分かれ道
黒塗りのセダンは、雨に煙る湾岸道路を滑るように走り抜けていた。
追手の気配はない。信号機の介入も、いつの間にか止んでいる。
車内には、ワイパーが雨を弾く音と、タイヤが水を切る音だけが響いていた。
後部座席で、湊は荒くなった呼吸を整えようとしていた。
隣に座る八代は、先ほどまでの緊迫感が嘘のように、静かに前を見据えている。
「……あの、八代さん」
「はい」
「これから、どうするつもりですか。俺を、どこへ」
湊の問いに、八代は視線を窓外へ向けたまま、低い声で答えた。
「我々は貴方を、このシステムが手を伸ばせない場所へお連れします。……ですが」
八代は言葉を切り、ゆっくりと湊に向き直った。サングラス越しの瞳が、湊を射抜く。
「決めるのは貴方です、宵祷様」
「え?」
「この先の分かれ道で車を止め、貴方を逃がすことも可能です。
金と、新しいIDを用意して、遠い地方へ身を隠す手配もできます」
八代は淡々と言った。
試すような響きはない。事実として選択肢を提示している。
彼について行くか。それとも、逃亡者として一人で生きるか。
戻るという選択肢はない。
戻った瞬間に、何をされるか分からない。
それでも“会社へ戻る”という発想が一瞬よぎるあたり、自分がどれだけ飼い慣らされているかが分かって、湊は吐き気を覚えた。
湊は膝の上で拳を握りしめた。
震えは止まらない。未知への恐怖はある。
自分はただの社畜だ。
SEとして、言われた仕様通りにコードを書いてきただけの、代わりなんていくらでもいる部品だ。
「俺は……ただの会社員です。何も、特別なことなんて……」
「その“ただの”が、今夜は通りません」
八代が、静かだが強く遮った。
「貴方は世界に見つかった。……“何もしなかった”としても、貴方の魂は、
そこに在るだけで意味を持ってしまったのです」
(“こちら側”って何だよ。……世界? なんのことだ?)
口に出したかった。だが、喉が言うことをきかない。
反論した瞬間に、また“何か”が始まる気がして
――湊は、ただ唇を噛んだ。
理不尽だと思った。
けれど、同時に腑に落ちる感覚もあった。
ずっと感じていた違和感。
社会の歯車として噛み合わない、軋むような痛み。
逃げるだけの人生で、その答えが出るだろうか。
湊は膝の上で拳を握りしめた。
逃げれば、生き延びる確率は上がるのかもしれない。
だがその先、毎日が“隠れる仕事”になる。
逆に、彼について行けば――何が待っているか分からない。
分からないから、怖い。
(……どっちも地獄じゃないか)
そう思って、さらに苦くなる。
“地獄の種類を選べる”こと自体が、人生で初めてだったからだ。
声を出そうとすると、喉が震える。
逃げたい。
戻りたい。
どちらも本音だ。
けれど、戻るという言葉だけは――身体の奥が拒絶した。
「……行きます」
まず、それだけを言った。
自分でも驚くほど、小さな声だった。
「……案内してください。あなたの言う“本来の場所”へ」
流されるのではない。
恐怖の中で、選んだ。
――それが、湊にとっては十分すぎる決断だった。
その言葉が口をついて出た瞬間、胸のつかえが少しだけ軽くなった気がした。
「ありがとうございます。宵祷様」
八代は満足げに口元を綻ばせ、深く頷いた。
その敬意に満ちた声に、湊は(俺、今……“選んだ”んだ)と、掌の汗を握りしめながら実感する。
車は高いフェンスに囲まれたゲートを通過した。 プライベートポートだ。
関係者以外立ち入り禁止の看板が過ぎ去り、広大な岸壁に出る。
港湾作業員の人影は一つなかった。
そこに“建物”があった。
いや、港湾施設にしては高すぎる。ホテルにしては長すぎる。
黒い山脈みたいな影が、海に沿って横たわっている。
次いで、光。
窓という窓が、均一な暖色で灯っていた。
一つ二つの灯りではない。何百もの小さな四角が整然と並び、巨大な輪郭を浮かび上がらせる。
照明の演出が上手すぎる。派手ではないのに、目が離せない。
豪華客船の“夜の顔”が、そのままここにある。
湊は思わず、ガラスに手をついた。
「……でか……」
自分が知っている最大の船は、テレビの中にしかいない。
現物は、サイズを理解する前に、身体が負ける。喉の奥が乾いて、胃が重くなる。
“圧倒される”という言葉に、初めて手触りが出た。
車が止まり、ドアが開く。潮風が入り込んだ瞬間、湊は気づく。
波の音が、薄い。
完全に消えてはいない。
だが、豪華客船が海に浮かぶ場所で期待する「ざあ」という呼吸が、妙に控えめだ。
代わりに、灯りだけが濃い。
――まるで、船が海ではなく闇の上に置かれているみたいだった。
八代が先に降り、ドアを押さえる。
「宵祷様。こちらへ」
コンクリートの岸壁。濡れているのに、滑り止めが行き届いている。
八代の同僚らしき影が数人。黒いスーツ、サングラス、無線、同じ無駄のない動き。
顔は見えない。見せないように動いている。
湊はある都市伝説を思い出していた。
――黒い方舟――
海難が増えた。
磁気嵐。
通信障害。
救助されたという噂。
SNSのブレた動画。
夜の海に、ありえない大きさの黒い船影が映る――
(まさか……)
だが、目の前の船は「噂の幽霊船」よりも、よほど現実的に見えた。
窓があり、灯りがあり、ここは港で、地面は固い。
でも、現実のはずなのに、現実の“上限”を越えている。
八代が立ち止まり、正面――黒い船体の影を見上げる。
サングラスの奥で、彼の視線だけがまっすぐだった。
「宵祷様。こちらが――」
短い間。
八代は、世迷い言のような噂話を、現実として定義し直すように言った。
「巷で『黒き方舟』と噂される船の正体。……真名を、『コクヨウ』と申します」
その一言で、湊の背中に冷たい汗が走った。
知っていた言葉が、現実になって落ちてくる重さ。
(この船が――黒い方舟―― 『コクヨウ』)
船の側面に近づくほど、灯りの密度が増す。
窓の向こうに、シャンデリアの光が見える。金色の反射がゆらぐ。
豪華客船らしい“歓迎”が、過剰なほど整っているのに――人の気配がない。
乗客は当然いない。
スタッフの声も、足音も、笑い声も、ない。
あるのは、光と、無言の規律と、巨大さだけ。
湊は八代に導かれ、長く伸びたタラップを登った。
一歩、また一歩。日常から非日常へと足を踏み入れる。
船の舷側に設けられた入口からエントランスホールに入った瞬間、世界が変わった。
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