第2話 踏み出した一歩
「はい、男子は体育館、女子はテニスコート、三組と合流してちゃんと試合の準備しとけ」
クラス合同のレクリエーションで男子はフットサル、女子はテニスの交流試合をする日だった。
交流戦とは違いランキングはつけない。
「清水先生は私と、男子のフットサル担当です。点数とか審判は空いてる生徒が見ますので、我々はただの監視役です」
「そうなんですか? じゃあ試合見物って感じでしょうか」
「そんな感じです。まあ、たまには息抜きしてください」
「なんだか申し訳ないですね」
「へへへ、堂々とサボれる滅多にない機会ですよ。あ、今のは教頭には内緒ということで」
「うふふ。分かってますよ」
授業ではないレクリエーション。
いつもよりさらにお気楽な島田と共に、ゆきは体育館に移動した。
島田の言ったとおりだった。生徒たちは自分たちでテキパキ審判も点数のカウントもやってしまうので、ゆきは時々開けっ放しのドアから飛び出していくボールを追いかけるぐらいしか仕事がなかった。
とにかく生徒の手がかかった前の学校とは何もかもが違っていた。
これほど学園生活が順調に送れる学校があるのだと、まだここへ来て数日しか経っていなかったが、ゆきはまた感心していた。
生徒の蹴ったボールが外れて勢いよく外に飛び出したのを見て、仕事ができたとゆきは元気よく飛び出していった。
「あれ? どこに行ったんだろう」
簡単に見つかると思っていたボールが、いくら探しても見つからない。ゆきは体育館の裏側まで足をのばした。
「まさかこんなところまで来ないよね」
戻ろうとしたとき話し声が聞こえてきた。高く積まれた資材の裏からのようだった。
ゆきが覗き込むと、三人の男子生徒が地べたに座ってスナック菓子を食べながら笑い声をあげていた。
恐らく一年生だろう。授業に出ず、体育館裏でサボりを決め込んでいるようだ。
ゆきは生徒を注意しようと一歩踏み出そうとした。
ゆきの表情がこわばる。
足が動かない。
ゆきの脳裏に今もこびりついている、思い出したくもないものが甦った。
学級崩壊した教室。いくら言っても生徒たちは自分の言葉を無視し続けた。
話す価値もないくだらないものを見るように冷たかった生徒たちの目。
そのうちゆきは生徒を見なくなった。
そしてただ黒板にだけ向かっていたのだった。
私の言うことなど聞くわけがない。
ゆきは振り返り戻ろうとした。
島田の言葉を何故この時思い出したのだろう。
「今ここにいるこれからのあなたのことは、まだ何も知りません」
あの時、足が止まった私の手をそっと引いてくれたあの言葉。
ゆきは自分を奮い立たせて生徒たちの前に歩み出た。
足が震えてる。
生徒たちはゆきに気付いた。
「あなたたち、授業中よ」
震える声でそういうのが精いっぱいだった。
「なんだビビった。島田かと思った」
「新しく入ったかわいこちゃん先生かよ」
「見なかったことにしてよ。次の授業には出るからさ」
生徒たちは完全にゆきを舐めきっているようだった。
「教室に戻りなさい!」
自分でもびっくりするぐらいの声が出た。
「大声出すなよ。ばれるだろ!」
生徒の一人が立ち上がって近づいてきた。
ゆきの顔に緊張が走る。それでも震える脚で必死で踏ん張った。
その時だった。
ばしっ!
ゆきの髪を風で揺らして、後ろから飛んできたボールは、見事に生徒の顔面を捉えた。
「いてえ!」
「お前ら何やってんだ!」
島田が口元に薄笑いを浮かべながらやってきた。
しかしその目は全く笑っていなかった。
「いって、生徒に暴力ふるっていいのかよ」
「暴力? そのボールか? 俺が投げたって証拠でもあんのか?」
島田はゆきの肩にポンと手を当てた後、生徒たちの前に出た。
「お前ら空手部の一年だな」
「それがどうしたんだよ」
「ちょっと待ってろ」
島田はそう言い残し、体育館裏の扉をポケットから出した鍵で開けると、試合中であるのを気にも留めず、大声で中に向かって、ある生徒の名を呼んだ。
「あらたー、ちょっとこい!」
「なんだよ先生、今いいとこなのに」
「あ、あらた先輩!」
座り込んでた二人も飛び上がって立ち上がった。
「おっす!」
さっきまでのだらしなさはどこへやら、体育館から出て来た勇磨に、三人は整列して挨拶した。
「なんだお前ら? なんで授業中にこんなとこにいるんだ?」
勇磨は不機嫌そうに三人をじろり見た。
スナック菓子の袋とペットボトルに気付いて、勇磨はこの状況を理解した。
「先生すみませんでした」
すかさず勇磨は頭を下げた。
「こいつら三人の不始末は空手部全体の不始末です。申し訳ありませんでした」
勇磨が頭を下げると三人は揃って蒼白な顔で頭を下げた。
「申し訳ありませんでした!」
そして勇磨は三人を振り返る。
鋭い目つきに三人は凍り付いた。
「今日、部活に顔出すわ。ミーティングするから、主将の速見にそう言っとけ」
「すみませんでした!」
三人は必要以上に片づけて、その場を逃げるように去っていった。
「ごめん。先生。あいつらしめとくよ」
「ああ、ほどほどにな」
勇磨が体育館に戻った後、ゆきはまだ足の震えが治まってなかった。
島田はそのままその場に三角座りをした。
「ちょっと汚れるけど、清水先生も座りませんか?」
「はい」
スカートを押さえるようにしてゆきはその場に座った。
「清水先生、この通りです」
島田はゆきに手を合わせた。
「ボールを当てたのと、生徒にあいつらを片づけさせたの教頭には黙っててください」
ゆきは呆気にとられた顔をした。
クスリと笑って「言いませんよ」そう言った。
「やれやれ、ほっとしました。あんまり褒められたもんじゃないですからね」
島田はへへへと笑った。
「さっき……さっき島田先生が来てくれて良かったです。私ひとりじゃ何にも……」
続きを言おうとして島田はそれを遮るように口を開いた。
「私も新が来てくれなければ何にもできなかったかも、一緒ですよね」
ゆきははにかむように笑った。
「はい」
「さあ行きましょう。二人でボール拾い頑張らないと」
「そうですね。頑張ります」
立ち上がったゆきの足は、もう震えが止まっていた。
「あ、そうだ、ボールが一個どうしても見つからないんです」
「じゃまずそれを二人で探しますか」
二人はそう言って戻って行った。
放課後島田が教室に戻ると、また体育教師の前田がゆきに絡んでいた。
「清水先生バスですよね、もし良かったら車なんで送りますよ。うちの学校山を切り拓いて建っているから便利悪いですよね。どちらにお住まいでしたっけ?」
ゆきは困った顔で受け答えしている。
島田はその様子を見て苦笑いした。
「そうそう体育館裏でのこと、聞きました。一年はああゆう奴がたまにいるんですよ。女性一人でああいうのと関わると危ないですよ。なんかあったら僕を頼ってください。僕がみんな解決しますから」
前田が言い終わるが早いか島田は口を挟んだ。
「余計なお世話だよ」
「島田先生……」
少し雰囲気が変わった島田に、前田が唖然とする。
島田は場の空気を乱してしまったことに気付いて、頭をボリボリと掻いて言い繕った。
「いや、失敬。清水先生は大丈夫」
島田は確信があるかのように言い切った。
「私はそう思ってます」
そう言うと気まずくなったせいか島田は席を立った。
「煙草吸ってきます」
教室を出て行った島田の背中を、ゆきは言葉もなくただ見つめていた。




