第8話 学園祭の終わり
陸上部の体力測定コーナーはあまり流行っておらず、暇を持て余した五人ほどの女子陸上部員が、座っておしゃべりしていた。その中に楓の姿もあった。
「あれ、ひかりじゃない?」
体育館の入り口に姿を見せたひかりに、気付いた部員の一人が声を上げた。
入り口に背を向けておしゃべりをしていた楓は、振り返って声を掛ける。
「あ、ほんとだ。ひかりー!」
楓はひかりに手を振った。
ひかりも楓に手を振り返す。
「あの後ろにいる人誰だっけ?」
部員の一人が、ひかりの後ろで小さくなってついてくる男子生徒に気付くと、他の部員もザワザワと騒ぎ出した。
「高木君だ」
堂々と姿を見せたひかりとは対照的な誠司のこじんまりした姿に、楓はうふふと含み笑いをした。
「あんたたち知らないのよね」
楓はこれから起こることを想像してニヤニヤしだした。
その口ぶりに興味をそそられ、二年の女子部員が詳しく話を聞こうと身を乗り出す。
「楓先輩知ってるんですか?」
「まあ見てなさいよ。すぐに分かるって」
楓は多くを語らずその場から立ち上がると、ひかりと誠司を迎え入れた。
「楓もいたんだ」
楓たちと合流したひかりは、少しだけ緊張しているように見えた。
楓はひかりの耳元でニヤニヤしながら囁く。
「高木君も一緒だなんて、ひかりもやるわね」
「もう、からかわないで」
わくわくしている様子の楓に、ひかりは少し頬を染める。
「ひかり先輩お疲れ様です」
「うん、みんなお疲れ様」
三人いた後輩が立ち上がってひかりに挨拶する。しかし三人の視線は後ろで小さくなっている誠司に向けられたままだ。
突き刺さる好奇の視線を感じて、どうやら誠司はおじけづいている。
「あの、ひかり先輩、その後ろの方は?」
我慢できない好奇心をむき出しにして、後輩の女子が訊いてきた。
突き刺さる視線を一身に受け、さらに緊張が高まった誠司の顔が猛烈にこわばる。
ひかりはそんな誠司の横にスッと並んで、頬をほんのりと紅く染めた。
「あの、みんな、聞いて下さい。こちら高木さん。私の彼です」
ひかりは照れながらも堂々と誠司を皆に紹介した。
誠司はいきなり紹介されて、ガチガチのまま猛烈に赤面している。
「ひかり、いつのまに!」
同級生の女の子は男子生徒を連れて現れたひかりに、ストレートに打ち明けられ仰天しているみたいだった。
「あ、あの、高木誠司です。皆さんよろしくお願いします」
ガチガチの誠司はひかりの十倍くらい恥ずかしそうに頭を下げた。
「古賀明美と言います。高木さんってあの大賞を取った絵の人ですよね」
古賀明美と自己紹介した3年生の女の子は、誠司のことを知っていた。
二年生の三人も、あの絵を描いた人なんだと小声で話し始めた。
「楓は知ってたんでしょ。内緒にしていたなんてずるいよ」
やや不満げに明美は口を尖らせた。
「へへへ、私はひかりと一心同体みたいなもんだからね。何でも知ってるのよ」
腕を組んでフフンと鼻を鳴らす楓は、どう見てもちょっと自慢げだった。
古賀明美と名乗った女生徒は、優越感を見せつける楓にさらに不満顔を見せた。
「明美、私達ほんと最近お付き合いし始めたばかりなの。これでも最速で報告してるんだよ」
ひかりは頬を染めながら、憮然としたままの明美に、困った様な顔をした。
「ずっと想い続けてやっと実ったの」
いじらしくそう口にしたひかりは、恥ずかしそうでもあり嬉しそうでもあった。
「そんな……ずっと思い続けていたのは俺の方だよ」
周りをはばからず咄嗟にそう返した誠司に、その場の全員が赤くなった。
並んで立ち尽くしている二人から、ときめきと恥じらいが半端なくあふれ出している。目には見えないが、そこだけピンク色の霧に覆われているかのようだった。
「両思いだったってことは分かりました……」
なんだか居心地悪げな明美だった。
二年生三人も目のやり場に困っている。
「いつもこんなんなのよ。この二人」
楓はすぐにラブシーンモードになる二人を何度も見ていたので、少しは慣れていた。
明美はアツアツの二人にやれやれといった顔をして見せた。
「高木君、ひかりのこと大事にしてあげてね」
「あ、はい。勿論」
明美は本当に仲良さげな二人を見て安心したみたいだ。
「いいなー先輩」
二年の三人が口を揃える。
「私なんかこの間、一年の時から想い続けてた男子にフラれたのに両思いだなんて羨ましすぎるわ」
「私は告白なんてする勇気無いわ。絶対フラれそうだし」
「高木先輩ってひかり先輩とどうやってくっついたんですか?」
「それは私が詳しく教えてあげる」
楓は好奇心旺盛な二年の三人に、早速解説しようとした。
「やめて!」
ひかりは何もかもペラペラしゃべってしまいそうな楓を慌てて制止した。
「へへへ、駄目だって」
話を聴けると思っていた後輩たちは、えー、と残念そうな声を上げた。
「でも、あのひかり先輩の心を射止めるとは、高木先輩ってすごい人なんだ」
「そうだよね。あんなにいっぱい告られて全部断り続けてきたひかり先輩が想い続けていたなんて。累々たるフラれた男子には無い魅力があるんだわ」
「でも周知徹底しとかないと、ひかり先輩を諦めてない連中がいっぱいいるらしいし」
それを聞いた誠司は急に不安そうになった。
深刻そうな表情の誠司に気付いて、ひかりは焦りだした。
「もう、変なこと言わないで、そんなことナイナイ。みんなあなたたちの勘違いよ」
「そうよ、あんたたちいい加減なこと言って高木君を心配させたら駄目じゃない」
楓もひかりに続いて、やや落ち込んでいる様子の誠司を心配した。
「えー、だって楓先輩がこの前言ってたからてっきりそうだと思ってたのに」
「そうそう、両手の指でも数えられないって聞いたよね。あ、両手両足だったかな」
「ワーッ! タンマ、タンマ! その話はそこまでにしとこうよ」
楓はさらに何か言いたげな後輩たちに割って入った。
それを聞いて、ひかりはあなたが原因なのねと楓に詰め寄った。
以前からひかりは誠司の耳に入れたくなくて、そういう話はしないでねと釘を刺していたのだった。
「さあ、そろそろ教室に戻ろうかな……」
楓は後ずさりながら手を振った。
その手をひかりは掴む。
「楓ちょっといいかな。私訊きたいことあるんだ」
言い表せぬひかりの圧力を感じ、楓は泣きそうな顔をしたのだった。
ひかりが楓を隅っこに連れて行って叱った後、戻ってくると誠司はまだ二年生たちに囲まれていた。
仲睦まじい二人に安心した明美は、先に教室へ戻っていったので、もうここにはいなかった。
女子部員に囲まれ何やら質問攻めにされている誠司を見て、ひかりはなんだかもやもやした気分になっていた。
赤面しながらたどたどしく質問に答えていた誠司と後輩たちの間に、ひかりは割って入った。
「じゃあみんな、後のことお願いしとくね」
そう言ってひかりは誠司の腕を取って女子の輪から連れ出した。
軽く嫉妬してしまった気持ちを抑えつつ、歩きながら気になって誠司の横顔を見る。
「誠司君ごめんね。なんかまた楓が余計なこと言って」
「いや、いいんだ。ひかりちゃんがモテることなんて分かってたことだから……」
口ではそう言いつつも、誠司はやや落ち込んでいるように見えた。
「心配なんかしなくていいんだよ。ほんとだよ」
ひかりは安心して欲しくて誠司の手を自分から握った。
誠司の気持ちはひかりにも良く分かった。
今さっきも後輩の女子三人に囲まれていただけで、もやもやした身持ちになってしまったのだから、何度も告白されたと聞かされたら、自分だったら胸が締め付けられてしまうと思うのだった。
平静を装うそぶりを見せる誠司の姿は、余計にひかりの眼には動揺しているように見えた。
「ホントもう大丈夫だから。俺のことは気にしないで」
誠司のそんな気遣いにひかりの胸はまたキュンとなる。
今すぐ抱きしめたくなる衝動を抑えるのは今日何度目だろう。
ひかりは大好きな横顔をただ見つめてしまう。
「夢みたい……」
溢れ出た気持ちを言葉にしてしまいひかりは頬を染めた。
誠司は恥じらいを見せるひかりの言葉に、同じように紅くなる。
「うん。本当に夢みたいだ」
大勢の生徒が行きかう廊下に、二人にとって特別な時間がゆっくりと流れていた。
日が落ちて、学園祭恒例のキャンプファイヤーがグラウンドで行われていた。
「誠ちゃん。こっちこっち!」
勇磨が誠司を見つけて、よく通る声で呼んだ。
誠司はひかりと手をつなぎ、人をかき分けて勇磨と合流する。
「どうだった? 二人でだいぶ周れたか?」
そう言う勇磨の隣には楓の姿もあった。
「橘さん、勇磨と一緒だったんだ」
少し意外だったので、思わず誠司は口に出してしまっていた。
「へへへ、さっきひかりに叱られちゃって、へこんでたら新にどうしたんだって声かけられちゃって」
勇磨と楓はなんとなく恥ずかしそうに目を合わせた。
「高木君さっきはごめんね。なんか色々余計なこと言っちゃった」
「いいよ。俺のほうこそ、これしきで動揺してしまって恥ずかしいよ」
何となくちょっと申し訳なさそうな誠司の隣で、ひかりはまだ少し膨れていた。
「もう、これからはあんまりかき回さないでね」
ひかりは楓に念を押した。
「わかってるって、ひかりは高木君のことになるとすぐムキになるんだから、私こう見えて二人のこと一番応援してるんだよ」
「うん。それは分かってるんだけど。お願いね」
ひかりはもう一度念を押した。
「なんだ橘、お前またやらかしたのか?」
「あんたには関係ないの!」
勇磨のひと言に、気に障ったのか楓は即座に言い返した。
「またってなによ。人をやらかし犯みたいに言って、失礼しちゃうわ」
「だって、そうだろうが……」
ぼそりとそう口にした勇磨の声は、幸いにも楓に聞こえていないみたいだ。
「ねえ、すごくない?」
楓は炎の勢いが上がった火柱を指さした。
「ああ、見応えあるな」
勇磨と楓は高く昇る火柱に見とれる。
ひかりも誠司の隣でその高さに圧倒されている。
「ほんと、すごい高さね。こんなに離れてるのに結構熱いし」
「本当だね。毎年見てるけどやっぱりすごいや」
炎に照らされ、オレンジ色に色づいたひかりの横顔を、誠司はじっと見つめる。
その視線の先で、ひかりが小さく口を開いた。
「今年で見納めなんだね」
そう呟くと、少し寂しそうに目を細めた。
「そうだね」
誠司は繋いだひかりの手を握りなおす。
「こんなに綺麗だったんだ」
感慨深げに誠司が口にした言葉に、ひかりは頷いて応える。
「とっても綺麗」
ひかりは誠司の肩にそっともたれかかる。
ふわりと香った爽やかな夏蜜柑の匂い。
二人は言葉もなく同じ景色を眺める。
もう二度とやってこない高校三年生の、秋のフィナーレだった。