11-5.犬
6月、サリクスの月。
時は少し遡り、ハルのイーリーベル帰宅当日。
首都国家ミース、朝の王城にて。
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「平熱…ですな。」
初老の王室付き医官は目を細め、手にした体温計を懐におさめた。
目の前の寝台には、深々と身を沈める赤髪の上王メイヴがいる。
「お顔の血色がすこぶるすぐれぬご様子。
お疲れがたまっておられるのでしょう。」
医官がそう言うと、上王はしおらしくこう答えた。
「昨夜は寝つきが悪かったように思う。
そのせいかもしれないな、食欲もわかないのだ。」
医官は軽く頷き、脇に立つ付き添いの娘に視線を移す。
「今朝は白湯を数口。
今、粥を用意させております。」
と、医師の意図を解した娘はよどみなく答えた。
「昨晩はしっかりと召し上がられたのかね。」
「普段よりは少なめであったかと…。」
娘の控えめな言い方に、医官は小さくため息をついた。
「陛下、体力はまず食事からでございます。
数値はいずれも正常、御身はご健康であられるはずなのですから。」
「わかっている、私も食事の量には気を付けているつもりだ。
だが、不思議と食べ物が喉を通らぬのだよ、昨晩のように風の鳴る日は…。」
「風が強うございましたか。」
「ああ、風が鳴っていた。
私にはしかと聞こえたぞ。」
「さようでございますか。」
医官はそう答えると、静かに立ち上がった。
「それでは陛下、本日はご公務をお控えになり、静養なさることをお勧めいたします。
私からストライドにそう申し伝えましょう。」
「そうか…少し、身体が重い…私はしばらく眠る。」
上王はいかにも重々しく言うと、左肩を上にして医官に背を向けた。
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「ストライド、いたのか。」
医官が上王の寝所を出ると、その正面にストライドと呼ばれた若い男は立っていた。
彼は会釈し、落ち着きのある声で尋ねた。
「陛下のご容態は、いかがでしょうか。」
「うむ…。」
初老の人は眉根を寄せて小さく唸り、寝所のドアが閉まったことを確認すると、ゆっくりと歩みを進めた。
ストライドは歩調を合わせるように隣に並ぶ。
「相変わらずだ…御身体はいたって健康。
問題は心の内にある。」
「なるほど。」
「もはや君は驚かないか…。
とはいえ、今更ご無理をなさるのも強要も逆効果だろうて。
御自身の意志いかん、今のままでは劇的な改善は望めまい、そういうことだ。」
「ご心労、お察しいたします。」
「いや、私は同じ言葉をそっくりそのまま君に贈りたいよ。
互いに陛下の幼少より仕えてきた身、大方の読みは間違っておらんだろう。」
医官は意味ありげにため息交じりの言葉を吐くと、自身の足取りの数歩先を見つめて黙した。
ストライドもまた、その沈黙に寄り添うように押し黙る。
「自分の知っている陛下は、ご自身の道をしっかりと見据えておられる方でした。」
と、ストライドが口を開く。
「そうだな、そういうところは確かにおありだった。
あのお方は人見知りの傾向…かわいらしく言うとなればだが…。
別の言い方をすれば、他者を遠ざける技に長けておられる。」
「…好き嫌いがはっきりしている、ということでしょうか。」
「そう単純な話ではない。
もっと奥深く、天性の素質のようなものだ。
実のところ、先代は陛下のその気質を大変気に入っておられた。
もっとも妃殿下は、あの子は自分とは違うものを見ているようだと、不安を口になさることの方が多かったが。」
「そうですか…初耳です。」
「意外だな、君にも初耳なことがあるのか。
兄妹同然に育った君にも。」
「買いかぶりがすぎます、バルルート医官殿。」
「そうだろうか?まぁよい…。
陛下の今日のご予定だが、私はご静養が必要だと判断した。
そのように万事取り計らってくれまいか。」
「承知しました。」
ストライドは軽く礼をすると、立ち去るバルルートを見送った。
そしてつかの間、医師の姿が消えると見るや、踵を返して急ぎ主の元へと舞い戻る。
寝所の扉をノックすると、付き添いの娘が応じた。
「ゾエ、陛下のご様子は?」
言いながら、彼は返事も待たずに上王が眠る寝台へと向かった。
「まだお休みに…。」
ゾエと呼ばれた娘が、小走りにストライドを追いかける。
「そうか。」
そう言った彼の声には、真実を見抜いた人間の強さが宿っていた。
だから彼は寝台の前で立ち止まると、上王の枕元に向かってこう言った。
「仮病の時間は終わりです、陛下!」
「声が大きいぞ、スタン。
バルルートの爺は帰ったか。」
「ええ、確かに医務室にお戻りになりました。」
「よし、では支度だ、ゾエ!」
上王メイヴは高らかな声を上げると、飛び起きて娘を呼んだ。
「お兄様。」
ゾエは召しものを持ってやってくると、スタンに背を向けるよう目配せした。
ゾエ・ストライドとトリスタン・ストライドは、実の兄妹である。
「陛下、古老は気づいておられます。」
メイヴに背を向け、スタンは言った。
「爺がそう言ったのか?」
「いえ、はっきりとは…。」
「なら、問題ない。」
「問題のあるなしで片付けて良いことではありません。
あまり我儘がすぎますと、古老の評価を落としかねます。
ひいては御身のお立場にも関わってくるのですよ。
もう少し国政に興味を…」
「朝からうるさく言うな。
ゾエ、お前の兄はいつからあのように説教臭くなった?」
おどけてうんざり顔をして見せるメイヴに、ゾエは思わず吹き出しそうになるのを堪えた。
「それはそうと、今日は議会が三件、そのうちの二つは傍聴だったな。」
「はい。」
「ふん、議事録で十分だ。
爺の指示通り、全て欠席にしておけ。
我が駄犬どもは、もう来ているのだろう?」
「なぜそれを?」
「愛犬どもの様子でわかる。
およそ昨夜のうちに到着したのだろう。
お前が私に報告しなかった理由も、お見通しだ。
もういいぞ。」
メイヴは着替えを済ませると、スタンに合図した。
「それで、今朝の仮病というわけですか。」
彼はメイヴを見た。
赤みの強い美しいワインレッドの髪を結み上げた姿勢の良い立姿は、まるで、生まれてこの方病などわずらったこともないような凛々しい顔を空に向けている。
「あの二名からの報告は、本日のご公務をお済ませになった後でも問題ないと判断いたしました。」
「優先順位を見誤るな、スタン。
今の私に、あの二人の報告を聞くこと以上に重要なことはない。」
メイヴは鋭い表情を浮かべ、スタンの前を通り過ぎた。向かう先は、寝所から続く秘密の地下通路。
かつての金の枝騎士団の拠点―現在は上王の愛犬の犬舎と変わり果てた館―の一室である。
「お言葉ですが陛下、今回の報告は、二人の様子からしても急を要するものではありません。
陛下のお耳に入れるのが一日遅れたとしても、なんら差異はないでしょう。
私の判断が信用ならぬということでしょうか。」
暗い石造りの通路を行きながら、メイヴの後に続くスタンは言った。
「そうは言っていない。」
「ならばもう少し、下々に望まれる振る舞いをしていただかなくては。
陛下は国政に興味をお持ちでないと、すでに多くの者が感じております。」
「興味がないわけではない、今は優先順位が低いだけだ。
望まぬ噂の払しょくこそ、お前の腕の見せどころではないのか。」
「広まりすぎた噂を鎮めるには、陛下御自身が明確なご意思をお示しになることが最も効果的です。」
「今日はやけに反抗するな。
もしや、拗ねているのか。
私がお前の判断よりもあの二人を優先させたことに?」
メイヴは立ち止まり、スタンを振り返った。
たった今発した言葉以上の、スタンの心中に巣くう思いを確かめるように、高貴なサファイアの瞳は眼前の男を捕える。
「なぜそのようなお考えになるのですか。
異常なほどフォンウェールにご執心なさるという自覚はおありなのですね。」
スタンは、微塵も怯むことなく言い返した。
この彼の姿勢もまた、メイヴがそばに置き続ける理由の一つである。
「あれは逸材だ、お前も奴の価値を承知しているはずだが。」
「それは否定いたしません。」
「なら、そのような卑屈な言い方をするな。
私はお前の判断を信用していないわけではない。」
メイヴはそう言うと、一呼吸おいて再び口を開いた。
「スタン、お前は優秀で、私にはなくてはならない存在だ。
臣下として、お前があと二人いればと願うほどに。
同じく我が志の成就のためには、フォンウェールを欠くことはできない。
常に私のそばにいるお前になら、理解できぬこととは思えないのだが?」
「陛下は、フォンウェールに対してあまりにも寛容でいらっしゃいます。」
「私がお前に示す寛容さより?」
「!」
メイヴはスタンが言葉を詰まらせたのを確認すると、前方に向き直った。
「まぁいい、拗ねるのも人間の感情の一つだ。」
私は拗ねてなどいない―。
スタンは固く口を閉ざし、それ以上言葉にすることを慎んだ。
終始メイヴのそばに仕える身として、彼はフォンウェール、つまりハルの才能を魔法科時代から目の当たりにしている。当時から圧倒的だったその実力に、疑問の余地はない。しかし、いつかあの男が上王を裏切るのではないか、という感触がぬぐえないのである。
その原因はなんだろうか。おそらくはあの男の態度と、広域捜査局を辞した経緯についての、お世辞にも良いとは言えない噂。
火のないところに煙は立たず。
スタンは噂をそのように捉えている。ゆえに、フォンウェールの悪評を意に介さない上王の盲目的とも言える執着を、彼は一人危惧しているのだった。
スタンは、先を征くわが生涯の主人メイヴの背中を見つめた。ふと、先ほどのバルルートの言葉が脳裏をよぎる。
“他者を遠ざける技に長けている”
老医官がメイヴを評した言葉の真意がどこにあるのか、彼はまだ腑に落ちない。
(他者を遠ざける?フォンウェールに関して言えば、真逆じゃないか…。)
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その喧騒は思いのほか、神経を逆なでする。
早朝から館内に響く子犬の甲高い鳴き声は、当然、激しくギルを苛立たせていた。
「あー、うるさい!これはいったいどういうことだ?!夜明け前から子犬どもがキャンキャンわめいて、ろくに睡眠もとれなかった!」
両耳を左右の手で塞ぎ、ギル―ギリアム―またの名をアーリッド・ランバールは歯ぎしりをしながら室内を徘徊していた。
壁際に腕組をして静かに立つハルは、まるでこの喧騒から隔離された異空間に佇んでいるかのように落ち着いている。彼は、ギルに向かって唇を動かした。
“お前の声も十分うるさい。”
「すました顔をするな、フォンウェール。
余計に腹が立つ。」
読み取ったギルは表情一つ変えないハルに当たり散らすと、ひじ掛けのついた立派な一人掛けソファにドサリと腰を下ろした。
「お前なぁ、本当に、ここがそうだって言うのか?あの金の枝騎士団の拠点だと?」
ギルはふてくされながらも、ハルに話しかけた。
この部屋には今、二人しかいない。
上王から下された任務を終え、報告のために指定された場所に昨夜遅く(厳密には今日)戻って来たのである。
「ああ。」
「ああって…、それだけかよ。
確かに、金の枝が零落したという噂は俺も耳にしたことがある…。
とはいえ、まがりなりにも上王直属の一団、犬どもに占拠されてまともなのはこの隠し部屋しかないなんてあり得ないだろ!アルバの先導がなかったら、入口すら見つけられなかったんだぞ。」
「上王は愛犬家と名高いが、オレも館の凄まじい変貌ぶりには驚いた。」
ハルの返答に、ギルは煮え切らない表情で彼を一瞥した。三か月近く行動を共にしているが、相変わらず、驚いている素振りの区別がつかないのである。
「そうかい、さすがのフォンウェール殿も驚きなさったか。」
「鼻につく言い方だな。
オレたちはいわば日陰の身。
逆にどんな待遇を期待していたんだ?」
「人として最低限の扱いだよ。
まさか犬と同じ館で待たされるとは思わないだろ?俺の破壊されたプライドを何とかしてくれ。」
“あの女の神経はどうなってる?!”
ギルは憎々し気な形相で唇を動かした。
「自ら飼い犬に成り下がっておいて、随分な主張だ。」
「そりゃそうだ。
あー、うるさい、眠い。」
ギルは気だるげに答えると、会話を切り上げた。
確かに、ハルを上王の飼い犬と蔑んだのも、自ら彼女の飼い犬になる道を選んだのも、自分である。
つと、部屋のとある一面から音がした。
「誰か来る。」
二人は、瞬時に音のする方を見た。
そこは、壁の一部に長い鉄格子が数本、縦にはめられている場所だった。
格子の端から端までは、おおよそ大人一人が通れる程度。そしてその向こうに、小さな空間と鉄で補強された重厚な木製のドアが一つ設けられている。
それは、彼らが昨晩この部屋に入ってきたドアとは別のものだった。
続いてガチャリと何かを回す音が聞こえたのは、鍵が解錠されたのだろう。息を凝らしていると、若い男が扉の向こうから姿を現した。
深い青みを帯びた短髪の黒髪、そして典型的な北の国ノウルドの人を想起させる淡いブルーグリーンの瞳。明らかに上位の制服に身を包んだその男。
「ストライド。」
ギルが男の名を呼ぶと、その背後から上王メイヴが現れた。
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「さて、お前たちは何を持ち帰って来た?早速、報告を聞くとしようか。」
深々と椅子に腰かけた上王は、二人に成果をたずねた。
「結論から申し上げますと、オーリズ・ランバールの消息を掴むことはできませんでした。」
ハルは単刀直入にそう言うと、後を続けた。
「捜索の範囲はリアフェス全土、疑わしい人物は数名確認されましたが、調査の結果いずれも本人ではありませんでした。
詳細は全てアルバ(黄金の矢を持つ使者)が記録しています。」
「つまり、生死の判断すら明言できないと?」
上王の声には、失望の色が滲んでいた。
「ギリアムの主張を信じるならば、生きているが行方知れず、というべきでしょうか。」
「それでは調査前と何も変わらない。
ときに、前回私が命じた仕事は、公式に死亡とされたアーリッド・ランバールの捜索だったな。」
「はい。」
「かの件でお前は見事私の期待に応え、任務を果たした。
だが、今回はどうしたものか?この全く手ごたえのない報告をどう釈明する。」
「前回と今回の相違点は二つ。
一つ目は、捜索にあたっての情報量の差。
前回は必要十分であり、今回はそうではありませんでした。
二つ目は、ターゲットが残すわずかな生活痕。
方々を渡り歩いていたギリアムに比べ、オーリズ・ランバールは6年前に王城から姿を消して以降、周辺の早い段階で忽然とその消息を絶っています。」
「周辺の早い段階…。
では、そこにどのような可能性があると考える?」
「考え付く可能性は三つ。
オーリズ・ランバールは一人で逃げたのではなく、第三者に連れ去られ痕跡を消された。
もしくは逃走中、無関係の偶発的な事件事故に巻き込まれた。
そして可能性としては低いものの、妖精の領域に足を踏み入れた。」
「なるほど、さすがに妖精の領域まで調査するのは難儀だな。
かの地で人間が暮らすことは許されないが、追い詰められた者なら…。」
メイヴは腕を組み、考え込むように言った。
そこに、ハルはこう続けた。
「そもそも、なぜオーリズ・ランバールは姿をくらませなければならなかったのか、その原因を解明しなければ解決は難しい。」
「言い訳がましいな、フォンウェール。」
と、ストライドが口をはさんだ。立場をわきまえないハルの口ぶりに、苛ついたのである。
「喧嘩を売りたいのか、ストライド。」と今度はギルが相手を制した。
「俺たちは詳しい事情を与えられないまま、ランバールを探せと命じられた。
フォンウェールの報告は言い訳ではなく、調査とそれに基づく考察の結果だ。」
普段は飄々とした態度で相手をいなすギルが、意外にも攻撃的に反論した。
濡れ衣を着せられた父親。彼の汚名を晴らす千載一遇の機会が徒労に終わり、彼は今、ここにいる四人の誰よりも深く失望している。
この感情の昂ぶりは、朝から犬の鳴き声に十分すぎるほど神経を逆なでされたことが一因、というだけではないのだ。
しかし、ストライドも引かない。
「情報が少ないことは、お前たちも承知していたはずだ。
父親は生きていると根拠なく言い張るお前こそ、何か隠しごとがあるんじゃないのか、アーリッド・ランバール?」
「なんだと?」
「やめないか、二人とも!」
メイヴの叱咤に男二人が静かになると、彼女は改めて口を開いた。
「私は、お前たちの言う通り詳しい情報を伏せてオーリズの捜索を命じた。
正直結果は期待外れだが、想定内でもある。
よって、今回はこれでよい。
いずれ詳しい説明をする日が、いや、しなければならない日が来るだろう。」
「御意。」
「ところで、他に何か気になる事件に遭遇はしなかったか。」
「気になる…。」
ハルが独り言ちていると、その隣でギルが「ああ、あれだ。」と発した。
「あれ、とは?」
ハルが、ギルを振り返る。
「生きている茨。
東の国ランスターを南下している途中の湖畔で見つけただろう、廃要塞の焼け跡を。」
「ああ、そうだったな。」
「なんだ?その生きている茨というのは?」
メイヴは、身を乗り出して二人にたずねた。




