未保存のまま、落ちた
佐藤健一が死んだのは、二月の深夜三時十七分だった。
場所は広告代理店『大極堂』の第三会議室。デスクですらない。パイプ椅子に座ったまま、ノートパソコンのキーボードに額をつけるような姿勢で、静かに、止まった。
享年三十一。死因は急性心不全。過労による、と後に診断書には書かれた。
発見したのは翌朝出勤してきた後輩だった。深夜残業は珍しくなかったし、第三会議室の電気がついていることも。それが普通だったから、誰も気づかなかった。
健一自身も、死ぬ直前まで死ぬとは思っていなかった。
胸が痛いとは思っていた。指先が冷たいとも。でもそれは毎晩のことで、今夜特別おかしいとは感じなかった。感じる余裕が、なかった。
意識が遠のいていく中で、脳裏をよぎったのは——
家族の顔ではなかった。恋人の声でも、故郷の景色でも、後悔している言葉でもなかった。
画面の右上、タイトルバーのアスタリスクだった。
提案書_最終版_修正3.pptx*
未保存を示す、小さな記号。三十ページ。六時間分の作業。明日の朝イチのプレゼン資料が、どこにも保存されないまま——
……Ctrl+S、押してない。
それが、最後の思考だった。
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目が覚めたとき、天井が石だった。
カビがある。換気が悪いか修繕が後回しになっているか、おそらく両方だ。
次に、体が小さいことに気づいた。手を持ち上げてみる。指が細い。関節の皮膚が柔らかい。十歳前後の子どもの手だった。
布団の感触がある。体が痛い。腹が減っている。
つまり、夢ではない。
窓の外。石造りの建物が並ぶ街並み。遠くに城壁。畑と、羊らしきものの群れ。知っている景色では、なかった。
脳内に情報が流れ込んでくる。言語、地名、人名、この体の記憶——それらが整然と、ファイルを開くように展開されていく。
ケニクス・ヴァルベルグ。レグヌム王国、ヴァルベルグ子爵家の三男。現在十歳。
健一は一度、目を閉じた。
転生。
その単語が頭に浮かぶ。死んで別の世界の別の体に生まれ変わる、あの概念だ。職場の後輩がよく読んでいた。タイトルに「異世界」とついた小説を。
……ということは。
「女神。祝福。チートスキル」
脳内で検索をかけた。
ヒット、ゼロ。
おかしい。たしかそういう流れのはずだ。気づいたら光に包まれていて、優しそうな女神が微笑んでいて、「あなたには特別なスキルを授けます」みたいな——
「……問い合わせフォームとかないのか」
ない。
そもそもそんな画面もない
「女神さま、お世話になっております。おりますなら至急ご連絡いただけますでしょうか。
恐れ入りますが、スキルの付与が漏れている可能性があります。
至急、確認のほどよろしくお願いいたします」
3分待ったが返信はなかった。
「よし。いねえわ。クソが」
案件クローズ。
健一は布団の上で上体を起こして、気持ちを切り替えた。いない袖は振れない。リソースのないタスクを嘆いても工数の無駄だ。
現状把握から始めよう。
悲しくなかったか、と問われれば、嘘になる。
それは後になってわかったことだが、健一は最初の三日間、夜になると少しだけ泣いた。誰にも見せなかったし、自分でもなるべく気づかないふりをしていた。
何に対して泣いていたのか、正確にはわからない。
前世の未練か。家族への申し訳なさか。三十一年間、ろくに休まず働いて、最後に残ったのが未保存の資料だったことへの、どうしようもない虚しさか。
ただ、泣き終わったあと、健一はいつも頭の中で何かを描き始めた。この領地の問題はどこにある。何から手をつければいい。誰が困っていて、どの構造がそれを引き起こしている。
考えることが、止まらなかった。
止め方を、知らなかった。
それが前世で死んだ原因でもあるとわかっていたが——この場所には、少なくとも今のところ、解くべき問題がある。
それで十分だった。たぶん。
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転生から三日目の朝、健一は家令のバーゼルを呼んだ。
「帳簿を見せてもらえますか」
白髪の老人が困惑した顔をするのは想定内だった。十歳の子どもが突然そんなことを言い出せば、当然そうなる。
「これは……お坊ちゃまにはまだ——」
「読めます。算術も文字も問題ありません」
健一は短く言った。
「見ないと、話が進まないので」
バーゼルは少し考えてから、革表紙の分厚い帳簿を持ってきた。
受け取って、開く。びっしりと並んだ数字。
健一がページをめくり始めた瞬間、何かが起きた。
脳内で、キーボードを叩く感覚。
——Ctrl+F。
意識が鋭くなる。数字の流れが立体的に見えてくる。矛盾した箇所、滞留している箇所、構造的に歪んでいる箇所が、視界の中でじわりとハイライトされていく。
これが——さっき検索をかけた時の感覚と、同じだ。
健一は全体を把握して、ゆっくりとページを繰った。
見えた。三か所。
「バーゼルさん」
「はい」
「農民への課税、徴収のタイミングが農繁期と重なっています」
「……はあ」
「仕入れが一業者に集中しています。競合がいないので言い値で買わされている構造です。それから館の燃料費、夏冬で変動していないのは固定計上しているからだと思いますが、実態と乖離しているはずです」
バーゼルは帳簿と健一の顔を交互に見た。
「……お坊ちゃまは、以前からそのような——」
「いえ。今見ました」
健一はパタン、と帳簿を閉じた。
「誰も悪くないです。父上が悪いわけでも、バーゼルさんが怠けていたわけでもない。ただ——」
一拍おいた。
「仕組みがバグっています。直せます」
言い切ってから、右手が動いた。
空中で、Ctrl+Sの形を作る。重要な確認の後に出てしまう、前世から持ち越した癖だ。バーゼルが何かの儀礼だと思って深く頭を下げた。本人はそれどころではなかった。
目の奥が、少し痛かった。
帳簿を読んでいた間、ずっとそうだった。子どもの体は疲れやすいな、と健一は思った。前世では感じなかった類の、目の奥を押されるような鈍い痛みだ。
——冷えるような、あの感じにも、少し似ていたが、気のせいだろう。
疲れているだけだ。
手が微かに震えていた。それも、きっと同じ理由だ。
「よろしくお願いいたします、ケニクス様」
バーゼルがもう一度頭を下げる。
健一はすでに頭の中で、次の手順を組み始めていた。




