丈夫です」
「しかし、お顔の色が」
「大丈夫です」
健一は空中で右手を動かした。Ctrl+Sの形。手が少し、冷たかった。
子どもの体だから、秋風が染みるんだろう。
そう思って、歩き続けた。




