SCENE1 外の世界へ SIDE 王女:カリナ
朝6時にいつものように起きて、侍女を呼ぶ。
瞼を裏返されたり脈を測られたりされ、大きな異常はないことが認められると食事が運ばれてくる。
数口も食べれば吐き気を催して口に運ぶのでさえ嫌悪感がせりあがってくる。
ひどいときにはやっと食べたものを吐いてしまったりする。
20年近く生きてきた中で、食事を全部食べきれたのはほんの数回。
それがわたくしの日常でした。
特に何をすることもできないわたくしはただ床に臥せって本を読み続けました。弟や親友と少し話すだけでも息切れしてしまう、自力で起き上がることも儘ならない弱弱しい体はベッドに縛り付けられるほかなかったけれど、本の中ではわたくしは一人の自由な少女になれました。病弱な王女は本の中でだけ、ドラゴンを倒すことも、自由に魔法を使うことも、誰かと恋をすることも赦されたのです。
たまに本から視線を上げると、窓の向こうに見える近衛騎士団の訓練場で剣を振るう弟の姿が見えます。彼がどんどん大きくなっていくのが、いつもどんな季節でも陽に照らされて眩しかったものです。ああして丈夫に成長してあの可愛い女の子―シルヴィアと言ったでしょうか―と寄り添って生きていくのだろうと思うと、対照的に自分の頼りなさが不甲斐なく感じられました。
……ジェペス一族の話は、わたくしが生活するこの宮廷別館にもよく届いておりました。セルピエンテがルーカスの行く末に立ちはだかる大きな壁になることは重々見当がついていたのです。
このままではいけない。
危機感を抱いたわたくしは幼馴染で親友のアデラを呼び寄せ、知り合いの中で最も頭の切れる者を呼んでほしいと頼みました。アデラは最初懐疑的ではありましたが、学園での後輩であるロベルト・セールズという男を連れてきてくれました。
不思議な殿方でした。知っている情報をできる限り多く話すために、会う前から念入りに順序を組み立てておいたというのに、彼は一を聞いたら十を知るようにわたくしから情報を飲み込んでいき、全て話し終える前には瞑目して何かを思案しているようでした。ふと思考の波から顔を上げたセールズは、わたくしが願いを一つ叶えることを条件にセルピエンテ・ジェペスとそれに連なる「腐敗物」を一掃すると約束なさいました。
彼との面会から数日経つと、この国の勇者たるロメル様とアデラ、セールズが平民を一人連れて宮廷茶会で騒動を起こしたという噂を耳に入れました。すると今度はアデラがわたくしの護衛騎士を強請って参りました。なんでも、その茶会での騒動で稟議を通した"騎士団"の長にわたくしの護衛騎士の一人であるナバーロを抜擢したいと言うのです。普段アデラはこのように振る舞わないので理由を聞き出そうとしましたが、幼馴染ははぐらかすばかりで答えてはくれませんでした。きっとこれもロベルトの策略の一つなのだろう、とわたくしはアデラの言う通りにいたしました。
それから先は、さっぱり音沙汰がありませんでした。長く長く待って、やっと訪れた一報は"騎士団"がセルピエンテとその息子のファビアンを討ち取った、というものでした。
どんな本を読んでも感情の動かなかったわたくしは、この日の晩初めて興奮で眠れませんでした。自分の要請で人を殺したということ、政変とも言える動乱に自分も加わったこと、そして何より、まだ見たこともないこの寝室の外の世界での出来事にわたくしが干渉できた事実が、質量を持ってわたくしに伸し掛かって、その重量がなんとも言えぬほど嬉しかったのです。
戦の終わったその日の晩、セールズは突然一人でわたくしの部屋をお訪ねになりました。人払いを頼まれたので、護衛騎士と侍女を部屋に繋がる使用人待機室に移動させて話を聞きました。
まずこれは伝えなくては、とわたくしはまっすぐにセールズを見て言いました。
「依頼の通り遂行してくださったこと礼を言います、セールズ。わたくしはこのように自由のきかない身、あなたに見返りとしてできることは少ないでしょうが、最大限の誠意を以て願いを叶えましょう。」
彼は顔もあげず淡々と答えました。
「ならば、俺の戸籍の証明をしていただけませんか。」
「戸籍の証明、ですって?あなたはセールズ侯爵家の一人、戸籍は生まれたときに貴族院に所属されているのではないの?」
「いえ、公表されてはおりませんが俺は侯爵に拾われた子です。然るべき方法で記録を辿ってしまえば、15年前の夏突然侯爵に4歳の子どもができたことになっているはず。俺の戸籍はずっと王族からの印を押されていない状態で貴族院に保管されています。殿下に証明をお願いしたいのです。」
「……わかりました。弟に便宜を図り、貴方の忠誠にふさわしい返事に努めましょう。」
「ありがとうございます。」
後日、私はルーカスからの許可を得て貴族院書庫のセールズ侯爵家の戸籍を取り出させ、ロベルト・セールズがセールズ侯爵家の嫡男であることを証明する書類にわたくし自身の印を捺しました。実に、これがわたくしの初めての公務でした。
かくして、わたくしの小さないたずらは幕を閉じました。本の中でしか自由を得られなかったわたくしの日常は、この夏を境に少しずつその影響力を広げていこうとしていたのです。




