高校生活最後の夏
つまらない話ですが、少しの間お付き合い下さい。
彼の、高校生活最後の夏が終わった。
彼は、高校野球の聖地が織り成す熱気と喧騒の中を、全身から吹き出す汗も気にせず、ただひたすらに土をかき集めてはシューズバックに詰め込んでいく。
彼は、このチームの主将であり、エースであり、そして、その任が務まるか、という程無口な少年であり、口より背中でチームを引っ張るタイプのリーダーであった。が、聖地のマウンドに立つことは、遂に叶わなかった。彼は、地方予選をほぼ一人で投げ抜き、その結果、肘と肩を故障してしまい、この初戦に間に合わせることができなかった。
―任せて下さい!先輩の出番はねえっすよ!―この日の先発に指名された後輩投手は、威勢良く彼に叫ぶや否や聖地のマウンドに駆け出して行った……。
が、試合は、開始早々に大勢が決した。後輩投手の完全な一人相撲が原因であった。―条件が揃えばあるいは……―と、彼に緊急登板を匂わせていた監督も、この展開では、彼に一瞥を送るのが精一杯であった。
この舞台で、この雰囲気の中で試合ができた。この経験が、彼が去った後のチームにとって、どれ程貴重な財産になるだろうか。どんな強豪校も、最初から強豪であった訳ではないのだから。彼は、自分で自分をそう納得させながら、土を掬い続けた。
と、その時、彼の、土を掬う手がぴたりと止まった。右手の指が土以外の何かに触れた。手の平には少し余る大きさの、ラミネート処置された何からしいが、ここでは記者達が腹這いでカメラを構えているので、おおっぴらに確認することはできなかった。ゴミかとも思ったが、彼には何か感じる所があり、それを土ごとシューズバックに放り込むと、号泣しながら土を掬う後輩投手を横目に、そそくさとグランドに一礼し、ベンチ裏に引き下がった。ベンチ裏では、蒸せ返る様な熱気の中、彼のチームやら、次の試合を行うチームやら、記者やら何やらでごった返していたが、何とか隠れる場所を見つけて、顎から滴り落ちる汗を、土にまみれた手で気持ち程度に拭うと、シューズバックに放り込んだ【何か】を取り出した。
それは、福引券であった。表側に表題の他、【当日限り有効】【本券を関係者以外へ提示した場合無効】等の注意書があり、裏側には福引き会場への地図が簡単に記されていた。
彼は、混雑と熱気を掻き分け、周りの目を盗んで【関係者以外立入禁止】のプレートがぶら下がった鎖を跨ぎ、ようやくたどり着いたのが、【監督室】であった。券に記されている地図は、ここが福引き会場であることを示していた。
彼は、ここに至って迷いが生じた。悪戯の可能性は、極めて高い。そうならば、彼はいい笑い者になるだろう。が、道化なら、今日十分に演じた。夢にまで見たマウンドを目の前にして、エースでありながら、一球も投げることなく去る。これはもう悲劇を通り越して、喜劇ではないか。もう一つ道化を演じたところで、どうということは、ない。ここまで来て何もせずに帰るのか。彼は半ばやけになって、ドアを開けた。
空調の効いた、乾いた冷気に包まれるとともに、先ず目に入って来たのは、【福引き会場】という横断幕、次いで、普段は監督が座るであろう机にいる【女子高生】であった。開会式の入場行進そのままの姿、制服につば広帽子、彼女の後ろの壁には、プラカードすら立て掛けてあった。ただ一つ違うのは、部屋の空調が、彼女にとって効き過ぎていたのだろう、無難な色のカーディガンを羽織っていたこと位であろうか。彼女は、彼のいきなりの入室に慌てて立ち上り、言葉が出ないまま、彼と対峙していたが、彼のたどたどしい経緯説明と、提示された福引券に、更に驚きの表情を見せ、監督席にどさりと座り込んだ。
彼女は、予期せぬ来客に動揺しつつ、それでも【上】に確認するから、少し待っててくれと彼に言う位の機転を辛うじて利かせつつ、傍らの衝立の奥へと入っていった。一人残された彼は、改めて部屋の中を見てみることにした。入室当初は、何か貼ってある、位にしか思わなかった掲示物であるが、改めて見てみるに、その内容が内容であった。
先ず、福引きの開催者であるが、MLB、NPB、社会人野球連盟、全国大学野球連盟等、そうそうたる組織の連名である。
次いで、その景品は、
【1等、赤、MLB、10年間マイナー落ちなし、引退後球団幹部採用確定】
【2等、桃、MLB、10年間解雇なし、引退後の処遇は、成績に応ずる】
【3等、朱、NPB、1位指名、契約金1億以上、10年間降格なし】等々破格の条件が記された景品が、10程あり、その最後は、
【参加賞、茶、夏の思い出】とある。
更に、その周りに掲示されている写真がある。いずれも、とはいわないまでも、その中のかなりの割合で若き日の有名選手の姿がある。【桃色の玉を持って白い歯を見せる、黒人野球少年】写真に添えられた名前からすると、その黒人野球少年は、ルーキーながら50本のホームランを放った大型メジャーリーガーであり、【紫色の玉を持っている、細身の野球少年】更新は不可能といわれる、リーグ最多安打記録の保持者であり、云わずと知れたスーパースターである。
彼が、掲示物を一頻り見て、それらの真偽の判断がつきかねていると、まるでその頃合を見計らったかのようなタイミングで、衝立の奥から彼女が出てきた。内容までは分からなかったが、先ほどから、【上】と何やらひそひそと話しているのは聞こえていた。彼女は、彼と目が合うや否や、たどたどしく、しかもメモを見ながらであるが、割合にしっかりとした声で話し出した。内容は、彼に対する【上】からのメッセージであった。以下原文。
野球を愛し、野球に愛されなかったあなたへ。あなたは、今懐疑と絶望に包まれていることでしょう。でも、私達は、あなたの様な人達を、野球に裏切られ、野球を捨ててしまった原石達を、過去にたくさん見てきました。この【福引き】は、そんな少年達に夢を追って欲しくて、また、野球界に新たな風を吹かせることを目的に始めたことなのです。あなたは、福引き券に導かれてここへ来たと思っているでしょうが、それは間違いです。あなたにその資格があるから、福引き券があなたのところへやって来たのです。この券は、野球を愛し、野球に愛された者には、手の届かない所に隠されています。勝った者が、グランドの土を集めるでしょうか?万に一つその者の手に渡ったところで、会場へ来ようとするでしょうか?次の試合の準備で手一杯なのではないでしょうか。その者達は、定められた道を通って次の舞台へ行けば良いでしょう。知名度や、実績に依らず、野球に対する絶望、執着、そして勇気を以て選ばれたあなた。写真の若者達の様に、絶望を力に変え、野球界に大いなる風を起こすことを願っています。
彼は、溢れる涙を拭うことなく、彼女の棒読み原稿に聞き入っていた。下手に感情が入ってない分、余計に心に沁みてしまったらしい。彼女は、衝立の奥から【福引き器】を取り出し、彼の前に置いた。ハンドル以外は、完全なる透明な素材で出来ていて、その中は、ピンクや、赤だのといったカラフルな玉で埋め尽くされていた。ハンドルに触れなければ、という条件で彼も手にとって色々な角度にそれを傾けてみたが、見る限り不正の入り込む余地は、全くなさそうであった。また、【参加賞の茶玉】が全く見当たらない。彼女の話では、1個だけ確実に入っているそうである。【外れがない】というのは、福引きの性質上あり得ない。【但しその確率は最小限で】という【上】の【粋な計らい】からそうなったらしい。その後彼女は、彼に福引きの規則に関する事項をごく形式的に説明し始めた。
彼女の説明に対し、彼は、彼の地元に伝わる剣術で、必殺の一撃を繰り出す際に発する奇声を以て応じ、彼女を驚かせた。もう彼は、彼の中の昂る《たかぶる》何かを抑えること等到底ができないでいた。
彼の、高校生活最後の夏は、まだ終わってはいなかったのである。
後輩投手は、ベンチ裏の蒸せ返る様な熱気と人混みの中、汗だくになって彼を探していた。迎えのバスでは、彼がいないと大騒ぎになっていた。その雑沓の一角に彼は、涼しげな表情で静かに立っていた。
後輩投手の弁によると、彼の周りだけ時が止まっているかの様だっという。
後輩投手は、彼に駆け寄り、急ぐ旨伝えようとしたが、彼は、自身の口の前で、右手の人差し指を立て、後輩投手の発言を封じると、残った左手で後輩投手の右手首を引っ張り出し、その手のひらを素早く右手で力一杯握り込んだ。
彼は、後輩投手の手の感覚を、一瞬にして奪う程の握力で握りしめながら、苦痛に顔を歪ませる後輩投手に対し、今日の後輩投手の投球と、フィールディングがいかにまずかったを、一球、一球、詳細にかつ、機械的な口調で分析していった。
次に彼は、握力を微塵も弛めることなく、苦痛に顔を歪ませる後輩投手に対し、どれ程自分が、今日マウンドに立つことを夢見てきたか、それがかなわないと分かった時、どれ程絶望したか、マウンドに立つ一縷の希望を見事に打ち砕いた後輩投手の投球をどのような思いでベンチから見ていたのか、詳細にかつ、極めて冷静な口調で伝えた。
そして彼は、両手で後輩投手の右手を優しく包み込みながら、自分が去った後のチームのこと、人生の奥深さを学ぶことができたという点に於いて、今日の後輩投手には、どれ程感謝しても足りない位感謝していることを努めて明るい口調で伝え、最後に【俺は、必ず今日という思い出をぶち壊す】と言い残し雑沓の中へ消えて行った。
後輩投手は、呆然と彼を見送った。そして時間の経過とともに、右手の感覚が戻って来るにつれ、彼から、何か握り込まされていることに気付いた。
感覚が完全に戻りきらない右手の指であったが、それでも三本程を片手で引き剥がしたところで、手のひらにあった【何か】は、ころころと転がり落ち、2、3回程床で跳ねた後、音もなく雑沓の中に吸い込まれてしまった。
後輩投手の記憶によれば、一瞬のことで、はっきりとは断言できないが、それは、【茶色っぽい色をした小さな玉】であったらしい。
彼の、高校生活最後の夏が終わり、その代わりに何かが始まったようであるが、何が始まったのかは、まだ誰も分からない。了
最後まで読んで頂き、ありがとうございました。