ここは出入り自由の密室です。
次元が不安定になってから、私が注意喚起したこともあり、店を訪れる客はめっきりと減った。
そりゃ、そうだろう。
今、店に来るということは、自分の命をドブに捨てるのに近い行為だ。
それなのに、来ちゃった人間が二人もいる。
一人はアザレアさん。
もう一人はハシダさん。
「私、来ないようにって言ったんですけどね。命を粗末にしちゃいけませんよ」
「別にいいじゃん。自分の命だもん」
アザレアさんはそう言いながら、味噌チャーシューメンを頬張っている。
あっけらかんとしたクサレシスターと違い、ハシダさんは悲しそうに、
「拙者、家では妻と娘に嫌われ、職場でも余計なものばかり見ると嫌われておってな。ここ以外で憩うことができないでござるよ」
「ごめんなさい。命の保証はできませんが、閉店までいてもいいですよ」
私は静かに言った。
この手の客もたまにいる。珍しくはない。
ハシダさんは感謝を述べてから、ブラックコーヒーとチーズトーストを食べ始めた。
アザレアさんが、
「もうそろそろ一ヶ月経つよね。次元の歪みとやらも安定するんじゃないの?」
「そう思います」
「結局、何も起こらなかったんじゃない? ちぇ。つまんない」
「たまに、そういうこともあるんです。私としてはありがたいですけどね」
店も閉店時間を迎え、二人は扉へと向かう。
ハシダさんが扉を開けて、
「な、なんだこれは?」
驚いた声を上げた。
私は扉の外も見もせずに、
「ハシダさんが本来帰るべき世界以外と繋がっちゃったんですね。ご自身の世界を思い浮かべながら、数回、扉を開け閉めしてみてください。元の世界と繋がりますから」
次元が歪んでいる時の定番イベントといえるもので、危険度は小。問題なし。
アザレアさんが私に振り返り、
「ねぇ、何度やってもこの世界のままだけど」
「え?」
私も扉へ行き、外を見る。
最初に目に入ったのは、宙を舞うおびただしい数の禍々しい黒い影たちだった。
雰囲気的には魔物だ。
地面と空の境界すら曖昧な世界で、どこまでが上で、どこまでが下なのかさえもわからなかった。
いつの間にか背後に立っていたゼンラが、
「世界に、なりそこねた世界」
とだけ呟いた。
それっきり興味をなくし、店の隅で寝直した。
「ねぇ、どうしたらいいのよ!? それくらいは教えて!」
「知らない」
ハシダさんは真剣な表情で、よくわからない世界を見つめた。そして、右目を覆い、力を発動させた。
「見えぬものを、拙者の眼があぶり出さん!」
そう言って左目を見開いた。脳裏に映像として、目には見えないが、存在するものが流れ込んでいるらしい。
そして、手を下ろすと、
「奥深くに、黒い球が見えるでござる。それしかわからぬな」
「それだけでも充分ですよ。世界の説明の役に立ちます」
私はそう言ってから、スクランブルにある専用の緊急窓口に連絡をした。しかし、次元が乱れすぎているせいで繋がらない。
このままではお客さんが帰れない。
私は意を決して、倉庫からスライム製の命綱を持ってきて、腰に巻いた。ゼンラにもう一方の紐を持たせる。
「とりあえず、行ってきます」
「ねぇ、どうにかできるの?」
「わかんないですけど、解決しなきゃいけないので」
私は一歩足を踏み出した。
何もない空間だったが、落下はしない。
ただ、心の奥底から、何かがゆっくり湧き上がってくるような――。
私はそんな違和感を感じながらも、ゆっくりと進もうとしたら、とうとうそれは来た。
「ぎぇぇぇぇぇぇ!」
怒り、悲しみ、憎しみ、絶望――すべてが何倍にも膨れ上がって頭を支配する。
私の、SAN値が、削られる!
我慢ができない!
私はその場でのたうち回った。
苦しむ私の耳に聞こえてきたのは、
「アハハハハハ」
アザレアさんの大爆笑だった。
私はやっとのことで店に逃げ帰ると、 間髪入れずにアザレアさんに怒鳴った。
「オメェも行ってみろや!」
掴みかかろうとしたが、やはり相手は戦闘職だけあり、ひらりと避ける。
店の隅を見たら、ハシダさんもうずくまって笑ってやがった。笑いが収まったら、まるで忍者のような素早い身のこなしで、アザレアさんを世界に放りこんだ。
アザレアさんは数秒立っていたが、すぐに、
「キャァァァァ! もう死にたーい!!」
悲鳴が響く。
陸に上がった魚が如く、もんどり打つ姿に私たちは爆笑した。ざまぁ!
店に戻ってきたアザレアさんは、体育座りをしながら、恐怖に震えていた。
「ハシダさんも行ってきなよ」
「拙者は遠慮するでござる」
とハシダさんが言うも、不気味にニヤつくゼンラに捕まり、思いっきり店の外に放り投げられた。
やはりのたうつハシダさん。
私たちはその様子に笑いが止まらない。
彼は命からがらと言った様子で戻ってきたら、床に突っ伏して泣き出した。
「拙者はただ、見えただけでござる! 悪いのは、不正をした汝らであろうぅ」
ハシダさんはしくしく泣き続けている。意外と引きずるタイプだ。
私はそんな彼を無視して、言った。
「この世界はトラウマなどを思い起こさせ、その時の感情を増幅させるみたいですね」
「精神が崩壊しそうになっちゃうね」
アザレアさんが面白くなさそうに言った。
「じゃあ、この世界はSAN値ピンチ世界略してSANピンですね」
「何それ?」
「地球における一部界隈で使われている理性度のことです」
私たちは結局、店内に座り直した。
時間だけが過ぎていく中、アザレアさんがふと呟いた。
「この世界が邪魔して、帰れないのかな? それなら、いっそのこと壊せちゃえばいいのにね」
「それだ! 倉庫にいいものがあるんですよ」
私は倉庫から細長い箱を持ってきた。箱は厳重に鎖で何重にも巻かれ、シリンダー錠がいくつもついている。
かなり厳重だから、箱を開けるだけでも数分は要する代物だ。
中には、美しい漆黒の片刃の剣が入っている。
「これは、世界を壊すと言われている剣になります。ただ、使い手を選ぶらしく、今まで使えた人はいないそうです」