第3話 誠司の苦悩
放課後の美術室。
部活の終了時間が過ぎ、生徒たちの姿が教室からいなくなった後も、たった一人キャンバスに向かう人影があった。
十二月に入ったこの時期はこの時刻になると完全に日も落ち、窓の外にはあの美しかった夕焼けの残像さえ無くなっていた。
少し肌寒い教室に美術部顧問の島田が戻って来ると、唯一残っていた生徒、高木誠司は筆を止めて壁に掛けられている時計を見上げた。
「もうこんな時間か……」
独り言のようにそう呟くあまり元気の無さそうな顔を眺め、島田は声を掛ける。
「どうだ、見せてみろ」
誠司に並ぶように島田はキャンバスに向かうと、しばらく何も言わずにそこに描かれた絵を俯瞰していた。
そして誠司の肩をポンと叩く。
「また明日だな」
並んで見ている島田の前にはまだ未完成の絵が在った。
推薦を受けてはいるとはいえ、誠司は十二月の半ばに試験が控えていた。
課題を与えられ、時間内に作品を仕上げるといった内容の試験に、間に合うように描き上げるため毎日遅くまで切磋琢磨していたのだった。
誠司の右手は思っていた以上に油絵を描く際に上手く機能せず困難を極めた。時間を掛けて描くことが出来ればきちんとした物を描けるのだが、以前の描くスピードに比べると半分程度になってしまっていたのだった。
誠司は思うようにいかない気持ちを吐き出すように、大きなため息を一つついた。
そんな誠司の様子を島田は何とも言えない表情で見る。
「なあ高木、気持ちは分からんでもないがあんまし焦るな。お前は確実に前に進めてるよ」
「それは分かってるんですけど、もう後二週間しかないんで……」
「まあそれはそうなんだけどな……」
島田は何故誠司がここまで痛々しいまでに自分を追い込んでしまっているのかを知っていた。
そして誠司の焦る気持ちに胸をうたれつつも、何も解決法が無いということも島田には良く分かっていた。
導いてやることもできず、ただ傍にいてやることしかできないことに島田自身も歯痒さを覚えていた。
島田は思う。
試験の合否以前にこの少年の心の中に有るのはあの少女のことなのだろう。
もし怪我をした手の影響で試験が上手くいかなかったとしたら、きっと少女を傷つけてしまう。そう思い足がすくんでしまっているのだろうと、島田は思い悩むその教え子を見て苦しくなるのだった。
「なあ高木」
片付けを始めた誠司の背中に島田が声を掛けた。
「はい」
島田は振り返った誠司にこう言ったのだ。
「お前の右手は元には戻らない。けれど以前の自分に戻りたいとお前は思ってるのか?」
誠司は島田の意図が読み取れずその顔をただじっと見る。
「お前はお前がもともと持っていた大切なものを失った。その結果、前の様には描けなくなった」
島田はきっと応援したかったのだ。
「筆を握る手以上に大事なものが在る。お前にそれが分かるか?」
誠司は島田の問いかけに応えようと少し考え込む。
「あの蒼い桔梗の花を描き切った時、お前の取り戻したかったものは当たり前だが戻って来なかった。力を出し尽くし絵を描き上げ、母親の死を受け入れたお前を見て、俺は絵を描く喜びを忘れてしまっているように思えたよ」
そして島田の口から、誠司の目を覚ますひと言が伝えられた。
「でも、お前はあいつに出会った」
島田の言葉は誠司の心を震わせる。
「どうしても描きたい気持ちが溢れて描かずにはいられない。お前の描いたあの二枚の絵はそうだったんじゃないのか」
島田は誠司の辿った道をよく理解していた。
「そうだろう。なあ高木」
誠司は頷いた。
島田も同じ様に小さく頷く。
「絵を描く者はそこに在るものを描いている訳ではない。描こうとするものを自分の見えている世界を通してどう感じているかを表現しようとするんだ」
そして島田はエールを送る。
「今お前の前にはどんな世界が広がっているんだ?」
誠司は大きく目を見開いた。
そう、あの日から何もかもが変わってしまった。
あの光をまとう少女に出会ったあの日から……。
「お前はその右手の代わりにもっと大切なものを手に入れた。それは誰もが一生かかっても手に出来るか分からない程の贈り物だろ」
誠司の胸が暖かいもので満たされる。
そう。今いるこの鮮やかな世界はあの少女にもらったものなのだ。
「そうだよ。お前は誰もが羨むほどの贈り物をあいつからもらったんだ」
誠司の顔に恥ずかし気な明るい笑顔が浮かぶ。
「先生の言うとおりだ」
島田の顔にも屈託のない笑顔がパッと浮かぶ。
「なあ高木。お前はこれからもずっとこの世界で絵を描いていけるんだ。もっと楽しい顔をしていていいんだよ」
誠司はほんの少し目頭を熱くしながらまた頷いた。
「ありがとう先生。俺また明日からも描きます。もっと楽しみながら」
「ああ。そうしろ!」
島田は誠司の明るい顔を見ながらハハハと笑った。
誠司は島田の言葉で気付かされたのだった。
母親からは忘れられない大切な思い出を、そしてあの少女から、これから先の夢をもらったことを。
そのころひかりは美術室の扉に背を預け、少し上を見上げていた。
ひかりの目には少し涙が浮かんでいる。
きっと涙がこぼれない様にひかりは上を見上げているのだ。
部活が終わり誠司を迎えに来たひかりは、ほんの少し前から二人の会話を聴いていた。
ひかりは胸に抱えた鞄を持つ手に力を込める。
そして思うのだった。
私もあなたからこの輝く世界をもらったのだと……。




