2-1.移動
「ねぇ。キャス、やっぱり戻らない?」
私は先を歩く親友に、小声で言った。
「何言ってるの。
城の敷地内だから大丈夫だって、何度も言ったじゃない?」
キャスの言う『城』とは、私たちが宿泊している古城のこと。
半月が空に浮かぶ静かな夏至の夜、私たちは古城の敷地内にある、背の低い丘を上っていた。
彼女は大股でザクザクと進み、私の言葉に足を止める気配は全くない。
「あのさ、塚まで結構遠くない?
思ったより暗いし、こんなところで襲われたら逃げられないよ。」
「ララぁ…。なに?その襲われる前提。
宿泊客しか入れない敷地に、どんなヤバいやつがいるっていうのよ。」
キャスは、笑いながらこたえる。
「だって暗いんだもん。
丘の向こうから何か出てきたら、どうする?」
私は暗い所が苦手だ。言葉にした瞬間から、何かに狙われているような気がして、背筋がムズムズする。今更ながら、わざわざ塚の前で『ステラの誓い』なんてしなくてもいいんじゃないかと思い始めていた。
そりゃあ、カフェの店主から話を聞いた時は面白そうだと思ったし、初めは私もはしゃいでたけれど。今は、余計な事を教えてくれた店主を恨めしく思う。
「ほんっと、怖がりだなぁ。ほら。」
キャスはそう言って立ち止まると、私の方を向いて手を伸ばした。
「ほら、繋いであげる。」
キラキラした青い目が、私を見つめていた。私は彼女のこの瞳が大好きだ。地球のように美しい青色に見つめられると、無理なことも上手くいくんじゃないかと思えてくる。
「怖いのって、伝わるんだって。」
ホッとしているくせに、ついひねくれたことを言う私。
「それなら逆に、ララの恐怖心が消えちゃうかもね?」
キャスは自信たっぷりのキュートな笑顔を見せると、私の手をギュッと握った。
肌の温もりが、伝わる。
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「ほら、着いたよ!」
キャスに手を引かれて、なだらかな丘を何とか登りきった。
枝を広げた大木が一本、その傍に私たちよりも背の高い、石を組み上げた古い塚がある。
他に視界を遮るものがない青草の丘から、私は城の方を振り返った。
昼に立ち寄った、敷地内のカフェ『ホワイトステラ』の小さな看板に灯りが見える。
ファサッ
「うわっ。」
髪が乱れるほどの風が、音を立てて吹き上げた。
「凄い風ね、キャス。」
キャスの返事がない。
私は不安になって、彼女を振り返った。
「キャス?」
そこに、ニタリと笑う自称偉大な魔法使いオルランドの顔があった。
「うっはわぁっ。」
私は驚いて、ベッドからとび起きた。
「夢…。」
ホッとするも、オルランドに起こされるのはお世辞にもいい気分とはいえない。
ここは、イーリーベルの私の部屋(仮)。昨日と何も変わらない、今の私の現実(泣)。
私は、ベッドの上から部屋を眺めた。明るい時間にこの部屋を見るのは、初めてだ。
はりのある天井、壁は腰の高さ辺りまで羽目板が巡らせてあり、壁紙の模様は繊細な葡萄の蔓。物置きのようだった部屋は、綺麗に片付けてあった。
(いつの間に…?)
記憶がすっぽりと抜けている気がして、昨晩のことを思い返してみた。
昨日は確か、イーリーベルに戻った後、改めてハルにシルキィとリビエラを紹介してもらった。
シルキィは、食事・掃除など、この家に関わる全てを取り仕切っている家屋精霊。そう、人間じゃなくて精霊。
そしてリビエラは、この辺りで一番大きなウィッスルという街の学校に通う、学生。
翡翠色の青みがかった艶やかな髪に、明るい琥珀色の目をした綺麗な男の子。年は私の二つ上だと言っていたから、私たちの世界でいう大学生に相当する。
それから…私の疲労は相当だったらしく、夕食を食べている途中から記憶がない。
どうやってベッドに戻ったのかも、思い出せない。…思い出せないけれど、結果としてベッドにいるのだから、這いつくばって部屋に帰るでもして何とかなったのだと思う。
そして、今日はここに来て二度目の朝。
ん?…二度目?
突然、脳裏に電光石火のごとく刺激が走り、私は素足のまま靴を履いて、脱兎のごとく部屋を出た。
考えるよりも先に、体が動いていた。
シルキィが用意してくれた寝間着のまま玄関を抜け、家を飛び出す。
ダイニングのあたりでハルに呼び止められたような気がしたけれど、それどころじゃない。
たかが二日、されど二日。
どうか、取り返しのつかないことになっていませんように。
不安の高鳴りと心臓の鼓動が同じ速さで脈打ち、重なった。
白い砂利道の林を抜け、二又を右に行く。二日前の道を逆戻り。
そして私がこの世界に来た時、最初にいたあの行き止まりにたどり着いた。
私は白い息を切らしながら、ゆっくりと近づいた。
恐る恐る触れる、ざらりとした石の感触。
石になったキャスは、あの夜と変わらない姿で、灰色の空の下にたった独りでいた。
「ごめん…。」こんなところに、二日も放っておいて。
そう続けたかった言葉の先は、胸に詰まって声にならなかった。
こみ上げてくる熱いものを、グッと堪える。
(泣くもんか。この涙は、彼女をもとに戻した時だけだ。)
「ララ!」
ハルが、ブランケットを持って追いかけてきた。
ダークブロンドの柔らかいくせ毛が、揺れている。
リアフェスの季節は秋。リードの月と呼ばれる十一月。その初旬。
霜が降りる早朝に、寝間着のまま何も言わずに飛び出したのだから、驚かせたに違いない。ここは朝晩の冷え込みが厳しいらしく、昨日の夜「明日は冷える」と忠告されたばかりだった。
ハルは、私の肩にブランケットをかけてくれた。厳しい顔つきだけれど、彼は怒らない。少しは怒っているのかもしれないけれど、あまり露にしない。
端正な顔立ちをしていて、どこか人間離れした趣がある。
芯があってブレない孤高の人。私には、そんな印象。
そのハルのバイオレットの眼が、キャスをとらえた。
「友達なの。」
神妙な面持ちで近づく彼に、キャスを紹介した。
「ゴルゴ―だな…。」
確か、自称偉大な魔法使いオルランドも同じことを言っていた。キャスを石に変えたのは、ゴルゴ―だと。
「彼女をもとに戻したい。
石化は、魔法で何とかならない?」
魔法の知識のない私は、じっとキャスの顔を見つめるハルに、軽々しくたずねた。
「オレのランクでは無理だ。」
ハルが、こちらに視線を戻す。
「魔法のランク?」
「ウィザードのランクだ。
加えていうなら、石化を解く魔法が使えるのは、オレが知る限り二人。」
「えっ?二人?たったの二人??」
驚きのあまり大声になる。確かに、オルランドは石化解呪は『至難の技』だと言っていたけれど、二人っていうのは少なすぎない?
「そのうちの一人は、アイツだよ。」
「アイツ?」
「お前をオレのところへ寄越したジジイだ。」
ハルは、少し面倒くさそうに言った。
「それって…。」
頭の中で、何かが目まぐるしく展開した。気が付いている答えと、処理された解が、一致する。
つまり、この世界の石化を解く魔法が使える唯二人のうち、その一人がまさにあの夜目の前にいたのに、オルランドは何もしてくれなかった、ということ。
自称偉大な魔法使いは、真正の『自称』。あの男は、人としても全く『偉大』じゃなかった。
「ララの言いたいことはわかる。
だがサウィーンの夜は無理だ。」
闇の世界に属するものたちが、かりそめの征服者となるひと夜、サウィーン。
『みてはならぬ。きいてはならぬ。こたえてはならぬ。』
人々は、この三つの約束のもとに夜をやり過ごす。いかなる理由があろうと、何者であろうと、この三原則は守らなければならない。
「当然、彼らに対して魔法も魔術も行使することはできない。」
(ああ、そうか…。)
ハルの説明に、少し気持ちが落ち着いた。
『ここにはここのルールがあるのだよ』そう言ったオルランドの言葉を思い出した。
あの夜、オルランドは石化を解かなかったのではなく、解くことができなかった。それは、ゴルゴ―に対する応えになるからだ。
でも、今年のサウィーンは終わった。今度、解呪をお願いしてみるのはどうだろう?
「アイツには期待するな。」
ハルは、私の心を読んでいるかのように忠告した。
「どうして?」
「お前が困っているうちは、絶対に現れない。
そういう男だ。」
「え?それって男というより、魔法使いとして、人としてやっぱり最低じゃない…?」
ハルの言い分には呆れてしまったけれど、私も心当たりがないわけじゃない。
オルランドは私が困っている時、嬉しそうな顔をしていた。サウィーンの晩に空中で姿を消す瞬間、ニヤリと笑ったのをすごくよく覚えている。
他人の不幸は蜜の味。
そう言わんばかりのしたり顔で、ニタリと笑うのだ。
「もとに戻す方法は、他にもある。」
他力本願はやめておけ、ということか…。
気のせいかハルは、オルランドのこととなると機嫌が悪くなる。あまり露にしない喜怒哀楽の怒の部分が、わかりやすくなる。
「お~い!」
リビエラが、向こうから駆けて来た。
同時にハルが「先に戻る」と立ち去る。今日は、出かけなきゃならないらしい。
「おはよう、リビエラ。どうしてここだとわかったの?」
「ピクシー達が、話してたんだ。仔兎ちゃんが狼に追いかけられてるってね。
君は、ここで何をしているの?ララ。」
私の顔を覗き込むようにして視線を合わせたリビエラから、ふわりといい香りがした。
そして私は、昨夜私をベッドに運んでくれたのはリビエラだったのだと気がついた。
「ん?僕の顔に何か付いてる?」
リビエラは、私をきらきらした太陽のような瞳で見つめ返した。
(ああ…。)
その瞳の色は、明るいオレンジのような琥珀色。何と形容していいのかさっぱりわからない。キャスの地球のような青色とは全く違うけれど、同じだった。この太陽のような瞳に見つめられると、イヤな気持ちがスッと消えていく。昨日感じた懐かしさは、彼の中にキャスと同じものを見たからなんだと気が付いた。
表情が豊かで、ハルとは対照的なリビエラ。
この美しい瞳に、寝顔を見られたのか…。今更だけど、そう思うと昨日のことを確認するのが、すごく恥ずかしくなった。自分でベッドに戻ったなんて、おこがましいわ。
「ううんっ。」
私は慌てて首を横に振った。
気が付かなかったことにしておこう…。
そう思いとどまってキャスのことを話し、石像のようになっている彼女をイーリーベルに運ぶ方法はないかと相談した。
こんな野ざらし雨ざらしに放置していたら、劣化の心配どころじゃない。
この世界は、私の知らないことだらけ。いつ得体の知れない輩にぶち壊されるか、わからない。ここではない安全な場所に、移動させなければいけないと思った。
リビエラは、石になったキャスをじっと見た。そして考えをまとめたのか、「それじゃ、お友だちを連れて帰ろう。」と爽やかな声を弾ませた。
「え?う、うん。」
あまりにも簡単に連れて帰ろうと言ってくれたことに、私の方が驚いた。だって、担いで帰るにしても、この距離はなかなかの重労働だ。二人がかりでできないことはないだろうけれど、爽やかに言えるような仕事じゃない。
そして早速キャスを担ぐのかと思いきや、なぜだかリビエラは荒れた雑木林に近づくと、静かに何やら呟いた。
すると辺りから草や蔓が舞い上がり、それらが手を繋ぎ合うように絡み始めた。
そして空中で少しずつ広がり、大きな生きたネットのようになってキャスを包むと、ふわりと地面から五十センチくらい浮いた。
「あなたも、ウィザードなの?」
目の前の有り様に、私は驚きを隠すことなくたずねた。
ウィザードとは、この世界における職業魔法使いの名称。
ウィザードになるためには、魔法科が設置された特別な学校で所定の課程を修め、国家試験に合格しなければならない。ちなみに、クレアモント卿がパトロンをしていたカシリーズ魔術学院は、優秀な人材を輩出することで有名なのだそうだ。
「違うよ。」
「じゃあ、どうして魔法が使えるの?」
「魔法の基礎は、初等教育で学ぶんだ。
だからまぁ、僕も少しは使える。
これは、自然魔法の一種。対象を直接浮遊させるんじゃなくて、植物の力を借りてるんだ。
ハルなら、もっと簡単に運べるけどね。」
要するに、この世界の人々は多少の差はあれ魔法の類が使える。
数学の基礎である算数を小学校で学ぶように、魔法という科目の基礎を学んでいる。
私たちは、ネットから延びるロープのようなところを手に、フワフワと仰向けに浮かぶキャスと共にイーリーベルへと向かった。
道中、林の砂利道でリビエラが突然小さく吹き出して笑った。
「どうしたの?」
「ん?ピクシー達がね、ちょっとパニックになってる。」
「ピクシー?」
私は周囲を見回した。辺りはとても静かで、人の気配もそれらしいものもない。
そもそも、ピクシーって何だろう。
「ピクシーはね、精霊の一種だよ。
すごく小さくて恥ずかしがり屋だから、多分まだララのことを警戒してるんだ。
そのうちにきっと姿を見せてくれるようになるし、彼らの会話も聞こえるようになるよ。」
「そっか。
で、どうしてパニックになってるの?」
「ララの友達を見て、びっくりしてる。」
「なるほど。」
不思議な世界だ。
精霊が見えるか見えないかは私の能力ではなく、彼らの意思らしい。
いつか見えるようになったり、おしゃべりが聞こえるようになったりするだろうか。
私は、馴染みのある灰色の空を見上げながら考えた。
あれは、イギリスの空と同じ。灰色にも色々な灰色があるのだと教えてくれた空。
ここは、目にうつる風景も暮らしている人も、今わかる限り、私がいた世界とあまり変わらない。
リビエラの翡翠色の青みがかかった髪も、ロンドンや東京に普通にいる。
ただ、魔法や精霊がここでは日常なだけ。
絵の中に別の空間があるとか、スプリタスという幽霊がいるとか、ちょっと不思議なこともあるけれど。
(寒っ…。)
冷たい朝の風がそよぎ、私は心の中で小さく呟いた。
ブランケットの下の肩をすぼめる。
二日前、私がいた世界の季節は初夏。これから夏になろうという、夏至の日だった。
夏休みの計画とか、十月の私の誕生日とか、待ち遠しいことがたくさんあった。
ところが、この世界の季節は秋。
魔法がどうのというより、こんなことの方が私にはリアルだ。
果たして時間が先に進んでいると考えるべきか、半年遅れていると見るべきか。
(私は、何歳なんだろう?)
ぼんやり考えていると、リビエラが口を開いた。
「さて、と…。問題は、ここからだよ。」
リビエラは真顔だった。
といっても、家はすぐ目の前なのだけれど、その意味するところはほどなくわかった。
玄関口で、シルキィがキャスの侵入を激しく拒絶したからだ。
シルキィの話す言葉は、正直言ってわからない。
口は動いていて話しているのに、声は小さくこもっていて、もごもごとするばかりではっきり聞こえない。
だけど、私の脳内にある自動翻訳機みたいなものはちゃんと機能していて、彼女の言葉を理解している。
目下、シルキィは『そんな物騒なものを家の中には入れられない。』と憤慨している。
リビエラはシルキィの反応を予測していたのか、「やっぱりね」と困り顔だ。ハルですら、その主張に逆らおうとしない。
一体誰がこの家の主なんだか…。
「それなら、庭の小屋はどうかな?」
リビエラは、やんわりとシルキィに提案した。
すると彼女は「納屋は自分の管轄外だから可否を申し上げることはできない」とサラリと答え、シャリシャリとスカートを鳴らしながら仕事に戻ってしまった。
そこで私たちは、中庭へと回った。
中庭はきれいな花が咲き、みずみずしい野菜が育つ、小さいけれど完璧な庭だった。
そして片隅に、小屋がある。
私は最初、キャスをこんなところに置くのは気が進まなかったけれど、中に入ると考えがかわった。
丁寧に研かれた農機具が並び、掃除の行き届いた作業場のある整った空間。
ここなら風雨もしのげるし、安心だ。目も行き届くし、シルキィに粗大ごみのように扱われることもない。
リビエラは、小屋の隅にキャスを立てた。
次に小声で、呪文のような不思議な言葉を唱え、終わりに「全てのものは元の場所へ還りかし」と言い放った。すると、ネットになっていた草や蔓はバラバラになって鳥の大群のように群れなし、もとの場所へと戻っていった。
「これで、ララもお友だちも安心かな?」
私は、リビエラに大満足だと答えた。