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11-7.霹靂

 サリクスの月、現在ー。

 南の国ウルスター、ネイロン湖周辺。


 --------


 高く、もっと高く。深淵なる碧玉の海を潜るように、私は空を飛ぶ。

 静寂に鳴る無機質な風の音、無限に広がる蒼穹の高み。見上げれば見上げるほどに、私を吸い上げてゆくような…。


「ララ!飛びすぎだ!もっと高度を下げろ!」


「!」


 ハルの声に、はっと我に返る自分がいた。

 慌てて声の方を振り返ると、ハルの後ろで笑うリビエラが見える。


「すごいな!君は鳥のように飛ぶね、ララ!」


 どうやら私は、夢中になると途端に周りのことが見えなくなる性質らしい。


「ごっ、ごめんっ。」


 広大な空と大地。そこに解き放たれる開放感。何ものにもとらわれない自由。確かに、鳥になったように錯覚した。


 人間に戻った私は自重しつつ速度を落とし、高度を下げる。一息ついたころ、リビエラがはるか眼下を指さして言った。


「ねぇ、あれは何だろう?」


 見ると、大地に黒っぽいシミのようなものがある。

 水辺にしては色が濃いし、反射もしない。フラリンガスの巣でもなさそうだ。


「近づいてみよう。」


 ハルはそう言うと、急降下した。


 少しずづ、明瞭になる輪郭。茶色の大地に横たわるそれは、巨大な動物の死骸だった。

 長い首、大きな翼、鱗におおわれた一本足と立派なかぎ爪。


「あれって…。」


「フラリンガスだ。」


「フラリンガスって、天敵がいたっけ?」


 降下を続けて近づけば近づくほど、そこには壮絶な戦いの末に絶命したかのような跡が見える。

 大きく開いた嘴、まき散らされた吐しゃ物。内臓は飛び出して、地面も体躯も血まみれ。

 上空から見えていたのは、このどす黒く変色した大量の血だった。


 本来、フラリンガスの羽は白が基調。厳密に言えば生成り色なのだけれど、翼の先端部分は一様に茶色。

 その縁を彩るように淡いピンクや淡いターコイズグリーンがグラデーションを成して、それはそれは優美。その美しい羽が、あちこちに散乱していた。


「天敵はいないはずだけど…この内臓破裂は、死後に食い荒らされたものではなさそうだね。」


 リビエラが、真剣な眼差しで観察する。あまり近づくと、生臭い匂いが充満して私は耐えられそうもない。けれど二人は、悪臭を気にも留めない。


「ん…?止まってくれないか、ハル。」


 リビエラが、死骸の頭を覗き込んだ。


「どうしたの、リビエラ?」


「この目、白いはずの部分が黒に変色している…病気かな。」


「黒?」


 黙っていたハルが、反応した。


「…何か心当たりでも?とにかく、あまり近づかないほうがいいんじゃないかな。」


「ああ…。」


 ハルはそう言うと、死骸に箒をぐっと近づけた。


「ちょっ、近づかないほうがいいって僕が言ったばかりだけど!」


「肉を見てみろ、黒色に変化していないか。」


 ハルに促され、リビエラはフラリンガスの体内を覗き込んだ。

 私もつられて覗いたものの、あまりのグロテスクな光景に吐き気を抑えるのが精一杯。

 いったい二人の神経はどういう仕組みになっているんだろう?なんて思ったけれど、考えてみればリビエラは医学生。ハルはヌシの口の中に平気で突っ込んでいくような人だし、きっと二人は、私と違って()()()()()()を見慣れている。


 彼らは二言三言交わして死骸からすっと離れると、遠巻きに様子を見ていた私を手招きした。そしてハルは地面に着地するなり、藻草の採取は一旦中止すると言った。


「えっ?!なんで?!」


 まさに青天の霹靂。フラリンガスの死骸に遭遇したくらいで取り止めになるなんて、私は意味が分からなかった。


「ネイロン湖とその周辺を調査して、一晩様子を見る。

 死骸はここだけではないはずだ。」


「ここだけじゃないって、なんでわかるの?あのフラリンガスが病気だから?」


「いや…。」


 彼は冷静な眼差しを私に向けると、以前、東の国ランスターで起きた不思議な事件について話してくれた。

 それは、とある湖に出現した暴れる茨と変死した魚の話。


 --------


「黒い目?フラリンガスも変死した魚と同じってこと?」


「目や身の変色に内臓破裂。

 どちらも症状が酷似している。

 もっともこれは病ではなく、術式によるものだ。」


 ハルはそう言うと、指笛を鳴らした。

 すると、どこからともなく黒い一羽の鳥が現れる。


「レイヴンを呼び出してどうするの?」


「上王に知らせる。」


 はぁっ?なんでそうなる?!


 怒りと嫉妬が混ざり合う拒絶反応。

 私は、ハルを手の届かない場所へと連れ去ってしまうその名前が嫌いだ。


「ちぇ、役人が来るのか。

 ここが封鎖されたら、僕たちは追い出されて藻草どころじゃなくなるよ?」


 リビエラは頭の後ろに両手を当て、顔をしかめた。

 彼女の主張は、私ももっともだと思う。

 上王に報告すれば、たちまちミースの役人がやって来て、もしかするとこの先何か月もネイロン湖に近づくことができなくなるかもしれない。そうなれば、キャスを救う道は完全に閉ざされる。


「それは困る!!」


「だから知らせるんだ。」


「…あっ!」


 ハルはレイヴンを放ち、私は空に消える鳥をなす術もなく見送った。


「かっ、勝手に決めないで!今すぐじゃなくてもいいでしょうっ?」


 私はここに、藻草を取りに来た。断じて、フラリンガスの異変を上王に知らせるためじゃない。

 なんでそこを無視するの?


「まぁ落ち着いて、ララ。

 だから知らせるって、どういう意味だい、ハル?」


 リビエラは私の両肩に優しく手を置き、ハルにたずねた。すると、ハルからこんな返事が返ってきた。


「広域捜査局が来るのは時間の問題だ。

 彼女はあの事件にいたく関心を寄せていたから、上王の一存があれば、今なら捜査局は手が出せない。

 少なくとも、彼らの干渉を遅らせることはできる。」


「そう…なの?」


 私はこの意外な返答に戸惑い、リビエラを見た。


「そういうこと、らしいよ?力を貸してもらえるなら、悪くないんじゃない?」


 と、彼女は肩をすくめる。


「じゃ、じゃあ、良いんじゃない…。」


 膨らんでいた負の感情が、急激に萎む。無駄に腹を立てた自分に消化不良を抱えつつも、変なことを口走らなくてよかったとホッとする。


「それで、まずはどう動く?ハル?」


 リビエラが、私の頭を撫でながらハルにたずねた。


「このまま北上しつつ、ネイロン湖を周回する。

 日が落ちる前には、あいつらも来るだろう。

 それからララ、」


「ん、なに?」


「時雨をここに呼んでくれ。」


「時雨を?…わかった。」


 反射的に理由を聞きそうになり、思いとどまる。

 わざわざ時雨を呼ぶからには、それなりの意図があるのかもしれない。

 この時は、素直にそう思ったのだった。



 -------



 時雨を呼び寄せてから数時間、私達はハルに指示された場所を飛び回ってフラリンガスを調べ尽くした。


 ネイロン湖周辺と一口に言っても、ここは本当に広すぎる。二手に分かれても調査には限界があったけれど、取り敢えず大小合わせて数か所の巣を確認した。


 それから内蔵が破裂した個体は、最初に発見したものを合わせて7体。

 襲われて死んだと思われる死骸は25体。食いちぎられた雛を合わせると50体近くになる。

 特にネイロン湖は沢山のフラリンガスが水辺に倒れていて、その隙間を埋めるように立つフラリンガスが黙々と食事している光景が異様だった。


 このどさくさに紛れて藻草の一掴みくらい許されるんじゃないと考えたけれど、ハルも抜かりない。彼は私の行動を見透かしたように、湖に近づくなと厳しく注意した。


「わかってる、わかってるよ、湖には近づかないって!」


「よし。

 守をたのむぞ、時雨。」


「かしこまりました、ハル様。」


 無駄のない二人のやり取りは、まるで阿吽の呼吸。

 ハルが時雨を呼んだのはこのためだったのかと、私は一人唸った。


「ちょっと、時雨、あなたの主人は私では?」


「もちろんでございます、旦那さま。

 旦那さまをお守りしますのはこの時雨の役目。

 危険と承知の場所にみすみす主人を参らせるわけにはいきませんでしょう。

 ハル様がご心配なさるのもごもっともです。」


 時雨は鼻息も荒く、真面目くさった顔で言った。


「心配…?ものは言い様ね。」


「はて、どういう意味にございましょう、旦那さま?」


「何でもない。」


 彼は本当に、時雨の扱いが上手いと思う。



 -------



 ハルの予測通り、上王の命で派遣されたギルとアルバは、日が落ちる前に到着した。


 私がまず驚いたのは、ギルが普通に箒に乗って空からやってきたこと。

 聞けば彼は金の枝騎士団の団員になっていて、箒で空を飛ぶ許可をもらったらしい。


 私が「良かったね」と祝福すると、彼は「このくらいの特権はもらわないと割に合わない」と、冗談交じりの愚痴をこぼした。

 でも、騎士団の制服は品よく綺羅びやかで、ギルによく似合っている。

 彼はごく自然にハルに近づくと、「捜査局の報告書に目を通した」と幾分真剣な表情で言った。


「何か新しいことは?」


 まるで旧知の仲のように応対するハル。

 三か月近くも行動を共にしていたのだから、当然といえば当然。以前のピリピリした様子が嘘のようで、個人的には嬉しい変化だった。


「情報としては、俺たちの方が上をいってるね。

 漆黒の茨は“突然変異”として片付けられている。

 本来は、あの地方に自生する一般的な種だ。

 周辺環境に合わせて色を変容させる能力を持っている。

 術式の記載は一切なし。

 ま、あいつらは地下室の存在を知らないからな。

 本当に根こそぎ焼却したようだし、痕跡を見つけるのは不可能に近いだろうよ。

 全く、雑な仕事だ。」


「魚は?」


「目や身の変色は、飛び散った茨の棘に汚染されたのだと。

 要するに、棘に含まれた何らかの因子が魚にも作用したってことらしい。」


「そうか…。

 夜行性の性質についてはどんな結論が出てる。」


「夜行性?夜になると暴れることか?それについてはいくつか推論が挙げられていたな…結局は不明だ。」


 黙り込むハルを察して、ギルが続ける。


「あまり納得がいっていない顔だな?いいじゃないか、今夜のフラリンガス次第で、何かわかるかもしれない。」


「でもさ、私達は観察するだけ?夜になってフラリンガスが暴れたとしら、とんでもないことになるよね?普通の水鳥が暴れるのとは破壊力が桁外れだよ。」


 と、私は疑問をぶつけてみた。


「できることなら、個体を見分けて生け捕りにしたい。」


「だな。

 死後に術式が消える可能性を鑑みるなら、それが一番いい。」


「夜になるとここは真っ暗闇だ。

 月明かりでもあれば助かるけど。」


「今宵の月齢は26.5…三日月でございますね。」


「や…ちょっと待って、みんな本気で生け捕るの…?」


 弱気な私の頭上に、八つの目が一斉に注がれる。訪れた沈黙に、無言の圧。


 藻草が欲しいなら、やるしかない。


 ヴァイオレットの瞳は、言葉にせずともそう語っているように見えた。


「だ、だよね…生け捕るよね。」


「ララは何もしなくていい、全部俺たちがするから。

 君は安全なところで、静かに待っておいで。いいね?」


「うん…。」


 ギルの優しい言葉に、私はホッとした。ヌシのときもそら恐ろしかったけれど、私が彼らの役に立てるとは思えない。

 なんとなく視線を感じ、顔を上げる。と同時に、ハルが顔をそむけたように見えた。


 今、私を見てた…?


「じゃぁ、作戦を立てよう。

 僕は箒がないから…」


 私を置いて、皆が作戦会議を始める。蚊帳の外にいる私は、ぼんやりとその会話を聞いていたのだった。



 -------


 夜の砂漠は、人工的な明かりが一切なかった。

 頼れるのは、煌めく星々と薄い氷のような三日月だけ。

 皆は明かりを持たず、フラリンガスの巣が目視できる、少し距離がある場所で待機した。


 まるで時が止まっているように感じる長い時間。ゆっくりと傾く三日月がその頂点で美しく輝く頃。

 突如、辺りを貫く奇声が響き渡った。それは今思い返しても、不吉で狂気じみた野生の声だったと思う。


「始まった!」


 ギルが叫ぶと同時に、皆は飛び出した。眠っていたフラリンガスが一斉に目覚め、飛び立つ。甲高い鳴き声と羽音のせいで、空が一気に騒々しくなった。


 私は一人きり背の高い草むらの影に縮こまり、目の前の長い草を握りしめていた。

 遠くで、皆の声が聞こえる。薄い月明かりに、空を舞う人影が見える。彼らは早口に叫びながら、手際よく布陣を引いていた。


 発狂したフラリンガスは、二体いるらしかった。そのうちの一体を仕留めろ、とハルが叫ぶ。

 その直後、荒れ狂うフラリンガスがぼんやりと闇に浮かび上がる。アルバが、矢を放って塗料をかけたのだと思った。


 魔法らしき光が闇を割き、激しい破裂音がする。そしてその中に、時雨の操る刃物の音がかすかに聞こえる。


 乱舞する翼の音、フラリンガスの奇声。どれくらい時間が過ぎただろう?誰かが首を狙えと叫び、しばらくの後、どおんという地響きがここまで伝わって、私の身体まで震えた。

 それでも、戦闘はまだ終わらない。


 ギーギー ツァッツァッ…


「ひぃっ。」


 飛び出す悲鳴を、私は押し殺した。


 ギーギーギー ツァッツァッツァッ…


 すぐそばで、不思議な鳴き音が聞こえる。


「な、なによぉ…何の音?」


 怖い。正体が見えないのはもっと怖い。

 ただでさえ暗いところが苦手なのに、自分はここから一歩も動けないと思った。

 固唾をのむ喉がごくりと鳴って、飛び出しそうな心臓を抑え込む。

 私はその場でゆっくりと辺りを見回し、音の正体を見極めようと必死になった。


 ツァッツァッ… ギー…


「ひっ!」


 私が隠れていた茂みから、距離はほんの二メートルほど。


「あなた…」


「ギー…。」


「震えてるの?」


「ギーギー…。」


 不気味な音の正体は、フラリンガスの雛だった。

 といっても、背の高さは私とあまり変わらない。

 小刻みに怯えるその羽毛を見た途端、私の恐怖心は跡形もなく吹き飛んだ。


「お、おいで…そこにいると危ないよ。

 頭がおかしくなった仲間に襲われちゃうかもしれないんだから…ほら。」


「ギーギー…。」


 雛は鳴き声をあげながら、手を伸ばすと触れそうな距離で一進一退を繰り返す。


「あなたがそこで鳴いていると、私も危険なの。

 せめて座ってくれないと…そうだ…動かないでね。」


 できるだけ音をたてないよう、ゆっくりと雛に近づいた。手を伸ばし、翼に触れる。それから胴へと伸ばし、姿勢を低くしながら座るように促した。


「しーっ…上手ね。」


 私は雛を優しくなで続け、お互いの身体を寄せ合うように座り込んだ。相手も安心したのか、震える体が、少しずつ治まっていく。


「ふぅ…。もう少し我慢して隠れていようね。

 ん…?なに?」


 雛は長い首を起用にくねらせ、興味深げに嘴で私の髪に触れる。


「ふはは…くすぐったい。」


 シュルッ


「わっ、それはだめよ。」


 パクパクパク


「お腹がすいてるの?そのリボンは食べ物じゃないよ。」


 パクパクパク


 遊んでいるのか、食べようとしているのかわからない。咀嚼の練習でもしているのかな?

 私は、雛が嘴にリボンをはさんで何度も口をパクパクと鳴らすのを微笑ましく眺めていた。


「それで気がまぎれるなら、良いよね。」


 張り詰めた夜に訪れた、心温まる一瞬。私は雛の身体に半身を預け、抱き枕を抱くみたいに腕を絡めた。一刻も早く夜が明けることを願って。


 だがしかし…夜は長かった。狂った二体のうち一体は地面に倒れているのが見えたけれど、それが生け捕りになったものなのか、仕留められたものなのか、私にはわからなかった。

 五人は、残る一体に手を焼いている。長い間事態に変化がないように思えたころ、大きな雷のような光が爆音とともに縦に延び、フラリンガスを打った。


「ギーッ!!」


「きゃぁっ!」


 私が叫び声をあげたのは、爆音のせいじゃない。雛が突然叫んだかと思うと、ものすごい勢いで飛び出したからだ。


「わっ!ちょっと、待って!!」


 私は、リードに引っ張られる飼い主みたいに雛について行った。というのも、雛はリボンをしっかりと咥えていて、その端は私の手首に巻いてあったから。

 勢いよく走り出した衝撃で手首のリボンが締まり、簡単にはほどけなくなっていた。


 ほぼ一本足の怪鳥の雛は、赤ちゃんのくせに健脚だ。強靭な腱と強い跳躍で、私の足は地面から離れ、ロデオライダーみたいに揺れた。

 細い首と胴体に必死にしがみつき、手首のリボンがなかったらとっくに振り落とされている。


「ララ!何をしている!」


「リボンが外れないの!」


 箒に乗ったハルが、私のもとに飛んでくる。彼は一瞬で状況を把握すると、「少し痺れるが堪えろ」と叫んだ。


「うっ!」


 身構える間もなく身体にピリリと刺激が走り、雛が驚いてギーッと叫んだ。

 嘴のリボンが離れ、身体が急に軽くなる。転げ落ちると覚悟した瞬間、私はハルの香りに包まれた。


「なぜじっとしていられないんだ?」


 ハルの声が響き、私はただ彼にしがみついてあふれそうになる涙を堪えた。安堵と情けなさが絡み合って、何も言葉にできない。迷惑をかけるつもりなんてないのに、なんでいつもこうなるんだろう?


 滲む涙の向こうに、走る雛の姿が見える。その背後に、ぼんやりと揺れる黒い影。それがフラリンガスの身体の一部だと気づいた時には、もう遅かった。


「ハル、後ろ!」「上だ、ハル!」


 リビエラ、時雨、ギル、そしてアルバ。皆が猛烈な勢いでこちらに向かって飛んできて、口々に何か叫んだ。それは何かとてもよくないことが私たちに起きていることを知らせ、次の長い一瞬が私の頭上でスローモーションのように続いた。


 飛び跳ねる雛、それを捕らえようと背後から追う母フラリンガス。そして上から迫りくる、塗料を浴びたもう一体。それら全てが、一点で交わった。

 そのとき何が起きたのか、正確には覚えていない。ただハルにしがみつき、彼が私を強く抱きしめてくれた温もりだけを覚えている。


 ゴオォッ


 突風が巻き上がり、吸い込まれるような音がした。フラリンガスの強烈な雄たけびが鳴る。

 私はハルに守られたまま地面に滑り込み、高く打ち上げられた巨体が、勢いよく落下するのを見た。そしてその向こうに、雛を咥えて飛び去る母フラリンガスの姿があった。


 私は、ハルの腕を押し上げて身体を起こした。

 強い衝撃のせいで少しふらつくけれど、怪我はない。


「ハル…大丈夫?」


 私は彼の肩に触れた。返事がない。


「ハル…?」


 途端に、言い知れぬ不安に襲われる。私は詰め寄り、さっきよりも強くハルの肩を揺らした。

 生ぬるい液体が膝に触れ、瞬く間に広がっていく。

 血だ。


「何これ?誰の血?ハル、ハル!お願い、返事をして!!」


「どうした?ララ!」


 皆が駆け寄り、血の海に気づいたリビエラの表情が瞬く間に変わった。


「大変だ…!離れて、ララ!時雨、どこだい!」


「は、はい!こちらに!」


「君はララを頼む!」「承知しました!」


「リヴ、嫌だ…ハルが死んじゃう!ハル!」


 私は引き離され、崩れ落ちそうになる身体をアルバに支えられた。


 リビエラとギルがハルを取り囲み、二人は傷口だとか、止血だとか、口々に言いながら衣類を破る音が重なった。

 焦りと緊張を帯びた、別人のように厳しいリビエラの声。初めて聞いたその声色に、事態がどれほど深刻なことかを思い知らされる。

 私の体は、ハルが死んでしまうかもしれないという恐怖に、いつまでも震えが止まらなかった。

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