第6話 ゆきの楽しみ
話は少し遡って。
清水ゆきが一日の仕事を終え帰り支度をしていると、体育教師の前田が戻って来た。
「あ、清水先生今からお帰りですか? いやあ丁度僕も帰ろうと思っていたところなんですよ」
「あ、前田先生お疲れ様です」
ゆきはまた苦手な前田に捉まりそうになって困り果てる。
やっと想いが実を結んで島田と交際しだしたのだが、学校ではややこしくなりそうなのでそのことを内緒にしていた。そのために前田の無駄な猛アタックは今も続いていたのだった。
「どうですか、清水先生も色々大変でしょう。帰りながら話しませんか? あ、勿論車でお送りしますよ」
「あの、大変ありがたいんですけど私、その……」
そろそろ前田にも悪いかと思って、ゆきは交際している相手がいることを話しておこうかと思った。
島田先生のことは伏せて上手く言わないと……。
ちょっと考え込んでいた時だった。
「清水先生。ちょっといい?」
ぶっきらぼうなこの雰囲気。
職員室の入り口を振り返ると新勇磨が手招きしていた。
前田は無神経な坊主頭を睨みつける。
「あ、生徒が呼んでますので、前田先生お疲れさまでした」
「はい……お疲れ様でした……」
肩を落として前田は退散した。
「ごめん先生。なんか前田先生と話してたみたいだけど」
「ううん、いいのよ。いいタイミングだったわ」
勇磨は安堵の表情を浮かべるゆきを怪訝な顔で見た。
「まあいいや、あのさ先生、ちょっと教えて欲しいことがあるんだけど」
「なあに? 新君が私に? 何かしら」
「これなんだけど」
勇磨はテキストをゆきに開いて見せた。
ゆきは以外だったのか「へえ」と声を上げてしまった。
「勉強のことを新君が訊きに来るなんて……」
「先生、それちょっと傷つくんだけど……」
「あ、ごめんなさい。えーとこれはね……」
ゆきはやる気になっている生徒に心無いひと言を言ってしまったことを反省しつつ、丁寧に解説した。
「成る程。先生教えるの上手いな」
「あのね、私も教師なの。言ってみればその道のプロなんだから」
ゆきは胸を張って見せた。
「ありがとう先生。また聞きに来るかも」
そそくさと去って行こうとする勇磨をゆきは呼び止めた。
「ちょっと待って新君。今やってるのって受験勉強?」
「うん、まあ……」
ちょっと恥ずかしそうに言った勇磨を放っておけなくて、ゆきは席を立った。
「ひょっとして放課後一人で頑張ってるの?」
「うん。時々誠ちゃんも手伝ってくれてるけど」
「高木君が? 彼も忙しかったはずだし、新君大変なんじゃない?」
「いや。まあ、そうかな……」
また教室に戻ろうとする勇磨にゆきはついてきた。
「新君、駄目よ。大学に行くための勉強を一人でするなんて」
「先生、そんなたいそうに考えなくっていいんだ。俺そんなに勉強できないし今更って半分思ってるんだ」
「何言ってるの! あなたの大切なこれからじゃない!」
勇磨は立ち止まった。ゆきも立ち止まって少し怒ったような顔で、少し自分より背の高い勇磨を見上げる。
「受ける大学によるけど、試験までまだ今からでも三か月以上あるわ。諦め半分でどうするの。ちゃんと向き合いなさい」
「でも、何から手を付けていいのか分からないんだ」
「そんなこと私が何とかするわ」
「えっ!」
「私、部活の顧問もやってないし時間は有るの。古文の教師だけれども他の教科も成績優秀だったのよ」
「いや、いくら何でも先生に悪いよ」
「何言ってるの。困っている生徒に手を貸すのが教師なの。何にも悪いことなんて無いんだから」
ゆきはそのまま勇磨を連れて教室に行った。
「あれ? 清水先生」
「高木君」
誠司は少し美術部に顔を出して勇磨の勉強に付き合うため、戻って来ていたのだった。
「話は聞いたわ。あなたたちの熱い友情には感心するけど、指導者なしに受験に臨もうとしていたのは頂けないわね」
「全部聞いたんですね……」
「今日から私も新君に手を貸すわ。まずはどこの大学に行きたいのかしら」
勇磨はその質問になんだか答えにくそうだった。
「はっきりしなさい。それを聞いとかないと何の作戦も立てれないじゃない」
「Y大です……」
「Y大か……まあまあ難しそうね……」
「やっぱり……」
「高い山ほど登る価値はあるのよ。さあ早速行くわよ」
こうして放課後ひかりと楓が部活の間に勇磨は本格的に受験勉強をすることになった。そして当然のように誠司も勉強につき合わされることとなったのだった。
勇磨はもともとぼんやりとだが進学希望だったので、一応はそれに向けての勉強はしていた。しかし志望校にあげたY大は、とてもじゃないが勇磨の偏差値で受かるような大学ではなかった。
それでもY大を目指すと決めた勇磨の腹の中を知っていた誠司は、出来ることはしてやろうと応援していたのだった。
そんな暗中模索の状態の中、清水ゆきが救いの神のように現れた。
昔から運だけはいい勇磨の本領が、ここに来て発揮された感じだった。
ある日勇磨の勉強している教室に、用事を済ませた誠司が入って行こうとすると、中から話し声が聞こえて来た。
「それで、それでどうなったの?」
「まあ、それからあいつら、ちょっとややこしくなっちゃって……」
なんだか興奮している様なゆきの声が聴こえてきたが、別に難しい話でもなさそうだったので教室に入っていくと、二人はぴたりと会話を止めた。
そして二人とも窓の外に目を向ける。
「あれ? 何か話の途中じゃなかったんですか?」
「え? 話? ええ、ちょっと新君の勉強の質問に答えてたのよ」
おかしい。質問してたのは清水先生のほうだったはず……。
勇磨は誠司と目を合わそうとせず、机に向かって何やらノートを取っている。
なんだか誠司が入ってきたことで、慌てて話をやめた雰囲気が漂っていたのだった。
放課後の勉強が終わってすぐ、誠司は勇磨に訊いてみた。
「なあ、今日、清水先生、様子が変だったよな」
「え? そうか? 俺は気が付かなかったけど」
勇磨は誠司の目を見ようとしない。
「おまえ何か知ってるな。そんで何か隠してるだろ」
「俺が? 誠ちゃんに隠し事を? 無い無い。ハハハハ」
明らかに怪しかった。
「やっぱりおまえなんか隠してるだろ。言わないとこっそり勉強してるって橘さんにバラすけどいいんだな?」
「誠ちゃんそりゃないよ。内緒にしとくって約束だろ」
「お前が隠しごとするんなら不公平だろ」
「分かったよ……」
そして勇磨から聞かされた話に誠司は赤面した。
「お、お前、なんでもかんでもペラペラと……」
「すまん! だってしつこくって……」
勇磨は勉強の休憩中、ゆきに誠司とひかりのなれそめとか色々教えてくれないかと迫って来られたらしい。
勉強を見てもらっている勇磨は、断り辛くてちょびっとだけ教えてしまったと口を割った。
「恥ずかしいだろ。お前ってやつは……」
「だからごめんって。もう言わないからさ」
前からやたらと注目されていると感じていたが、誠司はゆきのその執着に少し怖くなったのだった。
また別の日、誠司が勇磨の勉強している教室に戻ると小テストを解いている勇磨とは別に、ゆきがノートに何やら必死にペンを走らせていた。
一心不乱にペンを走らせているゆきが何を書いているのかと誠司は覗き込む。
「わっ!」
覗き込もうとしていた誠司に気付いて、ゆきはうろたえながらノートを腕で隠した。
「すみません。でもなんでそんなに驚いているんですか?」
「え、ああ、気付いたら高木君が近くにいたから驚いただけ」
「なんだかすごい集中して書いてましたけど」
「えっと、日誌よ。クラスの日誌つけてるの」
「へえ、そうだったんですか。それで今日はどんなこと書かれてたんですか?」
「いや、特に何もない日だったなーって」
怪しい。特に何もなかったのにすごい勢いで何か書いてた。
誠司はゆきがひたすらに隠そうとしているノートの中身を知りたくなった。
ゆきは誠司の視線を感じ、そのノートをささっと鞄にしまった。
「はい。新君そこまで。じゃあ採点するから見せてくれる?」
怪しいと思いながらも邪魔してはいけないと思い、誠司はそれ以上何も言わなかったのだった。
そしてある時ノートの中身を知る機会が突然訪れた。
たまたまゆきが放送で呼び出された時、慌てて席を立ち出て行った後に、誠司が教室に戻って来たのだ。
無造作に机に置かれたあの怪しげなノート。
誠司は気になったが流石に勝手に覗き見しようとはしなかった。
そこへ楓とひかりが制服姿で教室に入ってきた。
慌てて勇磨は机の上の筆記用具を隠す。
「あれ? こんなとこで何してるの」
楓は勇磨がこっそり受験勉強をしていることを知らない。
なんと返せばいいのか困っている勇磨に誠司は気を利かせた。
「あ、今日は早かったんだね。待ってる間にちょっと分からないところ清水先生に聞いてたんだ。俺書くの遅いからついて行けてなくって」
「そうだったんだ。誠司君のノート、私バッチリ取ってるから誠司君は聞く方に集中してていいんだよ」
「うん。いつもありがとう……」
なんだかまた二人の間に甘酸っぱい空気が漂い始める。
「もう、私たちがいるのを忘れないでよね。ほっといたらすぐにイチャイチャし始めるんだから」
指摘されて二人は赤面する。
「あれ? でも清水先生は?」
「さっき呼び出されて出て行ったきり帰ってこないんだ」
「へえ、じゃあこれ清水先生のかな?」
楓は無造作に置かれたノートを手に取った。
そして中を見ようとする。
「あ、橘さん、勝手に見たりしたら駄目だよ」
「え? 見られたらまずいノートなの?」
誠司が諭すも、楓はきょとんとした顔でなんの悪気も無さそうにしている。
「何のノートなのかな?」
「先生はクラスの日誌だって言ってたけど」
「じゃあ、別に見てもいい訳よね。日誌なんだし」
そして楓はペラペラとページをめくって適当なところで読み始めた。
「えーと、なになに、高城誠太は胸の内に秘めた燃え上がる様な恋心を隠し時乃ヒカルの瞳を見つめる……何だこりゃ?」
意味不明な内容に楓は怪訝な顔をしつつ、さらに読み進める。
「なになに……ヒカルの長いまつ毛の奥にある黒曜石の様な瞳には誠太以外の何物も映っていないのだ……」
やはり理解不能な文章を、楓は険しい顔のまま読み進めていく。
「見つめあう二人の頬は少しずつ紅く染まっていき、同時に距離も縮まってゆく。甘いジャスミンの香りがヒカルの髪から誠太のもとへと届けられる。躊躇いすら感じられる距離で誠太は囁く……ああ、なんて君は美しいんだ……。ヒカルはその囁きを受け止めて真珠の様な涙を浮かべる。その涙の輝きにはどんな宝石さえも色あせてしまうだろう。そして二人は……」
読んでいる楓の頬がみるみる赤くなっていく。
そして他の三人も同じく赤面していた。
「高城誠太と時乃ヒカルって……」
楓は頬を紅潮させて呟いた。
そこには恐らく誠司とひかりをモデルにした恋愛小説が綴られていたのだった。
「ごめんなさい、教頭先生に捉まってしまって」
突然教室に戻ってきたゆきに四人は慌てふためく。
「あ、時任さんと橘さん、今日は早かったのね」
大慌てで、かつ冷静に二人はゆきに会釈する。
「はい。今日は早めに終わったんです」
「じゃあそろそろ帰りましょうか。放課後カップルで一緒に帰るとかちょっと憧れちゃうなー」
ゆきは誠司とひかりに憧れの目を向けている。
清水ゆきがときめき恋愛小説を創作するのが趣味だと分かったが、そのことについて何も触れられない四人だった。