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黒き箱舟は月を抱く ~社畜の俺が、最強の船と家族になるまで~  作者: クロミロク
第二章:羅針の目覚め
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ロックオン

 東京、地下鉄都心環状線。


 海が嵐なら、陸もまた、冷たい雨に沈んでいた。


 午後十一時四十五分。


 ドアが閉まるたび、車内に湿気が押し込まれ、息が重くなる。

コートの裾、濡れた傘、乾ききらない髪。湿ったスーツの匂いに混じって、安い制汗剤とコンビニ弁当の残り香が漂っていた。


 咳払いが一つ。次に、喉の奥で痰が絡む音。誰かのイヤホンから漏れるシャカシャカという微かなノイズ。

 どれも小さいのに、疲れた耳にはやけに鋭い。



 宵祷よいと みなとは、ドア横の手すりに額を押し付け、閉まりかけの瞼を無理やりこじ開けていた。


 眠いのではない。


眠っていいという許可が、身体に下りてこないのだ。


 脳が「止まるな」と命じ続けている。

止まった瞬間、溜め込んだものが一気に崩れ落ちる気がして

――その恐怖だけが、瞼を吊り上げている。



(……帰ったら、メール返信しないと……明日の会議資料、まだ三割も……)



 思考がまとまらない。


 「帰ったら」と頭の中で言いかけて、すぐに気づく。

帰っても、仕事。帰っても、終わらない。終わらなくても、朝は来る。


 三日間、会社に泊まり込みだった。

シャワーは浴びていない。食事はデスクで流し込んだゼリー飲料の味しか覚えていない。

口の中に残る人工甘味料の甘さが、もう水で流せない。胃は空なのに、胃酸だけが重い。


 ポケットの中でスマートフォンが振動した気がして、ビクリと肩を震わせる。


 反射で手が動き、画面を確かめるが、暗いまま。通知もない。


 幻覚だ。まただ。


 “鳴っていないのに鳴った気がする”。

それが起きるたび、湊は自分の脳が壊れかけているのを実感する。


 上司の怒鳴り声が耳の奥にこびりついている。



「使えない」


「代わりはいくらでもいる」


「お前のせいで遅れている」



 言い返した記憶はない。

言い返せた気もしない。


 湊が知っているのは、声が大きい者が正しいという、この職場のルールだけだ。


 車両の走行音(ガタン、ゴトン)に合わせて、その言葉だけが正確に繰り返される。

まるで、脳内に埋め込まれたループ再生みたいに。



 吊革を握る指先が痺れている。


 力を入れているわけじゃない。

ただ、手を離したら立っていられないから、握っている。

握っていないと倒れる。倒れたら、迷惑がかかる。


 心臓が不規則に跳ねる。胸の奥が、時々「空振り」する。


 もし今、ここで倒れたら楽になれるだろうか。


 いや、倒れたら迷惑がかかる。――と、すぐに打ち消す自分がいる。



 迷惑。


 損害賠償。懲戒解雇。



 倒れるだけで、そこまで飛ぶ想像が自然に出てくるのが、もう終わっている。


 そんな強迫観念だけが、辛うじて彼の膝を支えていた。



 湊は息を吐いた。吐いたはずなのに、肺が軽くならない。


 息が胸の中で渋滞している。


吸って、吐いて、また吸う。


そのはずなのに、酸素の帳尻が合わない。



 次の駅で降りるべきか。


降りて何をするのか。


そもそも、どこへ行くのか。


 判断が遅い。


――そういうところだ、と、また声が被さる。


 上司の声なのか、自分の声なのか、もう区別がつかない。



 そのとき。



 車内の案内表示が、一瞬だけ乱れた。


 行先でも路線図でもない、意味のない英字が“ログのゴミ”みたいに滑り込む。


 表示の縁が、ほんの一瞬だけ白く滲んだ。液晶が壊れたのかと思うほどに。



 YOITO



 一拍。


 表示はすぐ元に戻る。


周囲の誰も気づかない。


気づくはずがない。


 疲れた人間の視線は、スマホか床か、自分の靴先に落ちている。

上を見上げる余裕などない。


 けれど宵祷の喉だけが、乾いた音を立てた。


 胃が一瞬だけ浮いた。心臓が遅れて跳ね、掌に冷たい汗がにじむ。


 疲労の幻覚ではない


――そう言い切れる確信だけが、背骨を冷やした。



(……いま、俺の名前が――?)



 呼ばれた、というより――指定された。


 そんな感覚が背骨を冷たく撫でた。



 ――その車両の連結部付近に、場の空気と馴染まない集団がいた。


 黒いコートを着た男たちが三人。


 立ち方が違う。


吊革につかまらない。


揺れに合わせてふらつかない。


足が、床に“固定”されているみたいに静かだった。


 彼らは周囲の乗客を威圧しないよう静かに立ち、しかし鋭い視線を一点――手すりに寄りかかる湊へと注いでいた。



 その中心にいる、初老の男。


 オールバックの髪にサングラスをかけた男が、眉間の皺を深くした。


 雨の夜に似合う黒。だが安っぽくない。

コートの肩が落ちない。靴が濡れていない。


 場に溶けない理由は、服装ではなく“存在の温度”にあるかのようだ。



「……八代やしろ様」



 部下の若者が、僅かに唇を動かして囁く。


 八代は小さく頷き、サングラスの位置を直した。


 その仕草は、周囲にいる誰よりも落ち着いていた。



「ええ。……始まりますね」



 八代には見えていた。


 疲れ切って死人のようになった湊の体から、微かだが、

確実に異質な波長シグナルが漏れ出し始めているのが。


 それは本来、この管理された社会では決して検出されてはならない、

システムを書き換える「鍵」の輝き。


 八代の目には、それは整列した世界の表面に走る細い亀裂、

そこから漏れる規格外の揺らぎに見える。


 ひとたび気づけば、隠しようがない類のものだった。



「世界が…、彼を見つけました」



 八代が呟いた瞬間だった。



 車両の空気が、ねっとりと変わった。


 温度が下がったわけではない。湿度が増えたわけでもない。


 それなのに、同じ車内が、別の部屋にすり替わったように感じる。



 騒がしかった車内が、不自然に静まり返る。


 座席に座っていたサラリーマンたちが、スマホを見ていた学生が、一斉に顔を上げた。


 まるで、同じタイミングで同じ指示が下りたように。まばたきの周期まで揃って見える。


 人間の“偶然”が消え、機械のような“正確さ”だけが残る。



 ガチャリ。



 誰かが鞄の留め具を外す音が、静寂に響く。


 それを合図にしたかのように、目が――目だけが、湊へ向く。



「……確保対象、検知」




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