プロローグ
天神暦1897年10月中旬。
ファルナ商店街の東にある巨大な橋の先にある、暗黒街の繁華街【オレナ繁華街】
ここは十二ある古参組織すべてが利権争いに躍起になる一大繁華街であり、暗黒街に数ある繁華街でも一等栄えるだけあって、表向きは煌びやかに、裏では組織の掟に則った殺しと、組織同士の管理された抗争が日々繰り広げられる、血煙が絶えない物騒な場所だった。
その物騒な繁華街にある【クラブ・マイドレド】という屋号を掲げた一軒の接待飲食店。
ここは妙齢の美人ママ、アデリナ・マイドレドとホステス18名、男性スタッフ21名で切り盛りする、非常に落ち着いた内装と雰囲気を持った高級クラブである。
この店には立派なステージもあり、数々の歌姫を輩出した有名店でもあった。
半年前からは歴代歌姫の中でも最高の歌唱力と評される少女がステージに立つようになり、より賑やかに繁盛していた。
ところが――時刻は宵の口、普段であれば妖艶なアデリナと見目麗しい嬢、そして歌姫を目当ての客が詰めかけ賑わっているのだが、ここ最近はとある事情があって閑古鳥が鳴いていた。
その影響で店をたたみかねないほど客足は激減。
今現在、店にはアデリナ、歌姫、チーフマネージャー、チーフバーテンダー、ホステス1名、ウェイター1名だけというお寒い状態だった。
しかも、そのホステスは桜花、ウエイターはナッシュであった。
別段二人とも転職してここで働いている訳ではない。
すべては、とある事情――歌姫に付きまとう殺人鬼捕獲の為だった。
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ある日の秋口の昼下がり。
その依頼があったのは、店番をしているときだった。
そこにナッシュが現れ、挨拶もそこそこに本題を切り出した。
「桜花、頼みがある」
「……頼み、ですか」
桜花は眉根を曇らせた。
それは決して頼みに乗り気であったから、とかではない。
ナッシュの顔が苦虫を噛み潰したような表情だったからだ。
ナッシュという男は気持ちの良い快男児である、と桜花は認識している。
弱きを助け強きを挫く――それを地で行く男がナッシュだ。
それがゆえに、彼の元には多くの依頼が舞い込んでくる。
忍はタダ働きしない、などとうそぶき依頼料は必ず取っているようだが、それも依頼人によりけりで金のない相手だと気持ち程度の報酬で請け負うことも多い。
変幻自在の忍術を縦横無尽に駆使し、如何な困難であろうとも鮮やかに解決せしめる、古今東西並ぶ者のない凄腕忍者。
ぶん殴るかぶん投げるか絞め落とすことしか出来ない、泥臭い自分と比べればなんと華のある男か。
ヒーローとはまさにナッシュのような男を指すのだろう。
そのヒーローと認める男が、こんな顔をするなど初めてのことだった。
一体どんな局面に立たされているのか、と思案するのは当たり前といえた。
桜花の表情を見たナッシュは言葉を濁しながら話を続けた。
「今とある依頼を受けているんだが、どうにも俺だけじゃ対処できない案件でな。協力者が必要なんだ。だから、」
「みなまで言わないでください」
桜花は途中で言葉を遮った。
曇っていた表情を消すと、にっこりと微笑んだ。
「ナッシュの頼みとあれば否はありません。喜んで協力しましょう」
今まで散々頼り頼られてきた仲だ。
ナッシュとの間にはそれなり以上の信頼関係を築き、今では困ったときは真っ先に頼る相棒と呼べる間柄であると自負している。
その相手がここまで困っているのに協力を断るなど、選択肢にもならない。
それにナッシュは協力とも言えない些細な手助けであったとしても、絶対に心付けを忘れない律儀な男で、そういった誠実なところも無条件で協力したくなる理由の一つだった。
「あー……その、即断してくれるのは有難いが、一応、依頼内容を聞いてからでも」
「水臭いことを言わないでください。それにそれだけ言葉を濁すということは相当な難事なのでしょう?」
「まぁ、俺一人じゃどうにもならない、かな」
「であるならば、一々依頼内容を聞いてから判断など無粋です。それに『協力する』と口に出しているのです。武人が一度吐いた言葉を翻すなど言語道断ですよ」
ナッシュは内心でうなり、まずは最初に依頼内容を言ってから協力を仰ぐべきだったな、と後悔した。
桜花の嗜好はまさに武人のそれで、協力すると言った以上、何が何でも協力するだろう――それがどんな内容であっても。
こうなれば覚悟するしかない。
結果として桜花にぶん殴られても。
桜花に殴られたら痛いじゃ済まないんだよなぁ……と戦々恐々としながらナッシュは口を開いた。
「なら桜花……その依頼内容なんだが」
「はい」
「ホステスになってくれ」
「……はい?」
桜花は思わず間抜けな声を出した。
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アデリナ・マイドレドは、まだ小娘と呼べる時分からその美貌をもって暗黒街有数の権力者を何人も手玉に取り、しかしそれでいて大きなトラブルに発展させることなく男の権力に付随する金とコネを着実に手に入れ、二十になる頃には暗黒街の一等地に店を構えるまでに至った成功者である。
女手一つ、それも20才になったばかりの若さで悪徳が渦巻く欲望の街で、一等地に店を構えることは並大抵のことではない。
それを可能としたのが、飛び抜けたバランス感覚にあった。
生来の気性である情け深さと、環境がゆえに骨身に沁み込んでしまった残酷さ。
この相反する感情を破綻することなく巧みに操り、どんな男でも篭絡する才能がアデリナにあった。
逆に言えば、それだけの才覚がなければ、女手一つで暗黒街にある繁華街で一等地に店を構えることなど不可能とも言えた。
そんな酸いも甘いも噛み分け並大抵のことでは動じない彼女なのだが、今現在、人生でも三本の指に入るほどの事態に頭を抱えていた。
先日14才になったばかりの年若い歌姫アニーに起因した大事件である。
アニーは天に愛された美声の持ち主で、その性格は暗黒街の生まれとは思えないほど前向きで明るく、まさに天真爛漫な少女である。
そんな悪徳の街では稀有な為人をする彼女だからこそ、天使と呼び崇拝する熱狂的なファンも多く、それがゆえにファンがトラブルを招くことも多かった。
――偶像崇拝するのではなく手籠めにしようとしたファンを、熱意が行き過ぎたファンが殺した。
この事件とはつまるところ、ファン同士の行き過ぎたトラブル、そういうことだった。
正直これだけなら、たいしたことではない。
ここは暗黒街、オレナ繁華街でなくとも殺人事件など日常茶飯事。
裏道では雨の後の筍のように死体が転がっているような街なのだから。
問題はその殺されたファンが、古参組織ガルパニータの大頭領ヴァニア・ガルパニータの息子ランブル・ガルパニータであったことだ。
しかも嬲るように全身めった切り、ご丁寧に『天使を汚そうとする者は誰であろうと殺す』というメモを釘で額に打ち付けてアデリナの店の前に打ち捨てるという、目を負う残虐さで喧嘩を売るというのも問題に拍車をかけていた。
ガルパニータはこの繁華街の北区一帯を支配する強大な組織だ。
そのボスの息子が無残に殺されたとあっては、古参に連なる組織の名に懸けて、この世に生まれたことを後悔する残虐な方法で、犯人を血祭りにあげなければならない。
表道では決して見ることはない凶悪な、それでいて優秀な裏方専門の構成員が総動員された。
この時点で、事情を知る誰もがこう思った。
『古参組織を本気にさせた犯人は遠からず捕らえられ地獄を見るだろう』と。
だがその予想に反して、一週間が経ち、二週間が経ち……一か月が経っても犯人は捕まらなかった。
それどころか、第二の犠牲者が出た。
犠牲者は、東区を支配する古参組織マリアゴランの大幹部ウェディー・バッシュの息子マニオ・バッシュといい――彼もまた天使ファンであった。
この男もアニーを手籠めにしようとしていたらしく、その為に嬲るようにめった刺しにされ殺された。
そしてその死体には、当然のように額にメモが釘で打ち込まれていた。
『こいつも天使を汚そうとした屑野郎だ。だから殺した。この街には殺さなければならない屑が多すぎる。俺は殺すぞ。まだ殺すぞ。天使の歌声を汚す全員を殺す。ああ、だから天使よ、その天上の歌声を曇らせないで。ゴミどもを遍く殺し尽して貴方に安寧を送るから。それが叶うまで貴方から絶対に離れないから。離れないから。離れないから。永遠に』
狂気。
最初とは違い、饒舌に綴られたメモの内容はその一語に尽きた。
しかも犠牲者はこれで終わらなかった。
これ以降、三日に一度の頻度で殺して回ったのである。
しかも恐ろしいことに、オレナ繁華街を現在支配する四つの古参組織――
北区を縄張りとするガルパニータ。
東区を縄張りとするマリアゴラン。
西区を縄張りとするルドイフ。
南区を縄張りとするバッジョーネ。
この四つの縄張り、つまり繁華街全域で犠牲者が出たのだ。
具体的な犠牲者は……
北区、大頭領の息子ランブルに、大幹部の息子二人、構成員四人、会計士一人。
東区、マリアゴランの大幹部の息子マニオに、構成員二人。
西区、ルドイフの構成員三人。
南区、バッジョーネの幹部の息子一人に、構成員五人に、事務員一人。
さらに暗黒街以外の、所謂堅気と呼ばれる人も一人。
多い時には一度に三人も殺し、そのどれもが額にメモ付きだった。
そのメモの内容は何時しか天使を崇拝する内容のみに変化する。
『天使の歌声を愛せよ。されば殺されん』
内容の最後はこう締めくくる犯人は、犠牲者が五人を超えたあたりからこう呼ばれるようになっていた。
天使の殺人鬼、と。
そして三か月が経つが未だに殺人鬼は捕えられていない。
さすがにターゲットが少なくなってきたのか、犠牲者はここ一週間出ていない。
しかし、古参組織のメンツは地に落ちた。
そこでにわかに現実味を帯びてき出したのが、アニーを囮に殺人鬼をおびき寄せる、という計画である。
それは当初から考えられていたが、誰も実行に移さなかった案だった。
何故ならば、最初の犠牲者が出た段階でアデリナがその案を口にして、『そのようなことは絶対に認めない』と宣言していたからだ。
アデリナが懇意にしている権力者の中には大頭領まで上り詰めた猛者も多くいる。そんな特権階級を数多く魅了し、さらには誰に対しても色恋に似て非なる絶妙な関係性を築き上げる手腕を持つ彼女である。
彼女の宣言は、そこいらの権力者では及びもしない力があった。
だがそれでも、押しとどめられない状況になりつつある。
古参組織は総力を挙げて事件のかん口令を布いていたが、噂を止めることなどできない。
今やオレナ繁華街を訪れる客は、まったく事情を知らないか、相当な物好き以外いなくなっている。
ほんの数か月前まで煌びやかであった街並みは随分と閑散としたものに変貌した。
組織の屋台骨に響きかねない深刻な事態に、手段など選んではいられない状況になってきていた。
天涯孤独のアデリナにとって、店のスタッフは皆家族のようなものだ。
愛すべき家族を、誰も危険な目に遭わせる訳にはいかない。
特にアニーとの出会いは、他の子たちとは一線を画した、今思い出しても笑みが浮かぶ中々愉快なものだった。
アニーはこの暗黒街では腐るほどいる浮浪児の一人で、出会った当時は栄養の足りていない頬のこけた小汚い格好をした小娘でしかなく、普通であればアデリナの高級クラブで働くような人種ではなかった。
だが縁は異なもの味なもの、とはよく言ったものだ。
アニーが店の裏にあるゴミ箱の残飯を漁っているとき口ずさんだ鼻歌を、裏でタバコを吹かしていたウエイターが偶々聞いて、それをチーフマネージャーが小耳にはさんで、翌日にまたゴミ箱を漁っているところをスカウトされ即日採用となったのだから、本当に人生とは面白い。
当時12才、今では栄養が足りたおかげで健康的で愛らしい顔立ちに育ち、アデリナの店をより盛り立てる立派な歌姫に成長していた。
アニーはいずれこの薄汚れた街から羽ばたき、陽の当たる所で喝采を浴びる娘だ。
それだけの才能が、愛嬌が、あるのだ。
殺人鬼を誘い出し殺す為なら、組織はどのような手段であっても――それこそアニーを延々と痛めつけて見せつけるぐらい平気で行うだろう。
ともすれば、おびき寄せたところを、アニーごと吹き飛ばすくらいやりかねない。
それだけ、古参組織たちは焦っているのだ。
このままメンツが潰されたままでは、遠からずこの繁華街から撤退を余儀なくされる、と。
冗談ではなかった。
こんなくだらない、屑同士の殺し合いに巻き込まれ、潰されて良い娘ではない。
だからこそ思い悩む。
どうすればいいのか――もう時間が――
すでに客もスタッフも誰もいない明け方の店のカウンターで――もっとも殺人鬼の影響で終日閑古鳥が鳴いていたが――片手に琥珀色の蒸留酒を持ち、もう片手で目頭を押さえながら懊悩色濃いため息を吐いていると。
その時ふと、恩師の言葉が蘇った。
『アデリナ。お前さんは私がいくら説得しても暗黒街で生きることを辞めない困った我儘娘だ。それだけの才覚があるのだから陽の当るところで生きればいいものを。だからそんな我儘娘には飛び切りのお節介をすることにするよ。どうやっても、どうにもならい。それくらい困ったことが起こったら、その懐中時計の裏のフタを開けてごらん。そこに全てを解決できるとっておきを入れておいたから』
この世界で誰よりも愛し、諦め、でも諦めきれずに時折合いに行く、最愛の恩師。
アデリナは導かれたかのように、淀みなく動いた。
女性が持つには些か不釣り合いな、男物の大きな懐中時計をバッグから取り出すと、カウンターの上に置いた。常に持ち歩きとても大切に使っていたそれに、護身用の小ぶりのナイフを向ける。そこに躊躇はなく、切っ先を裏ブタの当てると一気にこじ開けた。
そこには小さく折りたたまれたメモが入れられていた。
アデリナはそれをそっと開く。
そこには、こう書かれていた。
『大都市ガロナ東端ファラン商店街オルマール通りガーヴァン古書店。その店の主ガーヴァンに秘密の合言葉を言いなさい。<笑う門には福来る。地獄の沙汰も笑え>』