第4話 ひかりの部屋
住宅街にある、一軒の明るい白壁の家。
ひかりの横に並ぶ誠司は、どう見ても緊張している空気をまとわりつかせていた。
誠司の視線の先にはこの家の表札があり、そこには時任と彫られてあった。
誠司に話したいことがあると告げられ、それならと、ひかりは誠司を自宅に招いたのだった。
「大丈夫?」
あまり顔色の冴えない誠司に、ひかりが心配そうに声を掛ける。
「うん。ダイジョブ」
どうやら大丈夫そうじゃ無さそうだ。
誠司とひかりの両親とは入院先の病院で二度会っていた。しかし殆ど親同士で話していたので、きちんと対面するには心の準備が必要なのだろう。
ひかりはそんな誠司の手を取って、さあ入ってと促す。
「お見舞いに来てくれたお礼を言わないと。でも手土産も何も用意してないし……」
「そんな気を使わなくていいよ。お父さん帰るの遅くて家にいないけど、お母さん大歓迎だと思う」
ひかりが玄関扉を開けると、「お帰り」と奥から声がして、ひかりの母が台所から出てきた。
「あら」
ひかりの後ろにいる誠司に気付いて、ひかりの母は小さく声を上げた。
「あの、高木誠司です。いつぞやはお見舞いに来て下さってありがとうございました」
先にお礼を言いつつ、誠司は深く頭を下げた。
「いや、そんな、こちらこそ。高木さんには感謝してもしきれないのにそんなかしこまらないで」
丁寧過ぎる少年の挨拶に多少恐縮しながら、ひかりの母はにこやかに微笑んだ。
「さあ、あがってください。すぐお茶お持ちしますから」
「すみません。お邪魔します」
「ひかり、来るなら来るって言わないと、何も用意できないじゃない」
ちょっとした不満を口にした母に、「急に決まったの。ごめんね」と言い残し二人は階段を上がった。
通されたひかりの部屋の丸テーブルの前で、誠司は綺麗な正座をして部屋の中をちらちら見ていた。
どう見ても好奇心を隠せていない、緊張と幸福感が入り混じったような誠司の表情を、ひかりはやや恥ずかし気な面持ちで眺めていた。
「恥ずかしいから、あんまり見ないで……」
ひかりは誠司の斜め横に座り頬を赤らめる。
「ごめん。でもひかりちゃんの部屋だって思ったらつい」
「うん。でもほどほどに見て」
ひかりの部屋は綺麗に整頓されていた。
オレンジとピンクのクッションにパステル調の壁紙。
何もかもがひかりの色に染まった部屋の中で、二人は口数少なくお互いの顔をちらちら見ながら、ただ綺麗な姿勢で正座をしていた。
トントントン。
ノックの音。
誠司はひかりの顔から眼を逸らし、さらに姿勢を正した。
ひかりの母は紅茶とお菓子を持って部屋に入ってきた。
「ありがとう。お母さん」
「今日は本当に何もなくて、次はケーキでも用意しますね」
ニコニコ笑いながら、ひかりの母はカップにポットから紅茶を注ごうとする。
「私やるから。ありがとう」
「そう? じゃあごゆっくり」
そう言って腰を上げたひかりの母は、何となく机の隅に置かれた小さな袋に目を止めた。
「あれ、ひかりが焼いたクッキーでしょ? まだ高木君に渡してなかったの?」
ひかりは母のその言葉に飛び上がったあと、オタオタし始めた。
誤解して渡せなかったクッキーが、机の上に置きっぱなしになってあったのだった。
「お母さん何言ってるの、あれは違うのあれは、あれはその……」
「私に作り方聞いてすごい時間かけて作ってたじゃない。二回も失敗して」
「もう、おねがい。出てって」
ひかりは母の背中を押して無理やり追い出した。
ひかりが振り返ると誠司は立ち上がってクッキーの袋を手に取っていた。
「だめー!」
ひかりが誠司から袋を取り返そうとすると、二人はぴったり重なった。
その近さにうろたえたのは二人とも同じだった。誠司の腕がひかりの背に回る。
あの日と同じ。ひかりは鮮明に思い出す。
あの夕日の綺麗な日、好きだと言って抱きしめてくれたあの時。
少し早かったあなたの胸の鼓動、とても心地良かった。あなたのすべてを私に下さい。そう願った。
「大好き……」
ひかりの心が唇からあふれ出す。
「大好きだよ……」
そして誠司の唇からも。
「三秒、ううん。五秒だけこうしていていい?」
ひかりは願った。
「うん。もちろんだよ」
寄り添った誠司の胸の鼓動は、あの日の様に少しだけ早くてひかりにはそれが心地よかった。
きっと十秒以上そうしていただろう。しばらくして二人はゆっくりと離れた。
「クッキーなの……」
ひかりは渡せなかったクッキーの袋を胸に抱いた。
「あの……あのね、私あの日靴箱で話してる二人の会話を誤解しちゃって、用意してたクッキー渡せなくって……それにだいぶ割れちゃってもう一週間以上も経ってるし、食べれないから捨てようと思ってたの」
「駄目だよ」
誠司はひかりの手から袋をそっと自分の手に取った。
「開けていい?」
「駄目だよ。もう悪くなってるかも」
誠司は袋からクッキーを一つつまみ出す。
欠けたハートの形のクッキーは一口で誠司の口の中に消えた。
湿気を吸って柔らかくなってしまったクッキーは、きっと美味しくないだろう。
誠司はそんなクッキーを食べ終えてから、嬉しそうに眼を細めた。
「こんなおいしいクッキー食べたことないよ」
噛んでもさくりと音もしないクッキー。
ひかりの前で、もう一つ口に入れた誠司は、ただ幸せそうにその柔らかさを味わっているようだった。
「本当に美味しい。いくらでも食べられそうだ」
「また焼いたら食べてくれるかな……」
ひかりは少し目頭を熱くしながら言った。
「うん。勿論だよ。ありがとう」
そう言ってもう一つ取り出そうとした誠司の頬に、ひかりはスッと顔を近づけた。
誠司の頬にひかりの唇が触れる。
そしてつかの間の沈黙。
ゆっくり唇を離してひかりは囁く。
「大好き……」
誠司は耳まで真っ赤になりじっと固まっている。
ひかりも真っ赤になって、しばらくお互いを見ることができなかった。
「楓のことなんだよね」
「うん。そう、橘さんのことなんだ」
二人は頬を染めたまま座布団に腰を下ろす。
「なんだか喉乾いちゃった……」
「私も……」
テーブルを挟んで座り、紅茶をすすると少し落ち着いた。
「ひかりちゃん、これから話すことは二人だけの秘密にして欲しいんだ」
「うん。私、誰にも話さないよ」
「助かるよ。よく聞いてね」
誠司は今日島田から聞いたことを全部話して聞かせた。
「じゃあ高校でも被害者が出てるの? ひどい」
「田畑はかなりずる賢い奴だよ。なかなか尻尾を出さない。今日、勇磨とやりあったのも、田畑から挑発してわざと橘さんの前で勇磨に手を出させたのは間違いないよ。誰も気付かなかったかもしれないけど、勇磨が殴りかかる少し前、橘さんがそこにいるのを田畑は確認してた」
「そんな、わざと新君を……」
「それに勇磨の拳をまともに受けたらさすがに田畑も大怪我すると思ったんだろう。勢いよく吹っ飛んだように見えたけど、拳を上手く外して派手に自分で跳んだのはすぐに分かった。あくまでも橘さんの気を引くことと、そこにいる野次馬の目撃証言、それに邪魔な勇磨を陥れるための策だよ。実際勇磨は停学になりそうだし」
「私はどうしたらいい? 楓と新君のために何ができるかな?」
「ひかりちゃんは橘さんのそばにいて田畑と二人にさせないようにして欲しいんだ。これはひかりちゃん以外できないことだから。それともう一つ頼みがあるんだ」
ひかりは真剣に誠司の話に耳を傾ける。
「勇磨のこと、橘さんにいっぱい話してほしいんだ」
「新君のことを?」
ひかりは誠司の意図が分からず、少し考えるような仕草をする。
「ひかりちゃんも気付いてるよね。あの二人がなにか特別なこと」
そうだった。
ひかりは思い出した。楓が勇磨のことでひかりに見せた色んな表情を。
「俺は勇磨といつも一緒にいて、あいつのことは見たくなくてもよく見てるつもりなんだ。あいつはぶっきらぼうで口下手でいつも橘さんを怒らせてるけど、橘さんの前では他の誰にも見せない顔を見せるんだ」
「うん。誠司君が言ってること私も良く分かるよ。楓も新君にそんな感じなんだと思う」
「たぶん俺にも見せない特別なあいつ自身を橘さんにだけ知らず知らずのうちに見せているんだと思うんだ。だからいっぱいあいつの話をしてやって欲しい。田畑のことなんかどこにもなくなってしまうぐらい、橘さんの頭の中を勇磨のことでいっぱいにして欲しいんだ」
「うん。それなら私にもできそう」
「助かるよ。本当は田畑の噂をすべて話して近寄らないよう警告すべきなんだろうけど、橘さんが変にとって証拠がないのに話を大きくしてしまうと田畑も名誉が傷つけられたと騒ぎ出すかもしれない。そうなると学校が隠していたことを島田先生が話したといって先生の立場が危うくなる」
そこまで話して誠司は大きく息を吐いた。
「そして勇磨も救えない」
ひかりの前で誠司は辛そうだった。
「俺もどうしたらいいのか分からないんだ」
誠司はひかりに初めて自信のない表情を見せた。
「本当は特別ないい解決法があるわけじゃない。勇磨のこと橘さんのこと島田先生のこと、大事にしたい人たちが傷つくのは耐えられないんだ……」
「誠司君……」
ひかりは誠司の手をそっと握った。
「私がいるよ」
ひかりのひと言に誠司は顔を上げた。
「何があっても、どうなったとしても私はずっとそばにいるよ。一人で悩まないで。私にも半分わけて」
誠司はひかりの言葉に小さく頷いた。
誠司の心を簡単に開いてしまう少女、それが目の前のひかりだった。
「うん。そうだね……ひかりちゃんがいてくれるんだ。本当に嬉しい」
ひかりは誠司の頭にそっと手をやり自分の肩にもたせかけた。
そして包み込むようにひかりの腕が誠司の体に回される。
「しばらくこうしていてあげる」
ひかりの温もりに身を預け、誠司はゆっくりと目を閉じた。
しばらく目を閉じたままの誠司を、ひかりは頬を紅く染めながら抱きしめていた。
「ありがとう……」
ひかりの腕の中で誠司は小さな声でそう言った。
「すごく楽になった……きっと君が半分引き受けてくれたんだね……」
「うん。半分こだね」
「君を大切にしたいと願っていた……気付いたらこんなに大切にされていたなんて」
誠司は顔を上げて、もう大丈夫と優しい笑顔を見せた。
「ありがとう。なんだか落ち着いたよ」
「うん。良かった」
誠司はひかりと同じように頬を紅く染めながら、机の上に置いてあったひかりの携帯電話を指さした。
「俺も携帯買おうかなって思ってるんだ」
「じゃあ、これからはいつでも声が聴けるね」
ひかりは微笑む。
「うん。ね、ひかりちゃんの待ち受けってどんなか見せてもらっていい?」
「うん」
そう言ってひかりは誠司に携帯を見せようとした。
「ちょっと待ってね」
暗礁番号を素早く押して画面を出す。
そこにはひかりと楓のツーショットが写っていた。
「へえ、いい写真だね」
「体育祭のとき撮った写真なの」
誠司は写真に目を向けながら、ちょっとしたことをひかりに尋ねた。
「待ち受けの画面が出る前、ボタン押してたよね」
「うん。ロックを解除してたの。暗証番号入れないと画面開かないの」
「そうなんだ。ひかりちゃんは携帯で写真よく撮るの?」
「うん。多い方かも。ほとんど楓とだけど手軽に撮れるから。最近は普通のカメラ全然使ってないんだ。一年の時に買ってからずっと撮ってるからもう整理する気もないぐらい増えちゃって」
ひかりは楓とのツーショットを見せながら、待ち受けがこの目の前の少年だったならと想像してしまう。
ひかりがちょっと横道にそれてしまっている間に、誠司は何かをしきりと考えていた。
「田畑が女の子の写真を撮ったのも携帯かな?」
「かもしれないね。縦長だったら多分携帯だよ」
「携帯って他の人はロック解除できないよね」
「暗証番号が分からないと開かないんだけど……」
ひかりは何かを思い出したように続けた。
「友達で付き合ってる子たちは大体彼氏の携帯チェックしてる子が多いの」
「というと?」
「男の子って付き合ってても他の女の子に目移りする子が多いみたい。もちろん誠司君は違うよ」
ひかりはまた誠司のことを信じ切れずに誤解して空回りしてしまったことを思い出し、恥ずかしさを覚えた。
「だからこっそりロック解除して、メールとか通話履歴のチェックをしているみたい」
「暗証番号は?」
「付き合ってずっと一緒にいたら解除番号を押してるところ見ることがあったり、気に入った数字を知ってて、いれてみたら解除できたり、4桁だからそんなに難しくないみたい。別の女の子とのメール見ちゃって別れたとかよくあるみたいなの」
誠司はひかりの話を真剣に聞いていた。
「もしかしたらできることがあるかもしれない。ひかりちゃん、明日の朝俺と一緒に先生のとこに行ってくれない?」
「うん」
誠司は何かを思いついたようだった。