第3話 雨に降られて
下校時刻。まだ慣れない新しい学校での一日に少し疲れを感じつつ、ゆきは並木道を抜けてバス停へのスロープを下っていた。
なんか降ってきそうだな。
傘を忘れてしまったことを気にしつつ、厚い雲に覆われた灰色の空を見上げながら歩いていると、急に足を取られた。
「あっ!」
変な音がしたと思ったら、ヒールが溝に挟まって折れてしまっていた。
「やっちゃった」
そのままバス停までおかしな歩き方で歩いた後、手の中にある折れたヒールを見てため息を一つついた。
「はあー」
そのうちにポツポツと雨が降り出してきた。
やっぱり傘持ってきとけばよかった。
降り出した雨から逃げるようにして、ゆきはひさしのある所に移動した。
バスが来るまでまだ時間がある。
折れたヒール片手に、明日からはローファーにしようかと考えを巡らせていると、また少し雨脚が強くなってきた。
少し吹き込んできた雨風から逃げつつ、バスが来るのを心待ちにしていると、さっきバス停の前を通り過ぎて行った白い車がバックで戻ってきてゆきの前で停まった。
「乗りませんか?」
窓を開けて顔を見せたのは島田だった。
手に握っていたヒールをとっさに隠して、ゆきは島田の厚意に甘えることにした。
「すみません、なんか厚かましく」
「いいんですよ」
ゆきが助手席に乗り込むと、島田はさっきまで吸っていたタバコを消して換気した。
「すみません、タバコの匂いお嫌いでしょ」
「大丈夫です。お構いなく」
車が発進したあと、しばらく二人は黙っていたが、島田がぽつり口を開く。
「ヒールの靴、学校に履いてこない方がいいですよ」
隠したつもりだったが気付かれていたようだ。
ゆきは手の中にあるヒールの恥ずかしさを噛み締めた。
「はい。そうします」
「そういう靴は彼氏とのデートのときとかに取っといたらいいですよ。学校なんか勿体ない」
「私、彼氏なんかいません」
即答したゆきに、島田はハンドルを握ったまま少し驚いたみたいだ。
「意外だな。それにしてもあなたみたいな美人をほっとくなんて、世の中の男はアホばっかりだな」
「からかってますよね」
島田は前を見ていて気付いていないが、ゆきは少し嬉しそうだった。
「いえ、俺は嘘はつきませんよ」
ゆきは口を押さえて可笑しそうにした。
「どうかしました?」
「いえ、すみません。島田先生からいま、俺って自然に出たので」
「というと?」
「いつも私って自分のことをおっしゃってますけど、ずっと思ってたんです。何か似合ってないなあって」
「そうでしたか、隠せてませんでしたか。お恥ずかしい」
「そう、かしこまらないでください。私よりも俺のほうがお似合いですよ」
「俺もそう思います」
島田はそう言ってハハハと声に出して笑った。
窓の外は暗くなってきて、雨も少しさっきよりも強くなったようだった。
「音楽でも聴きますか?」
島田はラジオのスイッチを入れてFM局を選択する。
Over the Rainbow / 虹の彼方に、が流れてくる。
「島田先生ご結婚は?」
ゆきは唐突に訊いた。
「俺ですか。独身ですよ。見てのとおりです」
「私、ご結婚されてるのかと思ってました」
島田は首をかしげて困惑気味だ。どう見たらそう見えるのかとそんな感じだった。
「金はない。根性はない。服のセンスも悪い。俺のところにくる嫁なんかいませんよ。まあ、顔はそこそこいい男だと自分では思ってるんですがね」
そう言ってニタリと笑って見せた。
ゆきはうふふと口を押さえて笑った。
「それにもう三十ですし……」
「そうなんですか?」
ゆきの反応に島田は若く見えますかと訊いた。
「いえ、もうちょっと上だと思ってました」
「傷つきますな」
島田は本音でやや落ち込んでいるように見えた。
そうしているうちに車はゆきのアパートに着いた。
雨がまた少し強くなっている。
「これ持ってって下さい。二つ車に乗せてるんで」
島田はビニール傘をゆきに手渡した。
「ありがとうございます」
礼を言った後、何故かゆきは車から降りようとしない。
「どうかしました?」
島田が首をかしげる。
「……あの、今日前田先生に私のこと大丈夫っておっしゃってましたね」
「ええ」
ゆきは少し目を閉じた。
「私のどこが大丈夫なんですか? 今日だって何もできなかったじゃないですか。何もしてないじゃないですか」
ゆきは折れたヒールを握りしめた。
「そうですか? 俺が見てる限り、このたった数日で三つも大丈夫だと思えるところがありましたよ」
そう言っても自信なさげなゆきに島田は続ける。
「気付いてないんですか?」
ゆきは首を横に振る。
「じゃあ言います。一つめは今日、言うことを聞かない生徒に向かって声をかけたこと。二つめは最初の日、足がすくんで動けなくなったとき勇気を出して一歩踏み出したこと」
そして一呼吸入れてから、島田ははっきりとした口調でこう言った。
「三つめはもうお分かりでしょ。あなたが教師をもう一度やり直そうと決意してここに来たことですよ」
その言葉のあと、ゆきはハッとしたような顔で島田を見た。
「あなたは間違いなく自分の意志で前に進み続けている……だからあなたは大丈夫なんだ」
島田の言葉はとても力強かった。
ゆきの瞳から涙があふれる。
そのままゆきは助手席のシートで嗚咽し始めた。
泣きやみそうにないゆきに、島田はなんて声をかけていいか分からず、困った顔をするしかなかった。
「ごめんね。なんか、泣かしちゃって。おれハンカチ持ってないんだ」
「私嬉しいんです」
涙を手の甲でぬぐいながら、ゆきはやっと笑顔を見せた。
「島田先生の言うとおり。私きっと大丈夫です」
ゆきは車のドアを開け外に出ると、傘もささずに「ありがとうございました」と一礼した。
「清水先生、濡れるよ。早く傘をさして」
そう言われて傘をさしたものの、もう十分に濡れてしまっていた。
「早くうちに入りなさい。風邪ひくんじゃないよ」
そう言って走りだした車の姿を、ゆきは見えなくなるまで見送っていた。




