船長のいない船
額が離れた瞬間、夜の海辺は少しだけ現実に近づいた。
湊は膝をついたまま息を整える。指を絡めた手だけが、まだほどけない。
「転送は終わりじゃ。だが“使える”とは言っておらぬ」
「じゃあ、次は」
「練習じゃ」
ツクヨミが指先を弾くと、砂浜の一角が“訓練場”みたいに整った。
空気が薄くなり、砂の上に光の筋が走る。湊の目には、それが“行”に見えた。
「読むとは理解ではない。匂いを嗅げ」
「正しい顔の偽物は、底が冷たい」
湊は反射で指を動かしそうになる。
キーボードを叩くみたいに、ぱちぱちと。
「触るな。ケシューリュ・コードは触れば動く」
指が勝手に動きかけた瞬間、絡めた指がぎゅっと締まった。エティンだ。
「……一拍。息」
湊は息を吸って吐いた。
熱が引き、行が整列する。読める。――触らずに。
「よい。読む、止める、呼吸を戻す」
「これが拒否の下地じゃ」
ツクヨミが小さな窓を出す。丁寧な文章。YESとNO。
指先が勝手にYESへ寄る。湊の胃が縮む。
「ほらな。お主は丁寧だと先に通したくなる」
「仕事の癖だよ」
「癖なら、手順で止められる」
エティンが指を絡めたまま、湊の手に“間”を作る。
湊は呼吸を戻し、文面の底を嗅いだ。丁寧すぎる。温度がない。
「……匂いが変だ」
「では拒否せよ」
湊がNOを押すと、訓練用の窓は音もなく消えた。
砂浜に走っていた光の筋も、ふっと薄れていく。
「よい」
ツクヨミは短く頷いた。
「読む、止める、息を戻す。――それだけでよい」
「今は勝とうとするな。崩れないことを覚えよ」
湊は膝の砂を払って立ち上がる。
エティンが隣で、そっと息を吐いた。まだ手は近い。
「……戻るぞ」
ツクヨミが指先をひと振りする。
月光が揺れ、海辺の夜が“薄く”なる。
波音が遠ざかり、潮の匂いが消え、足元の砂は板の感触に変わった。
世界がずれる、いつもの感覚。――ホロテックの解像度が落ちる。
扉が見えた。現実へ戻るための境界だ。
ツクヨミは一度だけ振り返った。
銀の瞳が、湊とエティンを順に映す。
「エティン」
「はい」
「湊を案内せい」
「……はい。湊様こちらへ」
その呼び方に、湊は小さく頷いた。
慣れないが、拒む気もない。いまは役目の言葉だ。
「ダスラ」
「はい、ツクヨミ様」
ダスラが膝を折って、深く頭を下げた。
ツクヨミはそれ以上、何も言わない。
だが“意思”が届いたのが分かる。空気の向きが変わる。
「では行くのじゃ」
ツクヨミはそう言い、夜の海辺の奥へ溶けるように下がった。
湊は扉へ向き直り、取っ手に手をかける。
扉が開いた。
踏み出した瞬間、現実の船内の匂いが戻る。
金属の冷たさ、微かな油の香り、循環する風の音。
耳の奥で、機械の鼓動みたいな低音が鳴っている。
背後で、エティンが扉を閉めた。
その音が、訓練の終わりを決定づけた。
「……こちらです、湊様」
エティンが歩き出す。
廊下は広い。豪華さはあるが、飾りではない。無駄がない。
どこか生き物の体内みたいに、滑らかで、静かで、温度が一定だ。
角を曲がるたび、少女たちが一人、また一人と合流してくる。
髪の色も背格好も違う。長身もいれば小柄もいる。笑い方も、歩き方も、癖がある。
けれど共通点がひとつ――瞳が赤い。
赤い瞳が、湊を見て、揃って柔らかくなる。
顔立ちはどこかツクヨミに似ている。美女、美少女。
似ているのに同じではなく、個性が確かにある。
そして、皆が湊へ向けて、同じ呼び方で口を開く。
「宵祷様」
「宵祷様……ようこそ」
「宵祷様のおかげで……」
「宵祷様……ありがとうございます」
小さな声が、廊下のあちこちで零れる。
拍手はない。大袈裟な歓声もない。
だが胸に届く。揃った温度で届く。
エントランスに着くと、ダスラが先頭に立っていた。
真っ赤な革のナース服が灯りを受けて艶やかに光る。
身体の線を隠さないのに、いやらしさより“役目の強さ”が先に立つ。
エントランスには、ざっと四百人ほどが集まっていた。
全員ではない。ほかの者は任務中なのだろう。艦内のどこかで、手が離せない仕事を続けている気配がある。
だが、これだけの人数が揃っても、騒がしさはない。
赤い瞳がずらりと並び、視線の温度だけが静かに揃っている。
顔立ちはどこかツクヨミに似ているのに、髪の色も背格好も違い、立ち方にも癖がある。個としての輪郭が、確かにある。
服装もまた、ひとつではなかった。
半分以上は海軍仕様のセーラー服で、襟の色が役割を示している。
赤は火器。
青は哨戒・レーダー。
ピンクはメンテナンス。
白は医療。
緑は全般支援。
そして黄色は食事手配や美容などの生活支援だ。
同じ船にいながら、色だけで“担当”が見える。
合理的で、どこか誇らしげだ。
セーラー服ではない者もいる。艦内勤務の制服、接待担当のメイド服、作業用の装備、医療用の実務服。
けれどどれも、派手さのためではなく「動くため」の形だった。
湊はその揃い方に、妙な安心を覚える。――この船は、役割が息をしている。
ダスラが一歩前へ出た、その瞬間。
少女たちは言葉も合図もなしに、同時に頭を下げた。
号令は不要だ。意思が届けば、呼吸の間まで揃う。
湊は背筋を正す。
この揃い方は訓練の反射ではない。
――一体感そのものだ。
ダスラが顔を上げる。
「本日、御意思の伝達がありました」
「――この船コクヨウより。真名が告げられました」
その言葉に、赤い瞳がわずかに揺れた。
息を呑む気配が列の中を走り、数人が堪えきれずに瞳を潤ませる。
湊は理解した。
彼女たちは“コクヨウ”という名は知っている。
それは当然だ。
けれど“真名”は知らなかった。
知ることが、こんなに重い。
「我らがコクヨウの真名は――ツクヨミ様」
名が落ちた瞬間、空気が静かに震えた。
涙ぐむ者がいる。胸の前で両手を重ねる者がいる。
声には出さない。だが感情が、はっきりと場に満ちる。
湊は理解した。
彼女たちは今まで“主”を知っていた。
けれど“名前”を知らなかった。名前を知ることが、こんなに重い。
ダスラが深く頭を下げる。
「ツクヨミ様の御意思により、宵祷湊様をお迎えします」
視線が湊へ向き、呼び方が変わる。
「湊様。今後、我々と共に在られます」
湊は一歩前に出て頭を下げた。
「宵祷 湊です。……よろしくお願いします」
列から、抑えた声が零れる。
「宵祷様……」
「歓迎します」
「ありがとうございます……」
その“ありがとうございます”が誰に向けられたものか、湊にはすぐ分かった。
自分ではない。ツクヨミへだ。
ダスラが続ける。
「そして、エティン」
「本日より、湊様の支えとして正式に認められました」
「昇格を、ここに告げます」
エティンが目を見開き、すぐに深く頭を下げた。
「……はい」
「……ありがとうございます」
少女たちの赤い瞳が一斉に微笑む。
祝福の熱が、派手ではないのに確かに満ちる。
「おめでとう」
「よかったね」
「一緒に支えるよ」
湊はその一体感に、思わず訊いていた。
「……この船に船長は、いるのか?」
ダスラが湊を見て、丁寧に答える。
「個としての船長は、おりません」
「我々は、コクヨウの意思を受けて動きます」
「主の意思は遅れず届きます。だから誰か一人が抱え込みません」
湊は息を吐いた。
合理的なのに冷たくない。責任の押し付けでもない。
共有されているのは命令ではなく、意思だ。
ロタが列の端から半歩出て、真面目に言った。
「宵祷様。何か壊れたら、すぐ呼んでください」
「コクヨウは治ります。でも治す手は要ります」
湊は頷く。
「頼りにする」
ロタの赤い瞳が、少しだけ誇らしげに細まった。
エントランスの空気が、柔らかくなる。
そして湊は感じた。
この船は静かだ。だが孤独じゃない。
赤い瞳の少女たちが、同じ意思の輪の中で呼吸している。
そこに、自分の息も混ざっていく。
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