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ひかりの恋それから  作者: ひなたひより
第四章 それぞれの恋
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第1話 光をまとう少女

 夕方になってから、やっと涼しい風が窓からカーテンを揺らしながら吹き込んできた。

 一日の終わりを告げるのにふさわしい、けだるげな夏の遅い午後。

 三階のこの美術室の窓からは、紅い夕日に彩られたマゼンタの空と紫色の陰影をまとう夏の雲が広がっていて、それは言葉にする必要すらなく美しかった。

 もう誰もいなくなった教室で、描きかけのキャンバスの手を止めた少年は窓の外に目を向けていた。

 そこにあるまだ絵の具の匂いが残るキャンバスには、窓の外に広がる美しい空が描かれていた。


 高木誠司。それがこの絵を描いている少年の名だった。


 かつて少年の描いた蒼い花の絵は、高校生を対象とした大きなコンクールで大賞を取った。

 ただ胸の奥にある抑えきれないものを、少年は蒼い花をとおしてキャンバスに描き切った。

 そしてそのあと、少年の胸にそれまでずっと憑りついていたかのような衝動が消え、今キャンバスに描いている果てのない空虚な世界が少年の中にも広がっていた。


 夏休みのクラブ活動。

 描きたいものが見つからないまま、引退した先輩を引き継ぐように、少年は新しく入った一年生の面倒を近頃は見てやっていた。

 そんな少年も窓から見えるこの景色を気に入っていた。

 いつもは遅くまで活動している陸上部の練習もなく、広いグラウンドには人影はない。

 運動部の生徒達が駆け回る活気のある時も嫌いではなかったが、滅多にない穏やかで風の音しかしない今の様な黄昏時に、少年は深い心地良さを覚えていた。


 誰もいないとこんなに静かなんだ……。

 

 少年はそう思っていた。


 いや、違う。


 夕日に照らされたグラウンドの奥に人影がある。


 あれは……。


 陸上部の幅跳びのスタート位置で、スッと手を上げる逆光の人影。

 長い髪がそよぐ風に揺れている。

 少年はその逆光の人影に見覚えがあった。

 そしてその人影は走り出そうと構えた。


 そしてスタートを切った。


 跳ねるように駆けだすと一気に加速していく。

 少年はその躍動感に一瞬で惹きつけられた。


 地面を蹴る脚の動きに合わせて長い黒髪が大きくなびき光を集める。


 逆光の光に照らし出されるその少女の姿は、まるで光そのものをまとっているかのようだった。


 きっと誰も追いつくことの出来ない、光をまとう一陣の風のような少女。


 やがて少女は地を蹴って跳躍した。


 ザッ。


 少年は大きく目を見開いた。


 それは一瞬の眩しい輝き。


 少女は空を翔んだ。


 少年の見つめるその先、あらゆる束縛から解放されて本当の自由を手に入れた少女が光の中で空を舞っていた。


 少年はこの世界で最も美しいものに出会った。


 信じられないほど遠くに跳んだ少女に目を奪われてからしばらくして、興奮冷めやらぬ間に少年はキャンバスに向かった。


 胸の奥から湧きあがる抑えきれないものが少年を衝き動かす。


 夕日を集め光をまとう一陣の風のような少女……。


 少年がこれから描く少女の名は時任ひかりといった。



 全国高校生芸術コンクール。


 日本中の芸術家を目指す高校生たちが一年に一度その芸術性を競い合う大きな舞台だった。

 私立美術館の一番大きな展示室を借り切って並べられたまだ若々しい絵画たち。

 並べられた全ての作品から、そこに息づく少年少女たちの息吹が感じられた。

 美術品の独特の匂いがする部屋で、十人ほどの審査員がゆっくりと楽しむように作品を観て周っている。

 その中で一人の審査員が、並べられた一つの作品を前に立ち止まった。

 銀色の髪を綺麗にまとめた初老の審査員は、眼鏡の奥の瞳を集中させてそこから一歩も動かなくなった。

 山路光徳(やまじこうとく)。それがその審査員の名だった。


「先生、気に入った作品でも見つかりましたか」


 スーツを着た中年の男が山路の背に声を掛ける。

 しかし声を掛けられても山路は振り返るどころか返事すらしなかった。


「ほう、これはこれは……」


 声を掛けた男が山路の向かい合っている絵を見て声を上げる。

 そして作品を描いた生徒の名前を見てほうと頷いた。


「流石山路先生、お目が高い。この生徒は二年前に大賞を獲った生徒ですよ。またいい作品ですねえ」


 山路はやっと男の方に目を向けた。


「君、済まないけど静かにしててくれないかな」

「あ、すみませんでした……」


 男が退いて行った後も、山路はじっとその絵を眺め続けた。


 夕日を集め光をまとい跳躍する少女。


 山路は絵画を観ている自分の頬に、涙が伝っていることに後で気付いたのだった。

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