11-3.留守
朝食の後、私たちは客間に移動した。
もう少し正確に言うと、キッチンダイニングを追い出された。
食事を終えた途端、シルキィからゴムボールを扱うみたいにポポンと弾き出されたのだ。
ハルの留守にリビエラと客間で過ごすのは、実は初めてのこと。
今日は、朝から意外なこと尽くし。
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「僕たちが次に目指すのは、南の国ウルスターにあるネイロン湖。」
向かいに座ったリビエラが、手にした紙を見ながら言った。
それは、今朝ハルが残していったもの。
「そこの藻草が要るんだよね?」
私は、いつか聞いた記憶を呼び起こしていた。
石化解呪に必要な素材は、失敗を重ねるごとに手に入れるのが難しくなっていく。今思えば、ブリシュカを手に入れるためのジュールの灰なんて、本当に簡単だった。
今回は素材のありかが分かっているから助かるけれど、かといって、リビエラの表情は真剣だ。
「そうだよ。
以前にも話題に上ったと思うけど、ほぼ一本足の怪鳥フラリンガスの主食。
その藻草を採取しに行く前に、やっておかなきゃならないことがある。」
「やっておくこと?確かその湖、触れたものはなんでも石化しちゃうんじゃなかった?」
「そうなんだ。
石化の影響を受けないのは、そこに生える藻草とフラリンガスだけ。
僕たちまで石にならないように工夫しなきゃならない。」
「工夫…。
魔法でどうにかなるものじゃないなら、道具を使う?ん、でも道具が石になるよね…。
ハルはなんて言ってた?」
「アラクネーの糸が要るらしい。」
リビエラが、再びメモを見た。
「アラクネー?」
「巨大な蜘蛛だよ。
それが吐き出す糸が必要なんだ。」
「蜘蛛!まさか湖に行く前に、蜘蛛を捕まえなきゃいけないの?」
「詳細はクレアモントホールの書庫で調べておけってさ。
ハルも以前に調べてるらしいから、時雨に頼めば必要な書物を出してくれるって。
それから、猫族…ラグレール?クエスチョンマーク付きだ。」
「ラグレール!オルガンド王国の従者だわ。
なんで彼の名前が…?」
「うん…。」
リビエラは親指を顎に当て、興味深げに相槌を打った。そして顔を上げるなり、目を輝かせた。
「今からクレアモントホールへ行こう、ララ。
運が良ければ、僕はオルガンド王国へ行けるかもしれないな!」
「どういうこと?」
「ああ、ごめん、先走った。
ハルの計画はこうなんだ。
ネイロン湖へは僕の長期休み、つまり、サリクスの月に行く。
それまで二か月とちょっと、そうだね…三か月と見積もる。
この期間のうちに僕らは、というより君たちは、アラクネーの糸を手に入れる。」
「君たちは?それって…私と、誰?」
「このメモの通りなら、時雨とラグレールじゃないかな?僕は明後日ウィッスルへ戻るんだ。」
「えっ?」
彼女の口から出た、予想外の言葉。
「そんな!…あ、、休みは、日曜までじゃなかった?」
ハルだけでなくリビエラも行ってしまう。一番に頭に浮かんだのは、そのことだった。
リビエラと過ごす時間はまだ十分にある、そう思い込んでいただけに、動揺を隠せない。
妖精の領域で過ごした3日間は、想像以上に私の感覚を狂わせているみたいだ。
「日曜日から研修が始まるんだ。
それに参加しなきゃならない。
たった二日でアラクネーの糸を手に入れるのは不可能だよ。」
「ヘカテのお店は?」
「いくらかは分けてもらえると思うけど、ハルが採集と言ってるから、それほど難しくはないんじゃないかな?」
リビエラは、信じられないほど簡単に言った。
確かに素材集めは、ウィザードの仕事の一つでもある。中には、それを生業としている人もいるとヘカテに聞いた。
だからハルの言う採集とはウィザードとしてごく普通のことであって、私みたいな人間は違うと思う。
いったいどんなレベルで難しくないと判断してるんだろう?不安しかない。
「そう…。」
抗議するよりも、意気消沈が勝った。
目下の問題は、リビエラがウィッスルに帰ってしまうこと。
私にばかり構っているわけにはいかないとわかっているけれど、表情に出してしまった。
今は、一人ぼっちになる現実を受け入れるのが少し辛い。
「心配しないで、そのためにハルは計画を立てたんだ。」
「うん。
ごめん、わがまま言って。」
「まずは情報収集だ。
それから、時雨に手紙を書いてもらわないとね。」
「リビエラ、楽しそう…。」
「そりゃそうさ、オルガンド王国に行けるかもしれないんだから。」
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「書物でございますね、心得ております!」
クレアモントホールに行くと、時雨がいつものように出迎えてくれた。
上品な抹茶色の和服に身を包み、綺麗に切りそろえられたおかっばの黒髪を揺らして、相変わらず健気な様子でぷかぷかと浮いている。
「ハル様がお調べになった資料は、すぐにご用意できます。
他にご入用のものがございましたら、なんなりと。」
「うん、ありがと。」
どんなときも献身的に尽くしてくれる時雨。
彼女は私よりも注文の多いハルの指示にも、嫌な顔一つしない。
迷宮、そしてオルガンド王国での騒動を経て、彼女はハルに絶大な信頼と尊敬を寄せている。
「最後の最後に旦那さまをお救いできるのは、恥ずかしながら私めではなくハル様なのかもしれません。」
いつだったか、時雨は申し訳なさそうにそんなことを言った。
その最後の最後かもしれないと彼女が買いかぶる男は、デリカシーのない言葉を残して私を一人置いていってしまったけれど。
一人…。
スプリタスにとって、時間はどんなふうに流れているんだろう?今の私は、イーリーベルで耐えられるだろうか。
(だめだ…。)
私は談笑するリビエラと時雨のそばで、頭を振った。
良くない方向にばかり想像してしまう自分から、抜け出せない。見ること、そして考えること全てが悲観的に塗り替えられていく。
「旦那さま?ご気分が優れませんか?」
気がつくと、時雨が心配そうに私を見ていた。
「また、良くないことを考えていたね。
おいで。」
リビエラが片手で私の肩を引き寄せる。
「自分でもよくわからない、、こんなのじゃ、駄目なのに。」
私は、子どものように彼女にしがみついた。
「大丈夫、きっと全てはうまくいく。
君は、君自身を信じなくちゃ。」
彼女は私の頭を撫で、そこに優しいキスをくれた。
リビエラに抱かれる安心感。心を慰めてくれる優しい言葉。彼女が大丈夫だと言えば、そのとおりになる気がしてくる。
それでも、何かが欠けていると感じてしまうのはなんでなんだろう。
「はわわ、リビエラ様、旦那さまはどうなされたので…。」
「今、ちょっとナーバスになっててね。
時雨、僕たちが留守の間、ララを頼むよ。」
「も、もちろんでございます!
この時雨、いかなる時も全力で旦那さまにお仕えいたします。」
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同日夜、イーリーベル。
小さな灯だけが残された、夜のキッチンダイニング。壁掛け時計の針がどの数字を指していたのか、よく覚えていない。
「う…あぁ…。」
テーブルに突っ伏してうたた寝をしてしまった私は、うなされる自分の声に目を覚ました。
「!」
(夢…か…。)
うなだれたまま、腕に額をうずめる。
キャスが消える…恐ろしい夢を見た。
ザムの小屋の、オーガンジーのカーテンが揺れていた。
悲しい声で彼女が呼ぶ。
パラパラ…
布に触れようと手を伸ばすと、灰色の粒が床に落ちた。
ザザザ…
突然崩れる砂の音。
胸騒ぎがして布を引きちぎると、輪郭をなくしたキャスがいた。
『ララ…。』
彼女が朽ちていく。私の名を呼ぶ度に。
流れる砂は真っ暗な床に吸い込まれ、私は恐怖に叫びながら、両手で灰のようなそれをかき集め続けた…。
夢の中で、キャスまでも失う。
怯える自分をそのまま映し出したかのような、悪夢。
(部屋に…戻ろうか…。)
ハルが、戻ってくるかもしれない。夕刻からずっと、微かな期待が私をこの場所に留まらせていた。
私は、ここが好きだ。シルキィやリビエラ、ハルと過ごすこのキッチンダイニングでの時間が。
でも今は、同じ場所とは思えないほど空っぽで、いつもは気にならない壁掛け時計の秒針が、寂しさに追い打ちをかけるように刻々と響いている。
夕食後、リビエラは家族がいるイーリーの自宅に戻り、もういない。どんなときも、彼女がイーリーベルに泊まることはジュール以外にはない。
私たちは日没直前までクレアモントホールの書庫で過ごし、時雨はウルザン国王に依頼の手紙を書いてくれた。
私がアラクネーの糸を採集しに行く際、ラグレールの帯同を許可してもらうためだ。
早ければ、明朝にもその返事が来る。私たちは、オルガンド王国に行くことになるだろう。
なぜハルが次の旅に猫族を指名したのか、彼は以前ウルザン国王と関わることを快く思っていなかったから、不思議だった。
彼らに会ったことのないリビエラは、「理由は簡単さ」と笑う。
曰く、「用心棒兼、鼻。」
アラクネーはいくつかの種がリアフェスに分布していて、今回私たちが赴くのは、北の国ノウルドの東側、冷涼で岩の多い森林地帯。
彼らは人間には嗅ぎ分けることができない独特の臭気を持つため、これを察知できるのとできないのとでは遭遇率に雲泥の差がでる。
身体能力が高く鼻が利く猫族は、旅の伴としてはうってつけだったのだ。
「本当は自分が一緒に行きたかったんだろうけど、僕も行けないからね、彼なりの配慮だよ。」
リビエラが何気なく言った、彼なりの配慮―つまりハルは、こうなることを少なくとも想定していたということになる。
遠からず、上王の召集がかかると。
ガチャリ
玄関ドアの音がして、私は反射的に顔を上げた。
(ハル?!)
歩幅のある足音が聞こえる。
私は椅子から立ち上がり、玄関口へ走った。
彼のはずだ、いや、彼じゃなきゃイヤだ。
鉢合わせた人影に、ハッと息が止まる。
「起きていたのか。」
色の濃いマントを纏ったハルが、今朝とは全く違う出で立ちでそこに立っていた。
「もう、寝ようと…。」
驚いた私は視線をそらし、無意識に一歩後ずさった。
別世界の風貌。暗がりに浮かび上がる、見慣れない服。彼が本当に帰ってきたのではないということは、言われなくてもわかる。
「そうか。」
空々しい空気が場を支配し、別れの気配に泣きそうになった。
心にあるのは、味わったことのない複雑な気持ち。
嬉しいとか寂しいとか、元はごく単純だった感情が、狂った磁場の上で彷徨っているみたいだ。
何を話せばいいのかわからない。
「リビエラから、話は聞いたか?」
ハルの声が降ってきた。
「ん…。」
私は視線を合わせずに答えた。
「時雨を連れて行くといい。」
「うん…。」
いつもとさして変わらない会話。それなのに…。
「あの辺りはまだ雪がある。
行くのは雪解けの後にしろよ。」
「うん…。」
ハルの言葉が、心を通り抜けていく。
「ララ?」
「え…。」
「聞いてるのか。」
「あ、、うん?」
怒りを含んだ声に揺り動かされ、私は彼を見上げた。
磁石が引き合うように、瞳が重なる。
そしてハルの目を見た途端、私の心はたった一つの形になった。
離れたくない。なんで上王の仕事なんかするの?
目は口ほどにものを言う。
あふれる想いを、ハルに読み取られてしまいそうだ。
ううん、いっそ読み取ってくれたら。
「ララ、」
強い瞳は私を見る。彼はいつになく、言葉を選びながら言った。
「数日の間に色々なことが起こりすぎた。
そのせいで、心が少し不安定になってるんだ。
しばらくはゆっくり身体を休ませろ。
アラクネーの糸は、急がなくていい。」
「わかった…。」
私の視線は、磁力を失ったかのようにハルから外れた。
「もう行く。」
彼は踵を返し、いつ戻るとも言わず玄関口へ向かった。
彼は自分の家を後にする。
彼の部屋も、書斎も、彼のものは全部ここにある。
これは、永遠の別れじゃない。それなのに、向けられた背中に心が引き裂かれそうだ。
上王ではなく、私を選んでほしい。一言でいいから、優しい言葉が欲しい。そうすれば、一人でも頑張れるから。
苦しくて、切なくて、私はハルを見送る間、泣かずにいることが精いっぱいだった。
ドアが開き、静かに閉まる。
私は嗚咽を漏らし、その場にうずくまった。
ハルが、背を向けて去っていく。それは友達とも、家族との別れとも違う。リビエラが言った言葉の意味を、私はこの時にはっきりと理解した。
私は、ハルが好きだ。リアフェスも、もとの世界も、どこにいようと関係ない。私の心は、ハルを欠いた自分の世界がどれほど寂しいものになるか知っていた。
だからずっと、怯えていたんだ。
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同時刻、ユベール邸。
リビエラは、自室のベランダにいた。
春休みの課題を仕上げていたところにハルがやって来て、彼女は少し前、その親愛なる友を見送ったところだ。
限られた時間を割いて遠くミースから舞い戻ってきたハルの心の所在を、彼女はお見通しである。
自宅に向かう友に小言は控えろと釘をさしておいたが、果たしてあの男は、大切な子に優しい言葉をかけることができるだろうか。
彼女は諦めに似た苦笑を浮かべると、星の瞬く天を仰いだ。
この空の向こう、星々の先にある幾多の世界。その一つからやって来た異界人。
出会いとは、かくも不思議な縁。そして、恋に落ちることも。
愛しいと想い始めたものを自ら手放す葛藤など、必要だろうか。
否、そんなものは最後の手段でいい。
彼女は、ハルを見ていてそう言いたくなるときがある。
余計な口出しは無粋だと心得ているつもりだとしても。
(親子そろって複雑な恋愛をするのは遺伝…か。)
「無防備なララをこの世界に留めておくのは危険だ。」
ハルは以前、リビエラにそう言った。
この世界で最も希少価値のある魔法の一つ、境界渡り。異界を渡ってくるエトラは、その素材とされる。獲得の方法は、エトラを自らの体内に取り込むこと。
馬鹿げた迷信だと世間が一蹴する一方で、夢を見るウィザードは未だ多い。つまり、ララがエトラだということが知れ渡れば、争奪戦が始まる。
ハルの言葉は、ララが巻き込まれることを鑑みてのことだった。
「迷信に振り回されるなんて、愚の骨頂だよ。
君ほどの男が危惧することかい?」
リビエラは反論したが、ハルに言わせれば、エトラの真否など何の脅威でもないのだという。
問題は、その迷信が価値を持ちすぎていること。
彼女は、腹に黒い一物を抱えたリアフェス中の人間から真実とは無関係に狙われることになる。
起きてはならぬ悲劇なら、未然に封じてしまえ、というのはハルらしい。
(両親の轍は踏まない、とでも?…だろうな…。)
秘密はどんな形で漏れるかわからない。
この小さな場所が安全だとも言い切れない。
妖精の森以来、ハルはその思いを確信に近い形で強めているようにリビエラには見えた。
しかし、許されないと知りつつ離れることができなかったあの二人ーハルの両親ーの悲劇を、彼らは不幸せだったと誰に断言することができるだろう?
(ララの幸せを望みながら、それが自分の幸福とは真逆の選択になるなんて、そんなパラドックスが本当に正しい道だと思っているのかい。)
リビエラは、もどかしい思いで溜息をついた。
物事は、簡潔がいい。それが彼女の信条。
ララの心が揺れれば揺れるほど、ハルが舵取りに苦心するのは目に見えている。
(あれは、自分から荒波をこしらえてるんだ。本当に、面倒くさい男だね。そう思わないかい、マリエラ?)
リビエラは、机に飾られた姉の写真に目を向けた。
それは、もう何年も深い引き出しの奥に仕舞われ、昨日、探し出したものだった。
籠いっぱいのいちごを前に、姉と妹が、大きな赤い果実をお互いの口に運んでいる。
過ぎゆく年月は、妹の年齢が姉のそれを超えた。
どんなに目を背けたい現実にも、未来は続いていく。けれども、決して悪いことばかりではないと、リビエラは思い始めている。
今こうして、記憶の中の姉と語り合うことができるようになったのは、異なる世界からやって来た一人のエトラが向き合うきっかけを与えてくれたからだ。
(人生、誰に救われるかわからないよな。)
乾いた夜風が、リビエラの首筋を抜ける。
(研修面倒だな…。)
「あーあ、医者になるのはやめてしまおっか。」
リビエラは、冗談まがいにそんなことを独り言ちて笑った。
彼女の心は誰よりも、明るい未来が来ることを疑っていなかった。




