11-1.満月
妖精の森から戻った晩、私は寝付けなかった。
身体は疲れているはずなのに、頭はすっかり冴えていた。まるで、忘れてしまった何かを探し求めているみたいに。
それとも、眠りを邪魔するのはあの月明かりかもしれない。
今夜の満月はいつになく神秘的で、カーテンの向こうから囁やいているようだった。
私は何度も寝返りを打った挙げ句、とうとう諦めてベッドを出た。
上着を羽織り、誰も起こさないよう慎重に、部屋の扉を開ける。
シンと静まり返った廊下を早足で抜け、暗いキッチンダイニングへ。そこから裏ドアを開けると、月に照らされたザムの庭に出る。
春の夜風が、頬を撫でた。
イーリーの夜はまだ少し肌寒い。雲一つない今夜は、冷たい月明かりが静かに降り注いでいる。
私は青白く反射する石畳を跳ねながら、キャスがいる小屋へと向かった。
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「キャス…会いに来ちゃった。
ちょっと、話をしよう?」
私は置いてあった小さなランプに火を灯してわずかな暖をとると、彼女の足元に寄り添った。
小屋は薄暗く、すぐそばの窓から月光が差し込んで、彼女を包むオーガンジーに陰影を与えている。秘密めいたおしゃべりにはちょうどいい。
そうして、いつもそうするように、私は今回の旅の出来事をキャスに話し始めた。
うっかり唱えた呪文のせいで、寒い寒い氷の国に行ってしまったこと。ハルとリビエラが女王に凍らされたこと。
急に女王の機嫌が変わって、小さな妖精の案内人、コルクットを紹介されたこと。
そして、リビエラの悲しい過去の夢に迷い込んでしまったこと。
「頭がよくて優しくて…いつも明るいリビエラだけど、彼女にも後悔にさいなまれるほどの辛い過去があったんだよ。
人って、私が思ってるよりもずっと複雑で、隠すのが上手なんだわ。
あなたも、実はそういうのが上手だった…?キャス?」
シンと静まる夜のとばりの中を、私は彼女に耳を傾けた。
この静寂は、無音だけど無音じゃない。私にとっては、会話としてちゃんと成立しているものだった。
「返事を聞くのはもう少しお預けだね…。」
微かに揺れる透かしの布。そこに見える彼女の輪郭。今にも動き出しそうな、灰色の等身大。
布越しにキャスを見つめていると、ハリオデスが元の姿を取り戻した時のことを思い出した。
灰色の砂が崩れ、黄金色の髪が現れた…あの瞬間の記憶をキャスに重ね合わせ、彼女の青い瞳が暗い影から現れるのを思い描いた。それは、叶うかもしれなかった、消えてしまったもう一つの現実。
「…ごめんね、花輪を…持って帰ることができなくて。」
言葉にすると、胸が締め付けられた。そして目には、勝手に涙があふれた。
誰かを責める気なんて、私には毛頭ない。けれど、キャスのために何もしてあげることができなかったという事実は、ずっと真綿で首を絞めつけられているようだった。
眠れなかった理由は、これだ。私はそう感じた。
許しを請うのではなく、彼女のもとに来て、告解する必要があったのだと。
私は流れる涙を拭いながら、自分を元気づけるようにあえて肯定的な言い方を選んだ。
「でも…良いことも、前進と呼べることもあったの。」
その科白は、リビエラの受け売りだったけれど。
「ハルの両親のことが分かったし、彼の目に呪いをかけた妖精の正体が分かった。
私たちのためにずっと力を貸してくれているんだもん、ハルが思いがけず恩恵を得たのだとしても、それは喜ぶべきことだわ…そうよね?」
キャスならきっと頷いてくれる。そう信じていた。
「それでね…」
続けて私は、彼女にハルの出生や瞳にまつわる話をした。それは私たち全員にとって思いがけない収穫であり、ハルのこれからの人生を大きく変えるかもしれない出来事。
私の気持ちは話しているうちに回復し、むしろ饒舌になっていた。
「ねぇ、知ってる?ハルの目に掛けられた禍の焔の作用は呪いなのに、妖精は絶対に“呪い”とか“呪詛”という言葉を使わないんだって。
時雨が言ってたわ。
でもあれは、呪詛よ。
だから本人…火の精霊イブニスに取り消してもらうしか方法がないの。
またいつか、妖精の領域に行かなくちゃ。
行く方法は、もう大丈夫。
帰る時に使ったケムル川の水辺に行って、ハリオデスにお願いすれば迎えが来る。
とはいっても、用件もなく簡単に行き来はできないけれどね…リアフェスと妖精の関係は、私が思っている以上に繊細だわ…面倒くさい。
イブニスの人間嫌いも、なんだか闇が深そうだもん。
追い出すだけじゃ足りなくて、呪いまでかけたんだから。
でもねぇ、キャス、私、ハルがオルランドに出会ったことは、彼のこれまでの人生で最も幸運なことの一つだと思ってる。
禍の目の力を抑えこむことができたのは、もちろんハルの魔力と努力の賜物だけどね、オルランドのおかげでもあるわ。
彼が見破らなかったら、ハルは理由もわからないまま、人間に迫害され続けるところだったんだから。
でも、ハルは認めない。
不思議よね、不思議を通り越して奇妙。
リビエラはね、あの二人―ハルとオルランド―は似た者同士なんだろう、だから反発するんだろうって言ってる。
私もその考えに賛成よ、だって二人とも間違いなく変人だもん。」
「誰が変人だ?」
「きゃっ!」
カシャン!
私は心臓が飛び出しそうなほど飛び上がり、拍子にランプをけり倒した。
「は、ハル…?なんでここに?」
彼は小屋のドアを広げると、静かに入ってきた。
そして私のそばに倒れていたランプを拾い上げ、元の位置に置いた。
「気晴らしに歩いていたんだ、そうしたら声が聞こえて。」
「気晴らし?こんな夜更けに…?」
「ララも同じようなものだろ。」
「わっ、私はちょっと眠れなくて、キャスとおしゃべりしてただけよ、もう部屋に戻る。
…な、なに?」
私はドキドキと早まる鼓動を抑えながら、ハルを見つめ返した。彼はいつから、聞いていたんだろう?
「いや…、少し、散歩しないか…夜空を。」
予想もしていなかったハルの言葉に、私はこの瞬間なんと返事をしたのか、全く覚えていないのだった。
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眠れない夜のおしゃべりは、意外な方向へと展開した。
ザムの庭に出ると、私はハルに言われるがまま、彼が取り出した箒の柄に腰掛けた。
横並びに座っても問題なくバランスが取れるのは、箒が大きくて柄もしっかりしているから、らしい。
「手は両脇に、柄を掴んで、そう…大丈夫か?」
「うん。」
ハルの合図で足がすっと地面から離れ、身体がふわりと宙高く上がった。
「わ…。」
思わず、声が漏れた。次に何が起こるか分かっていても、宙に浮くという感覚はいつもドキドキするし、新鮮な気持ちになる。次の瞬間とても楽しくなって、私の顔は自然にほころんでいた。
箒は、あっという間にイーリーベルの窓を超え、いぶし銀色の屋根の上に来ると、目の前の視界が一気に開けた。
木々は頭を垂れて眠り、空に雲は霞ほどもなく、輝く月の白い光が紺色の空に広がっている。
辺りは鬱蒼と静寂。満月は私たちだけのものになっていた。
「月が…。」
私は言葉を忘れるほど、月に見とれた。そうして、思い出したのだった。
初めてハルに会ったあの夜も、こんなふうに美しい満月だったと。
これは少し、不思議な感じがした。あれから何度も満月を見ているのに、今私が見ている月夜だけが、あの夜と全く同じに感じる。
玄関のドアを開け、月の光を背にしたハルが私を見下ろしたあの一瞬、私は月の精霊を見たと思った。
今、私の隣でまっぐに前を見ている彼は、あの夜と同じように月の光に愛されている。
その凛々しい表情に浮世離れした美しさを感じてしまうのは、彼の中に流れる妖精の血がそうさせるからかな…。
とすれば、私の第一印象はあながち外れてはいなかったということになるけれど。
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「ララがこの家に来た後、一度だけジジイに会いに行ったことがある。」
ハルが、前を見つめたまま言った。
「オレは本当は、アイツの居場所を知っている。」
「そう…。」
小さな沈黙の後に、ハルと視線があった。
「なに…?」
「怒らないんだな。」
「うん…。」
私は満月を仰ぎ、ハルは私の様子を窺うように少し間を置くと、再び続けた。
「…その日、ララの願いを叶えてやれと、ジジイに言われたんだ。
それがオレの出自を明らかにすることにつながると…そんな戯言を真に受けてはいなかったが。」
「でも、オルランドの言う通りになったね。」
「…ララがしてくれたことは、ありがたく思う。
だがそのために花輪を手放したことについては…オレは喜べない。」
私はこの時、彼が誘った理由を理解した。ハルには、私に言っておきたいことがあったに違いない。私がキャスに対してそうであったように。
「あれは、正しいと思ったからしたの。
誰かのために何かを犠牲にしたとかじゃないから、責任を感じないで。」
私はもう、すっかり心の整理がついていた。でもハルは何か言いたげで、口を開きかけた。
だから私は、それを遮った。
「ねぇ、人生って、何が幸いするか分からないね?結果的に嬉しいことがあったら、それ以前に起きたことなんてどうでもよくなってくる。
むしろ、全てはそのために必要なことだったんじゃないかって思えちゃうよ。
ハルもリビエラも、いつも私のことを一番に考えてくれて、守ってくれるよね。
だから私も同じように、二人の苦しみが少しでも軽くなれば嬉しい。
そういう単純な理由じゃだめ?」
「いや…。」
「じゃあもういいね、この話は。」
私は顔を正面に向けた。
「もう少し、高いところへ行かないか。
平気なら…。」
「大丈夫、平気。
むしろ行ってみたいかも。」
私のリクエストに、ハルは箒の高度を上げた。すると、イーリーベルを取り囲む森の向こうに、小さなオレンジ色が見えた。
「わぁ…、明かり!」
それはイーリーの街に灯る、街頭や軒先の明かりだった。
そしてもっと空高く昇ると、今度は灯りが山の麓に、そして遠く平野部に広がっているのが見えた。
箒は、辺りをゆっくりと周遊した。
「ウィッスルは、どっち?」
「ウィッスルは…。」
ハルは、私がこれまでに行った場所、ウィッスルやノルドの森、そして水の都ネルフォーネがどの方向にあるのか教えてくれた。
こんなふうにのんびりと、ハルと家の外で過ごしたのは初めてのことかもしれない。
私は時間を忘れて楽しんだ。
隣にいる彼が、時おり私に話しかける。沈黙の間に交わされる、他愛ない会話。たったそれだけのことが、私に幸福な安寧をもたらす。
照らす月の明かりも、髪を渡る風と深い夜の香りも、「今この時」を切り取って、永遠に閉じ込めてしまえたら…。そう願ってしまうほどに、私の心はますますリアフェスから離れ難くなっていく。
ハルは、この気持ちを理解してくれるだろうか。
「ねぇ、ハル?」
「ん?」
「妖精の森で、お前の望みはなんだ?って私に言ったの、覚えてる?」
「ああ…、覚えている。」
「あの時ね…私はすぐに答えられなかった。
だって、元の世界に帰るってことは、この世界と永遠に別れるってことでしょう?それはつまり…。」
私は言葉にするのが怖くなり、無言になった。
「…その逆も然り。」
ハルが沈黙を埋めた。
「この世界に留まるなら、元の世界の人間関係をすべて断ち切るという前提がある。
愛してやまない友人や家族と、会えなくなるということだ。」
彼の言葉は、相変わらず理路整然としていた。それは私が聞きたい言葉とは違っていたけれど、じゃぁ何と言って欲しかったのかと言うと、そこはうまく言い表せない。
「わかってる…、私にはどっちも大切だから…だからあの時、すぐに答えられなかったの。
だって、二人に会えなくなるなんて嫌だ…。」
「同時に選べない未来もある。」
「わかってる…。」
「一時の感情で、選択を間違えるなよ。」
一時の感情…それはどういう意味。捨て猫を拾って家に帰ったら、家族に反対されて、捨てるに捨てられなくなっちゃうのと同じこと?
私はぼんやりと相槌を返した。
「…オレは何か、間違ったことを言ったか?」
そういえば、ハルはいつもこうだ。
人の心に密やかにでも存在するはずの柔らかい部分が、彼の場合はどこにあるのかわからない。他者との別れを惜しむ心すら、彼の中にあるのか。
何かを失いたくないと思ったり、失うことを恐れて感情のたがが外れるなんてこともないんだろう。
感情の回路が、普通の人間と…ううん、私と全然違う。
たった半年、同じ屋根の下に暮らしたくらいじゃ見せてくれない。リビエラにも…リビエラ!
その刹那、私の脳裏にあの光景が蘇った。森の中で、気を失ったリビエラのそばで、まるで孤独な王のようにうなだれていたヴァイオレットの瞳を。
彼は私が消えても、あんな悲しい目をすることはない。きっと。
「ララ…?」
私は、彼の声に反応して顔を上げた。
その時、どんな顔をしていたんだろう。彼は思いがけないものを目にしたような顔をして、言葉をのんだ。
「オレはララが…。」
そこで彼は、言葉を止めた。
「…なに?」
私はその続きが聞きたくて、食い入るように見つめた。
「私が、なに?」
「いや、よく…考えた方がいいと思っただけだ。」
「は?ずるい、言おうとしたこと、それじゃないでしょ、ねぇハ…」
くしゅんっ!
「おい!」「きゃっ!」
私はくしゃみをしてバランスをくずし、そのまま箒の柄から滑り落ちた。
「あ…!」「ララ!」
お互いが伸ばした手は、届かなかった。
不意打ちのごとく襲った刹那の出来事は、まるで運命がそう定められているかのように、私とハルを見る間に引き離した。
(ああ、前にもこんなことが…。)
春風に襲われて落ちていく自分がフラッシュバックした。
あの時は、花輪が欲しくてハルの差し伸べた手を拒んだ。ヴァイオレットの瞳が、一瞬赤色に光って…。
私はこうやって、離れていく運命なのかもしれない。
けれどハルは素早く体勢を整え、下に回り込んで落下する私を受け止めた。
トスン
「全く、気が抜けない。」
「あり…がと…。」
私は赤面し、萎縮した。なぜって、箒に乗ったウィザードにお姫様抱っこをされるような体勢になっていたから。
「ええっと…、この体勢はちょっと恥ずかしいんだけど…。」
「仕方がないだろ、文句を言わないでくれ。」
「でも…重くない?」
「このまま戻る。」
「うん…。」
私は恥ずかしさのあまり、さっきの言葉の続きを聞き出すタイミングを失ってしまった。
凛とした芳香が微かに薫る。包まれる温もりに、私は魔法にかけられたように眠気に誘われた。
そして、埋もれるようにハルに身体を預けた。
「眠くなったのか。」
小さくあくびをした私に、ハルがたずねた。
「ん…。」
「部屋まで連れて行こう。」
と、彼がそう言った気がした。
私はまどろみながら、考えることをやめてしまった。
月明かりに漂い、心地良い揺れに溺れた。
やがて窓が開く音がして、風に揺れるカーテンが、両手を広げた天使のように私を迎え入れるのが見えた。
一体、どこからが夢だったのだろう?それすらもはっきりとしない。
私の身体はゆっくりとハルの腕から離れ、白いシーツにおさまった。
リネンからシルキィのシャボンの香りがする…そう感じた途端、意識は深い眠りへと沈んでいった。
「おやすみ。良い夢を。」
月明かりを背にした妖精が、静かに窓を閉じた気がした。




