第10話 ひかりの嫉妬
トントントン。
ノックの音。
「誠司、今いいか?」
誠司の父、信一郎の声がして、誠司は立ち上がってドアを開けた。
「何? 父さん?」
誠司はそのまま廊下で何やら父親と話し込む。
ひかりは何の話かと気になって、ちょっと落ち着かない感じになった。
「誠司君、どうしたのかな?」
そのうちに誠司が戻って来た。
誠司はひかりの横にまた腰を下ろして、先ほどの父との話を説明した。
「父さんが道場生にあの料理を出したら、みんな大喜びしてたって」
「そうなんだ。良かった」
ひかりは道場生に評判が良かったことを素直に喜んだ。
「それでみんなひと言お礼が言いたいって。良かったら道場に顔を見せてくれないかって言われちゃってさ」
誠司の話に楓は真っ先にのって来た。
「えー、私ちょっと道場も見てみたい。お父様ともお話ししたいし」
伝説の話を聞いたせいか、楓はノリノリだった。
しかし勇磨は反対に顔色を急に悪くして小さくなった。
「お、俺は行かない。前にひどい目にあってるからな」
「なによ、あんた逃げ出す気? それでも男なの?」
楓ははっぱをかけた。それでも勇磨は行かないぞと固い決心を見せた。
勇磨は置いておいて、誠司は一番気になるひかりの様子を窺う。
「ひかりちゃんはどう?」
「うん。私、ご挨拶したい」
尻込みしているのは勇磨だけだった。
結局、嫌がる勇磨を強制的に連れて、誠司たちは道場に入った。
誠司に続いて入ってきたひかりを目にして、そこにいた道着姿の十人ほどの男たちは、呆気にとられた顔をしていた。
誰もが汗臭い道場に不釣り合いなその可憐な姿に、魅了されたのだった。
「さあ、こちらにどうぞ」
信一郎が道場の前の方に四人を手招きした。
そして誠司はひかりたち三人を、馴染みの道場生たちの前で順番に紹介していった。
誠司の簡単な紹介のあと、ひかりたちはひと言ずつ自己紹介をしていった。
「時任ひかりです。いつも誠司さんに仲良くして頂いてます」
「橘楓です。高木君のお友達です」
「新勇磨です……」
勇磨だけ何の覇気もなかったが、それぞれ自己紹介した後、道場生は深々と頭を下げてひかりに料理のお礼と感謝を伝えた。
ひかりは遠慮がちに、道場生の感謝の言葉を受け止めた。
「みなさんのお口に合ったのでしたら良かったです。きっと母も喜びます」
ひかりが眩しい笑顔を見せると、道場生たち全員がその可憐さに見入った。
何だか道場の中がひかりを中心に明るくなっている様だった。
しばらく道場生たちが高校生を囲んで盛り上がっていると、その中の一人で初老の男がニコニコしながら口を開いた。
「高木先生、こちらが誠ちゃんのお付き合いされてる方ですか?」
「ハハハ、その辺りは誠司から聞いて下さい」
信一郎は質問をそのまま誠司に丸投げして、ちょっといやらしい顔をした。
誠司は恥じらいながら、ひかりと目を合わせてモジモジする。
初老の男はそんな恥じらいを見せる二人の姿に、可愛い孫を見るかのように目を細めている。
「いや、さっき先生がさ、誠ちゃんの彼女が今来てて、すごい美人だって自慢してたんだよ」
「父さん余計なこと言わないでよ」
息子に窘められて、信一郎はぺろりと舌をだした。
恥じらうひかりに気遣いながら、誠司は紅くなりながら肯定した。
「あの、そうなんです。今こちらのひかりさんとお付き合いさせてもらってます」
「そうか、びっくりしたよ。あの小っちゃかった誠ちゃんがこんな可愛い彼女を連れてくるとは、十年ぐらいあっという間だな」
初老の男はひかりの美貌に感心しながら、感慨深げに手元の冷や酒の入ったグラスをあおった。
そして、さっきの初老の男より少し歳下に見える道場生も、酒の肴のように誠司を弄り始めた。
「ほんとだな。誠ちゃんよくやったな。これで先生も安心だな」
「木島さん、その言い方はちょっと……」
そのニュアンスに誠司も紅くなっていたが、その隣で頬を紅く染めるひかりは、もっと意識していそうだった。
その純な可憐さに道場生の中で、ハーとため息が漏れる。
それから誠司とひかりは古株の道場生たちにしばらく絡まれたのだった。
そのうちに、先ほど誠司が木島と呼んだ道場生が、酒を飲む手を止めた。
「ん?」
何も言わず黙って座っている勇磨の顔を見て、なにか気付いたみたいだった。
「なんか見たことのある顔だな……」
「木島さん、新勇磨ですよ。覚えていませんか」
勇磨が顔を背けようとしているのにも拘わらず、誠司はもう一度勇磨の名を告げた。
木島はポンと手を叩いて、すっきりとした顔をした。
「ああ、あいつか。あの道場で吐いてたやつ」
勇磨はその一言で蒼白になって固まった。
「そういえばあいつだ」
「本当だ。間違いない」
「本当だ。なんか大人しいから気付かなかった」
道場生の視線が勇磨に集まる。
勇磨は道場に黒歴史を残していたのだった。
成る程、顔を出したくなかったわけだ。
「あのときはすみませんでした」
勇磨は蒼白な顔のまま謝った。
木島は気にするなと笑い飛ばした。
「掃除大変だったがな。過去のことだよ、若者よ。どうだ、また今度稽古に顔を出さないか?」
「いえ、遠慮します」
勇磨は今すぐこの場から立ち去りたそうだった。
そんな勇磨にかまわず、楓は訊きたかったことを今のうちにと信一郎にぶつけた。
「ねえ、高木君のお父様。さっき高木君からお父様の伝説を聞かされたんだけど、あれって……」
「誠司、あんまり人に話すなって言ったろ」
信一郎は困った奴だという顔で誠司を見た。
ひかりはすかさず誠司をかばう様に説明した。
「違うんです。私たちが誠司君に話してってお願いしたんです」
その姿が可憐過ぎて道場生たちは憧れの眼差しを向けている。
どうやら今日だけでファンが十人増えたみたいだ。
「あれってほんとなんですか?」
楓は伝説が本当なのか確かめたかった。
信一郎は少し、どうしたものかという顔をした後、優しい口調で答えた。
「恥ずかしながら本当の話です。若気の至りでお恥ずかしい」
信一郎は頭を掻いて照れ笑いした。
「じゃあ三十人も三人で?」
楓が目を丸くしていると、さっき誠司が木島と呼んだ道場生が口を挟んだ
「四十だ」
「え?」
楓が訊き返す。
「四十人だったよ。もと九龍館の俺がちゃんと数えた。あのとき道場の中には四十一人いて、見張りの一人以外を三人で倒したんだ」
それを聞いて、帰りたそうにしていた勇磨も目を丸くしていた。
「あれで控えめの話だったのか……」
「あのとき松田と相馬は各々十人くらい倒したと言ってた。残りは高木先生が一人でやったんだよ。そうでしたよね、斎藤さん」
「ああ、木島の言うとおりだ」
先ほどの初老の男が頷いた。斎藤と呼ばれた男は事情をよく知っていそうだった。
「俺たちが駆け付けた時には、九龍館の道場の門弟たちはみんな畳の上で倒れていたよ。そんな中で先生が九龍と立ち会っていた姿は鬼みたいだった」
まだ続けようとする斎藤の話を、信一郎は恥ずかしそうに遮った。
「もうその話はやめましょう。誠司の可愛い彼女の前で、俺の印象がどんどん悪くなる」
一旦信一郎は伝説の話を終えたが、楓の好奇心は別の所にあった。そしてさらに図々しく信一郎に迫った。
「ね、高木君のお父様、もうそっちのえげつない方はいいんで、奥様とのラブストーリーの方も詳しく聞かせて欲しいんですけど」
「えっ! いや、それは……」
分かり易く狼狽する信一郎に、道場生が一斉に注目した。
信一郎は目を泳がせながら、冷や汗を流している。
その様子を見て、ひかりが助けに入った。
「楓、お父様困ってるじゃないの」
「え。ひかりも聞きたいんじゃないの? 高木君のお母さんの話だよ」
「それはそうだけれど、ちょっと遠慮しなさい。皆さんの前でしょ」
「そうよね。じゃあまたの機会に……」
渋々引き下がった楓に、信一郎は心底ほっとしたみたいだ。
そしてまた酒を飲み始めた信一郎の横で、先ほどの斎藤が冷や酒をあおりながら、仲睦まじい誠司とひかりの姿を眺める。
「静江さんにも見せたかったよ。誠ちゃんのこんなに綺麗な彼女を」
信一郎はグラス片手に、初々しい二人に昔の自分と静江を重ね合わせるかのように目細めた。
「そうですね、あの二人を肴にここで一緒に酒を飲みたかった」
そう言って、かつて静江と過ごしたこの場所で、信一郎は寂しげに笑った。
誠司たちがそろそろ部屋の戻ろうとしていた時、伝説の話を持ちだした楓に、武道に興味があると思ったのか、斎藤がニコニコしながら訊いて来た。
「橘さんと言ったかな、合気道に興味はないかい?」
「私ですか? なんだか面白そうですけど、新がえげつないって」
「そんなことないよ。まあこのクラスはきついけどね。水曜日の誠ちゃんのクラスなんか、みんな楽しくやってるよ」
「えっ? 高木君教えてるんですか?」
驚いたのは楓だけではなかった。三人とも初耳だった。
ひかりは誠司に尊敬のまなざしを向ける。
「すごい。先生だ」
「いや、ただのお手伝いだよ。先生なんてものじゃないんだ」
ひかりにそう言われて、ちょっとだらしなく照れ笑いを誠司は浮かべた。
けっこうお酒の入っている斎藤は、赤ら顔でニヤニヤしている。
「誠ちゃんはいつも控えめだな。まあそこがいいんだが」
斎藤はお酒のせいか饒舌になっていた。そして誠司が今指導しているクラスのことを話し始めた。
「水曜日のクラスは全然人が集まらなくって思い切って女性限定にしたんだ。なあ木島、たしか二年前ぐらいだったかな?」
「そうですね。確か今頃の季節だったと思います」
「どうしても、むさくるしい男と組み合うのが嫌な女性もいるだろうって、思い切って指導部で話し合って立ち上げたんだが、やっぱり生徒さんあんまり集まらなかったんだ」
「ですね。おっさんばかりで指導員に女性がいなかったのが痛かった」
陽気に酒を酌み交わす斎藤と木島の話を、高校生の四人は興味深げに聴いていた。
「それで先生が誠ちゃんにやってみろって、まだ二段だし若すぎるけど、実力は十分だし誰も文句を言わなかったんだ。そしたら気が付いたら道場が手狭になるぐらいに、いつの間にか生徒さんが増えてたんだ。優しく教えてくれるって、ちょっとおしゃべりな中学生の子が広めたのが原因だったんだけど、お陰で女性会員が増えたんだ」
斎藤と木島は愉快に笑いながら楽しげに話す。
「おかげで少しはむさくるしさが和らぎましたね」
「本当だ。誠ちゃんはさ、誰に対しても優しいし丁寧だからかなあ」
斎藤がそこまで言ったとき、ひかりは何とも言えない表情で誠司を見ていた。
少し怒ってる? 楓はそう分析した。
「そんな訳で、水曜日は女性専用の稽古だから気兼ねなく体験できると思うよ。気が向いたら来たらいい」
斎藤は「お勧めだよ」と言ってから、最後にこう締めくくった。
「やっぱり若い子には若い子って感じなんだろうな」
上機嫌な斎藤の最後のひと言で、ひかりは急に誠司の方を見なくなった。




