帰宅の作法
冷たい雨と闇の世界から一転。
そこは、暖かなオレンジ色の光と、ふかふかの絨毯、そして柔らかな香りに満ちた空間だった。
ホテルのロビーのような広大なエントランスに、数十人の女性たちが整列している。
黒を基調としたクラシックなメイド服。
彼女たちは一斉に、深く、優雅にカーテシー(挨拶)をした。
“お帰りなさい”……?
初めてなのに、帰宅扱い…?
ここには初めて来たのに。
だがそれなのに、その言葉が胸の奥底を、妙に正確に叩いていた。
メイドの集団に圧倒された湊は、うまく返事が出ない。
ただ、喉が鳴って、彼女たちから目が離せない。
「え、あ、はい……?」
湊は狼狽えた。
彼女たちの笑顔には、営業用の張り付きがない。
心からの安堵と、慈愛に満ちている。
まるで、ずっと待ち焦がれていた家族を迎えるように。
(……なんだ、これ)
怖い。
けれど、同じくらい――救われるような温かさがある。
湊の隣で、八代が一歩だけ前に出て、全員へ向けて礼をする。
彼は誰に対しても、崩れない敬語で言った。
「皆様。宵祷 湊様でございます。本日より、こちらへご案内申し上げます」
その瞬間、湊は理解する。
八代は“紹介”しているのではない。
この場の手順を、正しい形に収めている。
湊が踏み込んだ瞬間に発生した“ずれ”を、言葉で固定しているみたいに。
「……あ」
不意に、ぐにゃりと視界が歪んだ。
眠気でも貧血でもない。現実が一枚薄くなる感覚。
ズキリ、と脳の奥が痛む。
フラッシュバック。
――知らない記憶。
石造りの神殿。
燃え盛る炎。
泣き叫ぶ民衆の声。
そして、自分の手を握り、「生きてください」と涙を流す、誰かの温もり。
(……まずい。立っていられない)
湊の膝が、ほんの一瞬、空白になった。
倒れる、と頭が理解するより先に、身体が重力へ折れた。
視界の端で、シャンデリアの灯りが伸び、赤い絨毯が近づきすぎる。
――間に合わない。
「――っ!」
そう思った瞬間、ひとりのメイド少女が、湊の背中と膝裏を同時に受け止めた。
硬いはずのメイド服の生地が、触れた瞬間だけ柔らかく感じる。
布越しに伝わる体温が、熱ではなく「安心」の形をしていた。
腕の内側がしなやかに沈み、湊の体重を痛みなく吸い取っていく。
抱かれた、というより――落ちるはずだった場所に、最初から用意されていた居場所へ戻された感じだった。
湊の頬が、ふわりと彼女の肩口に触れる。
洗い立ての白布の匂い。
そして、その奥に、言葉にならない甘い香り。
(……あったかい)
冷えた指先から、熱が戻ってくるのが分かる。
心臓の鼓動が、彼女の胸元の静かな呼吸と、気づかないうちに同期していく。
透き通るような薄い金髪。腰まである長い三つ編み。
湊を見つめるその瞳は、吸い込まれそうなほど深い赤色をしていたが、そこには心配の色が滲んでいた。
「大丈夫でございますか、宵祷様」
「あ、ああ、ごめん……」
その少女は、湊を支えたまま、愛おしそうに微笑んだ。
彼女の笑顔が、フラッシュバックの中の「誰か」と重なり、湊の心臓が早鐘を打つ。
「あらあら、到着早々ダウンとは。随分と酷使されてきたようですわね」
コツ、コツ、とヒールの音が響く。
奥から現れたのは、ピンク色のボブヘアの女性だった。
スリットの入った深紅のレザー製ナース服。
知性と色気が同居したその女性は、湊の顔を覗き込むと、呆れたように、しかし優しく目を細めた。
「ナイスキャッチですわ、エティン。そのまま宵祷様を支えてあげて」
「はい、ダスラ様。 宵祷様は、たいへんお疲れのご様子です」
「ええ。限界を超えていますもの。……八代、ご苦労様でしたわ」
ダスラが視線を後方へ向ける。
エントランスの入り口に佇む八代は、深々と一礼した。
「後のことはお任せします、ダスラ様。……私は、地上の掃除に戻りますゆえ」
八代はサングラスを直し、湊へと向き直った。
その表情は、主君を見送る忠臣のように穏やかだった。
「宵祷様。ここには、貴方を縛るタイムカードも納期もありません。
どうか、ゆっくりお休みください」
「八代さん……。ありがとう、ございました」
湊が頭を下げると、八代は男臭い笑みを残し、雨の降るタラップへと去っていった。
重厚な扉が閉まり、ロック音が響く。
完全に、外の世界(日常)と遮断された。
「さあ、まずは医務室へ。貴方のボロボロになった心を、診せていただきますわ」
「……ありがとうございます」
「エティン、搬送を補助して」
「はい。宵祷様、こちらへ」
エティンに肩を貸され、湊は長い廊下を歩き出した。
足元の絨毯は雲の上のように柔らかく、空調は完璧に制御されている。
すれ違うメイドたちが、一様に心配そうな、それでいて慈愛に満ちた眼差しで会釈をしてくる。
ここには敵がいない。
その事実だけで、湊の目頭が熱くなりそうだった。
案内された医務室は、湊の知る病院とはまるで違っていた。
消毒液の匂いがしない。代わりに、微かなアロマの香りが漂っている。
壁面には物理的な計器類がなく、空中に半透明のホログラム映像がいくつも浮かんでいた。
不思議な光景だ。
「そこに座って。すぐに終わりますわ」
湊が中央の診察台に腰掛けると、ダスラが指先を優雅に振った。
ヒュン、という音と共に、青白い光の輪が湊の体をスキャンする。
瞬時にホログラム画面へ、複雑なグラフや波形が表示された。
「……酷いものですわね」
ダスラが溜息をつき、数値を指で弾いて拡大する。
「生体バイタルは正常値ギリギリ。ですが、それ以上に『精神摩耗率』がレッドゾーンを
振り切っています。精神の領域がズタズタですわ」
「そんなに、悪いんですか」
「ええ。普通の人間ならとっくに廃人になっていてもおかしくないレベルですわ。
よくこれで、人の形を保っていられましたわね」
ダスラは呆れたように言いながらも、その瞳には同情の色が滲んでいた。
彼女は注射器のようなデバイスを取り出し、湊の腕に当てた。
痛みはない。温かい何かが流れ込んでくる感覚だけがあった。
「応急処置として、修復薬を打ちました。ですが、完治には絶対的な休息が必要ですわ」
「休息……」
「そう。何も考えず、誰の顔色も窺わず、ただ眠ること。それが今の貴方の仕事ですわ」
仕事が、眠ること。
そんなことを言われたのは、生まれて初めてだったかもしれない。
張り詰めていた糸が、ぷつりと切れた。
急激な眠気が襲ってくる。
体が重い。けれど、それは心地よい重さだった。
「……宵祷様」
横から、そっと小さな手が差し伸べられた。
エティンだった。
彼女は湊の震える手を、両手で包み込むように握りしめた。
「もう、怖がらなくていいのです。ここは安全です。私たちがついていますから」
その手は、驚くほど温かかった。
体温だけではない。心の芯まで届くような、柔らかな安らぎ。
湊は、自分が泣きそうになっていることに気づいた。
三十過ぎの男が、みっともない。でも、止められなかった。
「ありがとう……」
やっと、息ができる。 やっと、休めるんだ。
湊が深く安堵のため息をつき、ダスラを見上げ尋ねた。
「……あの、あなたは……」
女は微笑んだまま、一礼する。肩の線がしなやかに折れ、艶のある赤が灯りを返した。
「私はダスラと申します。この船で医療を預かっておりますわ。
宵祷様の“今”を保つのが、わたくしの務めです」
続けてダスラはエティンを紹介する。
「そして彼女はエティン。宵祷様のお世話をさせていただく、メイドですわ」
「エティンと申します、宵祷様。以後お見知り置きくださいませ」
その言葉が、不思議と胸に刺さった。
まるで湊の中に、今にもほどけてしまいそうな糸があることを、最初から知っているみたいに。
――その瞬間、前触れのように空気が震えた。
腹の底に直接響く、低く太い轟音が追いかけて届く。
ズゥゥゥゥゥン!!
その轟きは音というより“圧”だった。
直後、船全体を巨大なハンマーで叩いたような衝撃が襲った。
船内が激しく揺れ、悲鳴のような金属音が船体を駆け抜ける。
「きゃっ!?」
その衝撃で、エティンがバランスを崩した。
小柄な体が宙に浮き、床へと投げ出されそうになる。
「危ないッ!」
湊は咄嗟に腕を伸ばした。
社畜として疲れ切った体の、どこにそんな力が残っていたのか。
湊はエティンの細い腰を引き寄せ、彼女の体を抱き留めた。
「え……?」
エティンが、目を丸くして湊を見上げる。
至近距離で視線が交差する。
赤い瞳と、黒い瞳。
その瞬間、エティンの表情が変わった。
驚きから、信じられないものを見るような、震えるような感情へ。
エティンの脳裏に不思議な光景が走った。
――フラッシュバック。
――知らない記憶。
そして誰かの温もり…。
エティンの唇が何かを紡ごうとしたが、それをさらなる轟音が掻き消した。
「上方、次元層の歪を確認。 ……『レヴィアタン』ですわ!」
戦闘モードの切り替わった大型モニターに外の映像が映し出され、確認したダスラが叫ぶ。
雨雲が渦巻く夜空から、一本の巨大な「光の柱」が降り注いでいる。
そしてその光源には、日米合同艦隊を襲撃した巨大な影が、空中に浮かび、口を大きく開けていた。
強い光線が、コクヨウを飲み込む。
「総員対ショック姿勢! 玄磁帷、緊急展開!」
ダスラの号令と共に、窓の外が一瞬で暗転した。
黒い砂鉄のような粒子が、船と光源の間に出現する。
直後、光と熱が鋼鉄の防御シールドに衝突し、世界が白と黒に明滅する。
ギギギギギ……ッ!
船体が悲鳴を上げる。
だが、焼けない。黒い粒子が光を削り、弾き、拡散させている。
「出港ます! これ以上は陸が巻き込まれる!」
ダスラが裾を翻し、戦闘用に切り替わったパネル越しに鋭い指示を飛ばす。
その声は怒声ではない。
戦場の混乱すら支配する、絶対的な命令権者の響きだ。
「タラップ放棄、全ハッチ閉鎖! 総索、放てッ! ――離岸!」
間髪入れず、ダスラが次の指示を叩きつける。
艶のある唇が、獰猛な弧を描いた。
「サイドスラスター、全門最大出力! 岸壁を『蹴り』飛ばして!」
ズドォォォォォォン!!
船腹に並ぶ排出口から、スクリューの水流とは異なる、どす黒い重力波が噴出した。
圧縮された海水が防波堤に叩きつけられ、コンクリートを爆破したように粉砕する。
その猛烈な反作用を受け、全長四〇〇メートルの巨体が、氷の上を滑るように真横へ弾き飛ばされた。
一瞬で、岸との間に決定的な断絶が開く。
ダスラは崩れ落ちる港を一瞥もしない。
彼女の瞳はすでに前方――無限の海原だけを射抜いていた。
その瞳が、冷徹な参謀の色に染まる。
「重力錨、反転! 重力干渉炉、最大出力!
前方に仮想特異点を展開! ――海ごと『落ち』なさい、コクヨウ!」
ガゴン、という重い音と共に、背後の扉がロックされる。
直後、床下から、普通のエンジン音とは違う、空間そのものが軋むような重低音の咆哮が上がった。
ドォォォォォン!!
船体後部の海面が、見えない力でねじ切れ、巨大な水柱となって吹き上がる。
強烈なGが襲った。
スクリューで水をかくのではない。船の前方の空間が「沈み込み」、そこへ向かって船体が滑落していくのだ。
巨大な豪華客船にあるまじき加速。
コクヨウは岸壁を物理的に拒絶し、光の雨が降る海へと飛び出した。
モニターの端で、置き去りにされた港湾施設が、レヴィアタンの余波を受けて崩れ去るのが見えた。
コンクリートが砕け、クレーンが飴細工のようにグニャリと曲がる。
もう、戻る道はない。
湊は腕の中にいるエティンを守るように抱きしめたまま、燃え上がるかつての世界(日常)が、
雨と闇の向こうへ遠ざかっていくのを見つめていた。
「面白かった」
「続きが気になる」
と思ってくれましたら
下にある☆☆☆☆☆から、作品への評価・応援をお願いいたします。
ブックマークもいただけると、たいへんうれしいです!
何卒よろしくお願いいたします。
X(Twitter)でもおしゃべり待ってます!
@Kuro_miroku https://x.com/Kuro_miroku
ご感想いただけると嬉しいです。




