第7話 学園祭二日目
学園祭二日目。
誠司とひかりは自分たちのクラスの仕事を終えて、残りの自由時間を楽しんでいた。
各クラスの出しものとは別に、部活ごとの出しものも普段活動している教室で催されていた。
ひかりを連れて美術室に顔を出した誠司は、当然ながら早速後輩に捉まった。
「高木先輩だ」
三人いた女生徒の一人が教室に顔を出した誠司に気付き、明るい声で挨拶をした。
他の二人の女生徒も、お疲れ様ですと誠司に声をかける。
「お疲れ様。がんばってるね」
やがてそのうちの一人が、誠司の後ろにいるひかりに気付いた。
「高木先輩、後ろの人もしかして時任先輩じゃないですか?」
「そ、そうだけど」
少し誠司は硬くなって応えた。
「やっぱりそうだ」
女生徒たちは後ろにいたひかりに興味津々だ。
「どうぞ中へ入ってください。時任先輩」
招かれるまま少し照れたような顔で、ひかりは教室に入ってきた。
美術室に花が咲いたのかと思えるほど、ひかりは今日も少女漫画のヒロインだった。
「可愛い……」
三人ともその美貌を間近で見て呆然としている。
「時任ひかりです。あの、展示見せてもらいにきました」
ひかりが挨拶すると、その場にいた三人は、誠司とひかりを奥へと案内した。
ごゆっくりと言い残して引っ込んだ三人だったが、誠司はなんとなく纏わりつくような視線を感じていた。
展示してある絵画を二人で鑑賞しながら、誠司はひかりに絵に関する説明をしていく。
そして誠司が描いた、あの光を纏う少女の絵が展示されているのを目にして、ひかりは胸に手を当てたまま目頭を熱くさせた。
吸い込まれるかのようにキャンバスを見つめるひかりに、誠司は優しく声を掛ける。
「本当は隠しておきたかったんだけど、島田先生に展示しろって言われてね……」
ひかりはその美しい絵画に心を奪われたまま、大きく深い息を吐いた。
「本当に素敵な絵。きっと島田先生、この絵をみんなに見せたいと思ったんだね」
しばらくすると、じっと絵を見つめていたひかりのもとに、先ほどの女生徒たちが何やら言いたげに集まってきた。
「あのー、時任先輩って、この絵のモデルですよね」
女生徒の一人がひかりの横顔を窺いつつ、そう口にした。
ひかりは頬を少し紅くして答えにくそうに誠司の顔を見る。
誠司も同じようにどう答えようかと照れ笑いを浮かべる。
「気付いてたんだ。実はそうなんだ」
「きゃー、やっぱり!」
三人の女生徒は、期待していたとおりの返答に大いに盛り上がった。
「だから時任先輩しかいないって私言ったじゃない」
「私もそう思ってた」
「実物をこんな近くで見れるなんて感激だわ」
口々に興奮気味に話す三人に、誠司とひかりは居心地悪そうに苦笑した。
「あの……先輩の絵、今日初めて御覧になられた訳じゃないですよね」
「あ、はい……」
尋ねられて、ひかりは恥ずかしそうに応える。
「この絵って誰が見ても、その……」
話をしている女生徒だけではなく、他の二人もなんだか紅くなっている。
「時任先輩のこと、その……意識してるっていうか、気があるっていうかそういう風に見えるんですけど……」
誠司とひかりは、ズバリ切り込まれて頬を紅潮させた。
「やっぱり」
何も応えなくとも三人はもう気付いていたようだった。
「ここへ二人で来たってことは、先輩たちはお付き合いされてるってことですか?」
もう女生徒たちの関心はそれしかないようだった。
ジリジリと迫ってくるその得も言われぬ圧力に、誠司は生唾を飲み込み後ずさる。
三人の女生徒はその分かり易い先輩のうろたえっぷりに、悪魔的な好奇心をむき出しにしてさらに迫った。
「いい加減、吐いて楽になって下さいよ。先輩」
ここで何とかやり過ごそうとしていた誠司の、脆すぎる忍耐力が限界を超えた。
「行こうひかりちゃん」
誠司はもじもじと棒立ちになっているひかりの手を取って、教室を逃げ出した。
「先輩が逃げた!」
「やっぱり付き合ってるんだ!」
盛り上がっている声を背中に、誠司とひかりは足早に教室を後にした。
「ごめんね。あの子たち、ああいう話題が大好きなんだ」
階段の踊り場で一息ついた後、誠司は苦笑いしながら頬を染めたままのひかりの様子を気遣った。
「誠司君とお付き合いしてるの事実だし、私は大丈夫。かなりドキドキしてるけど」
胸に手を当て呼吸を整えるしぐさに、誠司はまたくらくらしてしまう。
「ごめんね。俺の方がうろたえちゃって、なんかひかりちゃんに俺なんかつり合ってないっていうか……」
「そんなことない!」
ひかりの口から思いがけず強い口調で言葉が飛び出した。
「あ、ごめんなさい。大きな声出して。でもそんな風に言って欲しくないの。だって、誠司君は私にとって勿体ないくらいの素敵な人なの。あなたと一緒にいられて、どれだけいつも嬉しくて幸せか誠司君に分かって欲しいの」
「ひかりちゃん……」
ひかりの気持ちがこもった言葉とその可憐さに、胸がどきどきして誠司はまともに立っていられない程だった。
「ごめん。もう言わないよ。でもやっぱり後輩たちに弄られると恥ずかしいね」
そう言って誠司はまた照れ笑いを浮かべる。でも本当は弄られることよりも、うろたえて逃げ出してしまった自分を恥ずかしいと感じてしまっていた。
「うふふ、きっと次また部活に行ったらあの子たちに捉まっちゃうね」
ひかりも同じように恥ずかし気な笑顔を浮かべた。
「うん、覚悟しとくよ」
きっとひかりの言うとおり、次に部活に顔を出した時には質問攻めなんだろうなと誠司は覚悟をしておこうと思った。
「ねえ、体育館でやってる陸上部の出し物も一緒に来てくれないかな……」
ひかりは誠司がそうしてくれたように自分の部活に誘った。
「いいのかな……」
誠司にとってひかりの誘いは嬉しかった。だが陸上部内でひかりが皆にどう思われてしまうのか気になって判然と返事を返すのを躊躇った。
「来てほしいの。そしてみんなに紹介したいの。私の誠司君を」
ひかりは頬を染めて誠司の手を握った。
「お願い……」
駄目だ。可愛すぎる……。
ひかりの真っ直ぐな可愛らしい目で見つめられて、誠司は、はいと言う選択肢しか選べなかったのだった。
誠司はひかりに手を引かれて、陸上部がちょっとした体力測定を催している体育館に向かっていた。
そんな二人は途中、男女四人のグループとすれ違った。
そして突然、後ろからひかりは呼び止められた。
「ひかり、待ってくれ」
振り返るとそこに梶原が立っていた。あとの三人は梶原の連れのようだ。
誠司が梶原の顔を見るのはあのバスケの試合の後に謝罪を受けて以来だった。
梶原はひかりと手をつなぐ誠司を見て苦々しげな顔をした。
「ひかり、まだそんな奴にかまってるのか」
梶原は周りに苦手意識の有る勇磨がいないことを確認したあと、腹立たしさを隠さず吐き捨てた。
ひかりは誠司の手をぎゅっと握ると、誠司をかばうように少し前に出た。
「何の用?」
ひかりはあきらかに機嫌の悪そうな態度を取った。その雰囲気はいつもの穏やかなひかりではなかった。
交流戦の時に梶原が誠司にしたことを、ひかりは楓から何もかも聞いていたのだった。
「俺言ったよな、いい加減ひかりを解放してやれって」
梶原は明らかにイライラしていた。
誠司はそんな梶原を冷ややかな目で見つめる。
「なあ、ひかり、そいつの魂胆分からないのか? そいつは怪我にかこつけてお前に取り入ってるだけなんだぞ」
ひかりの表情が変わった。
誠司が知る限り、こんなにはばからず怒りを見せたひかりは見たこともなかった。
「なんにも分かってない癖に分かったような口を利かないで!」
ひかりの口調は激しかった。
「あなたと話なんかしたくない。行きましょう誠司君」
ひかりはそう言い放つと梶原に背を向けた。
「待てよ!」
梶原はひかりの肩を掴もうとした。
その腕を誠司は簡単に払いのけた。
「彼女に触るな」
誠司の眼からはいつもの穏やかさが消えていた。そして普段見せることのない獲物を狙うような光をひそめた眼に変わっていた。
梶原はその変化に恐れを感じたのか、そのまま手を引っ込めた。
「お、おまえ……」
ひかりも怒りを秘めた冷たい目を梶原に向ける。
「ひかり、いい加減気付けよ。お前の同情を買おうとしてるそいつの手口なんだよ」
ひかりはもう梶原の話を聞こうともせず、誠司の手を引いてこの場を立ち去ろうとした。
そして梶原はひかりの前で絶対に言ってはいけない言葉を口にした。
「おまえ、もう治ってるのにまだ手が使えないふりをしてるんじゃねえよ!」
ひかりは振り向いた。
そして激しく甲高い音が廊下に響いた。
ひかりの手は躊躇いもなく梶原の頬を思い切りひっぱたいていた。
何が起こったのか理解できない様子で、梶原は頬を押さえて呆然としている。
ひかりの目に涙が浮かぶ。
誠司はひかりのその激しさを驚いた表情で見つめていた。
「誠司君のことを悪く言うのを私は許さない」
ひかりは両の拳を力いっぱい握りしめ、流れ出そうとする涙をこらえる。
「私は誠司君のためだったら何度だってあなたの頬を叩く覚悟があるの」
怒りに肩を震わせながらひかりはきつく言い放った。
「もう私たちに近づかないで頂戴」
ひかりはまた誠司の手を握る。
そして梶原を殆ど見もしないで口を開いた。
「それともう私の名前を気やすく呼ばないで。私がそう呼んで欲しいのは誠司君だけだから」
そう言い残すと、ひかりは誠司の手を引くように梶原を置いて去っていった。
言葉もなく頬を抑えて立ちすくむ梶原の眼には涙が浮かんでいた。
ひかりの興奮が治まるまで、二人は島田の昼寝ベンチに並んで座っていた。
「ごめんなさい……」
ひかりの沈んだ声は、胸の内の痛みをそのまま吐き出したかのようだった。
「また私のせいで誠司君を傷つけてしまって……」
胸に手を当て、ひかりはとうとう涙を流した。
「なんにも気にしてないよ。お願いだから泣かないで」
誠司の声は穏やかで優しかった。
「おれはあいつの言葉では傷ついたりしないよ。おれ意外とタフなんだ」
誠司は普段と変わらない笑顔を見せた。
落ち着いたその声に、ひかりは少し胸が軽くなったのか小さく頷いた。
「もし俺が傷つくとしたら、ひかりちゃんに何かあったときだけだよ」
誠司はひかりの手をしっかりと握った。
「俺のことでさっき君があんなに怒ってしまったように、俺も君のことを誰かに傷つけられたりしたら絶対に冷静でいられなくなると思う。でもそんなこと想像もしたくないよ。君がいつも笑っていてくれるのが一番の願いなんだ」
誠司はひかりの髪をもう動かなくなった指でなぞる。
ひかりはまだ涙を流している。
「もう泣かないで」
穏やかな声にひかりの表情が和らぐ。
ひかりは誠司の肩に頭をもたせかける。
「違うの」
ひかりはまだ泣いている。
「誠司君がそんなこと言うから涙が止まらなくなっちゃったの。誠司君のせいだからね……」
ひかりはとても幸せそうな表情で、胸の中から溢れる感情を言葉にした。
「このベンチ思いだすね」
誠司は初めてひかりにお弁当を作ってもらった時のことを思い出していた。
「うん。なんだか恥ずかしい」
ひかりは誠司の肩にそのまま寄り添う。
「あのときひかりちゃんの箸で食べさせてもらった時、正直言うとおれ心臓が止まりそうだったんだ」
誠司は思いだして頬を染めた。
「私もとっさにあんなことしちゃって、それを島田先生に見られてもう恥ずかしくって……」
ひかりも思いだして頬を紅潮させる。
誠司はまたその可憐さにやられてしまいそうになる。
「俺も、まさかあそこに先生が登場するとは思ってなくて、もう頭が真っ白になってさ、それとあの時の先生の顔がおかしくって」
「うふふ……そうだったね。私も先生のあの時の顔、忘れられないよ」
「はははは」
二人は花壇に目を向けて、今そこにうろたえきった島田がいるかの様に、声を出して笑った。
そしてひかりは誠司の肩に頭をもたせかけたまま、懐かし気に目を細めた。
「こうしていると、なんだかまた先生がここに現われそう」
「そうだね。それできっとこう言うんだろうな。俺の神聖な昼寝ベンチでいちゃつくなって」
誠司がそう言うと、ひかりはこらえるようにくすくす笑った。
「でもあの時、先生に見られて良かった」
あの日二人で見た目の前の花壇。
咲き誇っていた花たちもこの時期にはもう無くなっていた。
それでも二人の目には、あの日見たあの鮮やかな光景が映っているのだろう。
「だって今、美術室でお弁当食べれてるの島田先生のおかげだもんね」
ひかりのはじけるような笑顔。誠司は愛おしくてじっと見つめてしまう。
「そうだね」
そして誠司の胸はいっぱいになる。
「さあ行こう。高校最後の学園祭、全部周ろうよ」
誠司はひかりの手を握ったまま立ち上がり、明るい笑顔を見せた。
「うん。陸上部だね」
続いてひかりも立ち上がる。
校舎の窓から賑わう生徒たちの声が聞こえてくる。
また胸を躍らせるように笑顔を見せたひかりに、誠司は嬉しくなって小走りにその手を引くのだった。