第4話 幅跳び少女
バスを降りてから窓越しに手を振る誠司を見えなくなるまで見送った後、ひかりはふとした寂しさをいつものように感じてしまう。
冷たい空気の中に白い吐息をふうと吐いた後、ようやく走り去ったバスの名残から帰り道へと視線を移す。
そして幸せな余韻と明日の二人を思い描きながら歩き出す。
子供の頃いつも遊んでいた児童公園に差し掛かった時、ひかりは耳に馴染んだ足音を聞いた。
そして公園の中に目を向ける。
そこには寒空の下、白い吐息を漏らしながら小学生らしき女の子が体操着で走る姿があった。
砂場に真っ直ぐ駆けて行った女の子は、ひかりの目の前で跳躍した。
ザッ。
そして砂場の中央付近で尻もちをつく。
女の子は立ちあがると、足とお尻に着いた砂を払って公園の端まで歩いて行く。
どうやらそこが彼女の決めたスタート位置の様だ。
女の子がまたスタートをきって駆け出す。
さっきよりもスピードが乗っている様に見える。
ひかりは足を止めたまま、女の子が跳躍する姿をじっと見つめていた。
ザッ。
ひかりは女の子が自分で引いたでのあろう踏切り線を少し越えてしまったのを見て目を細める。
さっきよりも加速していたのにも関わらず飛距離は伸びなかった。
また女の子は立ちあがって砂を払い、公園の端まで歩いて行こうとした。
女の子はその時やっと公園の入り口に観客がいたことに気付いた。
「あっ」
ちょっと動揺したような眼でひかりを見る。
しかし驚いたのは一瞬で、その後すぐにひかりを見る目が呆けたようになっていった。
少女漫画のヒロインがどうしてここに?
少女の目はそう言っているみたいだった。
「ごめんね。邪魔しちゃったね」
ひかりは女の子に向かって優しい声で話しかけた。
少女漫画のヒロインがしゃべった。女の子はそんな顔をしている。
「踏切線こえちゃったね」
「え?」
女の子はひかりが言ったことに反応できていなかったが、しばらくしてそれが今練習している幅跳びのことだと気付いた。
「勿体ないね。でも公園じゃしかたないか」
「おねえさん、なんだか詳しそうだね」
「うん。こう見えて幅跳びの選手なんだよ」
「えっ!」
女の子は少女漫画のヒロインで幅跳びの選手という目の前の美少女に惹きつけられたみたいだった。
興味津々でひかりの頭からつま先までを舐めるように見回す。
ひかりは若干視線の痛さを感じたものの、ニコニコしながら女の子に近づいて行った。
「何年生?」
「あ。私、三年生」
「そう。もしかして大会とか有るの?」
「うん。もうすぐなんだ」
女の子はいつの間にか、知らないおねえさんと自然な感じで話していた。
女の子が口を開くたび眩しい笑顔をひかりは見せる。
「ちょっと可愛すぎるんだけど……」
そう呟いた女の子は、もうファンになってしまっていそうだった。
「ここでは踏切を合わす練習は出来ないけど、駆け出しからの加速と勢いを乗せたまま跳躍につなげる動きは練習できるわね。ちょっとやってみようか?」
ひかりは鞄をベンチに置くとゴムを出して髪を括った。
そして公園の端まで歩いて行くと手を上げた。
「行くね」
そして跳ねるように駆けだす。
狭い児童公園で女の子は、目の前の風の様な少女に目を奪われた。
あっという間に踏み切って跳躍し、少女は砂場の端に舞い降りた。
女の子は思わず手を叩いて飛び上がった。
「すごい。お姉さん一体何者なの?」
「ただの高校生。でもずっと幅跳び頑張ってきたんだ」
「そうなんだ。私もそうなりたいな……」
ひかりはその後、女の子に駆け出しのコツと跳躍の時に加速を活かすポイントを話して聞かせた。
「私の経験と感覚だから参考程度にしてくれたらってだけなんだけど」
「ありがとう。おねえさん。大会まで後一週間あるから気をつけて頑張るね」
「うん。頑張って」
「私、東郷友加里って言います。おねえさんの名前聞いてもいい?」
「時任ひかりです。よろしくね」
そう言って微笑んだ少女はひかりという名前にぴったりだと女の子は思ったのだった。
翌日のお昼休み、ひかりは昨日会った女の子のことを誠司に聞かせていた。
誠司はひかりの淹れてくれた白い湯気の立つコップに口を付けてひかりの話を嬉しそうに聞いていた。
「その子、幸運だね。全国三位のひかりちゃんに直接教われたなんてね」
「そんなたいそうなことしてないんだよ。でも何だか昔の私を思い出したって言うか応援したくなっちゃったんだ」
「きっといい結果を出すよ。そんな気がするんだ」
誠司はいつもの優しい笑顔をひかりに向ける。
ひかりは誠司のその笑顔に弱いのだ。
「あんまりドキドキさせないで……」
「え、いやドキドキしているのは俺の方だよ……」
二人はまた甘酸っぱい雰囲気に包まれる。
しばらく話せなくなった後、誠司は頬を紅く染めながら口を開く。
「でも良かった……」
「何が?」
「いや……ひかりちゃんが教えたって子が女の子だったから、その……」
「え?」
「いや、だからもし男の子だったら嫉妬してただろうなって思っちゃって……」
「えっ? そうなの?」
「ごめん……」
誠司は恥ずかしげにそのままうつむいてしまった。
「嬉しい。きっと私も一緒。誠司君が女の子と公園で会ってたとしたら危なかったかも……」
「え? 俺にはひかりちゃんだけだよ」
「私も誠司君だけだよ。でも嫉妬はしちゃうの。ひょっとしたら猫とかにもしちゃうかも」
「いやだなあ。からかってるよね」
誠司は話を聞き流したが、ひかりは結構マジだった。
それからひかりは、あの児童公園の傍を通って帰るたびにあの女の子を見かけるようになった。
ひかりは熱心な子ねと感心していたが、女の子はひかりが相手をしてくれるのを楽しみにこの公園に通っていたのだった。
「ねえお姉さんって好きな人とかいる?」
ひととおり練習を終えてから持参してきた水筒のお茶を飲んだ後、女の子にいきなり聞かれた。
「え? 私、そうね……」
「その様子はいるみたいね。彼氏ってこと?」
「うん……」
この切り込み方、ひかりはなんだか楓と話しているみたいだなと思った。
「どんな人? おねえさんに選ばれるくらいならイケメンに決まってるよね」
女の子の率直な質問に、ひかりは大好きな優しい笑顔を思い浮かべる。
そのうちになんだか頬が熱くなってきた。
その恥じらうしぐさがたまらなかったのか、女の子は目をキラキラさせてひかりの顔を覗き込む。
これってもう少女漫画の中に私もいるってこと?
そんな感じの雰囲気を出しつつ、ひかりが次に何を言うのか期待してときめいている。
「はい、この話はこれでお終い」
「えー」
女の子は拍子抜けして肩を落とした。
「明日大会でしょ。集中しないとね」
「気になって集中できないよ。おねえさんのいじわる」
これからという所で話を切られて女の子は不貞腐れた。
「じゃあ大会が終わってから教えてよ」
「え?」
「あ、そうだ、もし大会でいい成績だったら、おねえさんの彼氏連れてきてよ」
「いや、そんな、無理だよ……」
ひかりは頬を染めてうつむいた。それはそれは可憐過ぎて女の子の好奇心を猛烈に刺激した。
「じゃあ、三位以内。三位以内だったら連れてきてね」
「えっ、ちょっと」
「じゃあね。おねえちゃん」
女の子はひかりに断られる前に児童公園を走り出て行った。
一方的に約束を押し付けられたひかりは、困った顔をしてしばらく立ち尽くしていた。
「という訳なの」
ひかりの説明を聞いた後、誠司は困り顔で考え込んでいた。
勝手に相手から約束を取り付けてきたとはいえ、目標を達成した女の子をがっかりさせたくなくて、誠司に付いて来てもらえないかと打ち明けたのだった。
誠司がイメージするには、女の子はひかりが相当なイケメン、少女漫画のヒロインが恋に落ちてしまうような感じのを連れてくるのだと、思い浮かべて期待しているに違いないと分かっていた。
期待外れもいいところだろ!
頑張ってもどうしようもないピンチに誠司は頭を抱えていた。
「あ、でもあの子、誠司君を見てカッコいいとか思っちゃったらどうしよう……」
「いや、そういう風に俺を見てくれてるのは、ひかりちゃんだけだと思うよ」
ひかりはなんだか頭に浮かんだ不安を、どんどん大きくしているみたいだ。
「相手は小学生だけど、きっとおませな子だから誠司君の魅力に気付くに違いないわ。誠司君に猛アタックを仕掛けてくるかも……」
「いや、無い無い。それは俺が保証するよ」
あまりの不安でひかりの耳には誠司の声は届いていない様だ。
「約束を守るべきか、やっぱり無理とお断りすべきか……」
「ひかりちゃん? あれ? 聞こえてないな」
「そうだわ!」
「えっ! なに?」
「二人がもうラブラブだってとこを見せつけて諦めさせたらいいんだわ」
「えっ? 諦めさせるって? それ以前の問題だと思うけど……」
「よーし。これで行こう。あ、誠司君あのね、今ちょっと考えてたんだけど……」
「多分全部聴こえてたと思うよ……」
そんなひかりに苦笑しつつ。実は滅茶苦茶可愛いと思っていた。
誠司とひかりは手を繋いで児童公園までやって来た。
ひかりはいつも以上にぴったりと誠司にくっついている。
誠司はあまりのひかりの近さにときめきが抑えられず、頬を紅潮させていた。
女の子は待っていたらしく、二人に気付くとやっと来たという表情で近づいてきた。
そしてすぐに足を止めた。
頬を染めて照れたような笑みを浮かべる大人しそうな少年と手を繋ぐ幸せそうな少女漫画のヒロイン。
ときめきのあふれ出し方が半端ない。
女の子は漫画で何度も見たシーンが現実に起こりうることだと知った。
駄目。これってほんとに現実なの?
呆然と意識を喪失していたことに気付き、女の子は一礼した。
「東郷友加里です。無理言って来て頂いてありがとうございます」
「あ、高木誠司です。初めまして」
相当緊張している様な照れ笑いを浮かべる年上の少年に、女の子はちょっとドキドキした。
「友加里ちゃん。約束通り連れて来たわよ」
「うん。おねえさんありがとう」
「大会頑張ったんだってね。おめでとう」
誠司がそう言うと、女の子は頬を染めて嬉しそうに微笑んだ。
「うん。おねえさんのお陰、あと、おにいさんのお陰でもあるんだ」
「え? 俺は何も……」
「三位以内だったら来てくれるって頑張ったんだ。頑張って良かった」
「そう。じゃあお役に立てたんだね」
「そうなの」
誠司は女の子ががっかりしていないようだったので、取り敢えずほっとしていた。恐らくひかりが醸し出している少女漫画の世界が自分の存在を10倍位よく見せてくれているのだろう。
しばらく談笑した後、女の子は気が済んだのか手を振って帰って行った。
去り際に女の子は二人にこんな言葉を残した。
「お互い好きっていっぱい出てるよ。お幸せに」
二人は小学生のひと言で真っ赤になってうつ向いたのだった。
大会でメダルを獲って帰った女の子は、お祝いに回転ずしに連れてきてもらっていた。
女の子は上機嫌で三つ上の姉と並んでどんどん皿を取って食べる。
女の子の両親はそんな食欲旺盛な娘をにこやかに眺める。
「本当、よく頑張ったわね。まさか全体の三位でメダル取ってくるとは思わなかったわ」
母親が感心したようにそう口にすると、隣の父親も良くやったと嬉しそうに笑った。
「へへへ、ちょっと秘密特訓したんだ。砂場の有る隣の地区の公園に一週間通ったの」
「マジ? そんなんでメダルを取ったの?」
「へへへ。それだけじゃないのよ。私には専属コーチがついてたの」
「何よ? なんだか含みがあるみたいね。はっきり言いなさいよ」
姉に追及され女の子は打ち明けることにした。実は言いたくてうずうずしていたのだった。
「公園で練習してたらね。びっくりするぐらい綺麗なおねえさんに声を掛けられたの。そのおねえさん高校生なんだけど幅跳びの選手だったのよ」
「へえ、ラッキーね。それで?」
「それだけじゃないの。跳んで見せてくれたんだけど軽く跳んだだけで砂場の端まで跳んでってもうびっくりしちゃったのよ。それから一週間おねえさんを待ち伏せして教えてもらってたってわけ」
「あんた、ほんとに厚かましいわね。ちゃんとお礼言ったの?」
「言ったっけかな?」
女の子はそう言えばと顔色を変えた。
向かいに座る母親は何故か首を傾げて難しい顔をしている。
「あんた、今すごい綺麗な人で幅跳びも凄かったって言ったわね」
「うん。そうだけど」
母親の問いにすかさず女の子は応える。母親はますます難しい顔をした。
「あんたそれって時任さんの所のひかりちゃんじゃないの?」
「あれ? お母さんどうして分かったの?」
「馬鹿、この地域でも有名な子よ。美人でも有名だけど高校総体で三位の凄い子よ」
「こうこうそうたい?」
良く分かっていない妹に姉が説明する。
「インターハイのことよ。全国の高校生が集まる日本一を決める大会で三位だった選手なの」
「えっ!」
「あんたえらいのを引き当てたわね」
「そうだったんだ……」
女の子は箸を止めて急におとなしくなった。
「明日お母さんと一緒にお菓子でも持ってお礼に伺いましょう」
「うん。わかった」
「ところであんたいつもの調子で図々しくひかりちゃんに絡んでいってなかったでしょうね?」
女の子の顔色がどんどん紅くなっていった。
「やってくれたわね……」
母親は大きくため息をついた後そう言ったのだった。