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10-3.雷鳴

 

 霞がかかる水色の空。響く滝の音。まだらの暖気が、舞い上がる冷気を包み込む。

 生まれたばかりの柔らかな風が私の首筋を撫で、少し遅れて、青っぽい早春の香りが鼻先をかすめた。

 私は今、箒に乗って空中を飛んでいる。


 クレアモントホールの庭で、飛行術の練習はしていた。でも、こんなふうに知らない場所を飛ぶのは初めて。レベルは控えめに言っても見習い以下。私にとっての空は、まだまだアウェイ。

 ざぁざぁと鳴る水流を見下ろせば、柄を握る手に自然と力が入る。

 崖の淵から見ていたよりもずっと高さを感じて、ちょっと身震いした。


(下はできるだけ見ないようにしよう…。)


 ゆっくりと、慎重に箒を浮島に寄せる。根元にいくつか岩を従えた大木が、ちょうどいい場所にあった。飛び出した木の根をつかみ、足をかけてよじ登り、(こういうことにも段々慣れてきたみたい)、岩間から花園の様子をうかがう。

 私の居場所をさりげなく確認するリビエラと、視線が合った。言葉はなくても、彼女が何を考えているかが不思議と理解できる。私は、この場所で待機することにした。


 見ると、こちらに背を向けて座っている春風が、数メートル先に一人。リビエラも、少し離れた場所に同じように座る。

 彼女は春風を見ない。というより、どちらもお互いを気にしていないかのような距離感が、とても自然だった。

 リビエラは、咲き乱れる花々に視線を落とした。私からの直線上には、ちょうど彼女の横顔が見える。


 降り立ったばかりの春風が、近づいてきた。髪の短い、あどけなさの残る中性的な顔立ち。強烈な夏の日差しとは無縁の白い肌は、この空の霞がなくなれば陽光に溶けてしまうんじゃないかと思えるほど儚く見えた。

 春風はリビエラの前で膝を落とし、顔をのぞき込むような可憐な仕草をした。


(話しかけてる?)


 コルクットが言葉を交わしちゃいけないとしつこく言っていたから、リビエラに限って迂闊に返事をするようなことはないと思う。だけど、春風は何を話しているんだろう?…すっごく気になる。


(もう少し近づけば聞こえるかな…?)


 欲を出した私は、岩をよじ登った。ところが、悲しいかな、なけなしの筋力は華奢な私の身体を支えるにしたって十分とはいえなかった。途端に二の腕と指がプルプルと震え、つりそうになる。


(くぅぅっ!やっぱ無理無理!そうだ、箒に乗って体を浮かせれば…。)


 ごそごそと試行錯誤の末に体勢を整え、再び岩間を覗く。


 私は、口元を押さえて息をのんだ。

 目を離したのは、たかだか数十秒。その間に、リビエラの周りを数人の春風が侍るように取り囲んでいた。

 一人は彼女のマントに頬を摺り寄せ、一人はその手に口づけをし、一人は耳元でささやき、また一人は彼女の頬に優しく風を吹きかけていて、まるで彼女たちは、リビエラの気を引こうとしているかのようだった。そしてその周囲には、花輪が山のようにちりばめられている。


(花輪があんなに沢山…。)


 不自然なほど彼女たちに反応しないリビエラに、嫌な予感がした。

 奇妙な静けさの中に、シュワシュワと異様な音が聞こえる。それはどこからか聞こえてくるというよりも、私の耳の中でこだましているみたいだった。


(甘い匂い…。)


 今度はむせるような芳香が、岩の向こうから漂ってきた。ねっとりとまとわりつく甘さは、不快としか言い表せないほど強烈。


(うぇっ、気分わる…。)


 はりついた湿り気を拭うように、私は自分の首に手を当てた。すると指先に、チリリと刺激が走る。


(痺れ…?)


 気が付いた時には、遅かった。目の前の空気がぐらりと歪んで、春風たちとリビエラが揺れる。

 身体を襲う痺れに、何故かフィアルーの黒妖犬カリガリアンを思い出した。

 煌々と燃える練炭のような二つの目。漆黒のつやのある毛並み。しなやかな体躯と大きな口…。

 身体を乗っ取られたような脱力感は、刻の水底で蛭の毒気を吸い込んだ時と同じだ。きっとあの時のように、全身に力が入らなくなってしまう。


「リビ…。」


 絞りだせたのは、蚊の鳴くような声。

 リビエラの無事を確かめようにも、体が思うように動かない。ハルを振り向いて呼ぼうにも、声が出ない。

 さらに厄介なのは、高熱にうなされているときのように頭がぼうっとすることだ。


(頭がグラグラする…ほ、箒…。)


 瞼が岩のように重くなり、意識が薄れる。私の箒は、その形を消した。

 私は、岩を必死に掴んでいた自分の指が、まるで自分のものじゃないみたいに岩から滑り落ちていくのを見た。


(落ちる…ゴメン…。)


 その言葉は一体だれに対してだったのか、無意識に呟いていた。

 視界が断ち切られるのと同時に、手首のあたりにほんの一瞬、体温を感じた気がした。




 ---------




 ディン・ディンドン 輪になれ春が来る


 ひと編み一つ黄の花

 編み目を数えてひいふうみい

 合わせていいのはリズムだけ


 ふた編み二つ緋の花

 くちなしロンドに甘い蜜

 ほしけりゃ一昨日黙ってな


 みつ編み三つ水の花

 風のさざめき春よ来い

 お前の心はだれのもの


 四つ編み四つよいよい揺れる

 水の怪物ご用心


 ディン・ディンドン 輪になれ春が来る



 歌が聞こえた。リズムに合わせて、やさしい手が私の頭をなでる。


(あったかくて気持ちいい…。)


 なんて平和で心地いいんだろう。

 ずっとこのままでいたい…そう願っていたら、瞼に光を感じた。

 夢の中で現実を感じ始めるときのように、少しずつ意識が戻ってくる。


「やぁ、気がついた?」


 目を開けると、上から私をのぞき込むリビエラの笑顔があった。


「……。」


 既視感。「前にもこんなことがあった」とぼんやり思う。

 私が知っている彼女とこの目に映る彼女は、はたして同一人物だろうか。


「リビエラ…?」


「そうだよ?」


 麗しい微笑に、よく通る声。視線の先にいるのは確かに、さっきまで春風に囲まれていたリビエラ。それでも私は、しばらく沈黙した。

 五感をフル稼働させて、この状況を確認する。

 温かい枕、注がれる視線の角度、彼女の肩の向こうに揺れる葉音、ツンとした土の匂い。そしてここは、ひんやりとした灰色の、薄暗い…洞穴??私は、小さな悲鳴を上げて飛び起きた。


「リビエラの膝枕!ごめん!こっ、ここは?私たちどうなったっ?」


「あはは!なんで謝るの?僕たち、どうやら落ちたみたいだ。」


 リビエラはそういって、愉快そうに上を指さした。


「は?落ちた?」


 私は自分の両の掌をにらみ、次に洞穴の入り口から頭上を見上げた。そこには、薄暗い空がある。

 ここは、どこにでもありそうな山の中。だけど、さっぱり知らない景色。


(ちょっと待って…?)


 まずは落ち着いて、覚えている限りの記憶を巻き戻してみる。


(浮島にいて、甘い匂いがして、身体がしびれて…岩から滑り落ちた…別の浮島に?命拾いしたってこと?)


 死んだとは思いたくないけれど、生きているかどうかの判断もつかない。これは夢?それとも幻覚?私、生きてる?


「おや、雨足が強くなったな。」


 リビエラがふと、洞穴の外に目を向ける。


「雨?何言ってるの、それは滝…。」


 信じられないことに、確かに空からは、間違えようもないほど明瞭に強い雨が降っていた。

 フル稼働させたはずの、自分の五感を疑ってしまう。さっき空を見上げた時は、雨と呼べるものはなかった。


「これは現実?いやでも、この雨は…なんで?」


 私は、両手で頭を抱えた。

 常識的に考えるなら、今現実に、見たこともない景色の中にいるってこと自体が普通におかしい。だけど、ここはリアフェス。浮島から落ちた衝撃で別の空間に移動したとしても、急に雨が降ったとしても、ぜんっぜんあり得ないことじゃない。それだけは分かる。


(とすると、ここはどこ?)


 リビエラの言う通り本当に「落ちた」のだとしても、見る限り浮島はこの空のどこにもない。

 とにかく、早くハルのところへ戻らなきゃならない。思いつくのは、そのことだけだった。


「そうだ、戻らなきゃ。

 今度こそ。」


 リビエラが、雨を見つめて言った。


「そうよね、早く戻らな…って、ちょっと、リビエラ?!」


 私の相槌もお構いなしに、彼女は唐突に洞穴を飛び出した。


「どこに行くのっ?!待っ、おいて行かないで!」


 私は、反射的に彼女を追った。これが夢なのか現実なのか、はっきりとしないまま。

 打ちつける雨に、全身は瞬く間にずぶ濡れになった。この冷たい刺激は、夢?

 山道の泥が跳ね返りを飛ばして、バチャバチャと弾ける。この足の重みも、夢?

 なれない追いかけっこに息が上がるこの苦しさは…これは、白昼夢?

 そんなわけない。根拠もなく否定しながら、夢中で追いかけた。


「待ってよ!どこに行くのっ?」


 私は、リビエラの背中を追った。追いかけなきゃいけない焦燥感があった。そして彼女を追いかけているのと同じように、まるでその背中も、何かを必死に追いかけているみたいだった。


 二つ目の山道を曲がったところで、リビエラを見失った。夢じゃなければ、身体能力のずば抜けた彼女に追いつけるはずがない。

 足を止め、荒い息を吐きながら、続く先を見つめる。

 痛みも苦しさもあるのに、何かがおかしいという感触が、どうしても消えない。ハルならまだしも、洗練された紳士のように優しいリビエラが、こんなふうに私を置き去りにするだろうか。自惚れているのかもしれない。だけど、切ない違和感は、そう簡単には事実を受け入れられない。


「まったくもう!何がどうなってるのよー!」


 空に向かって、悔しいやら悲しいやらの感情を全部丸めて吐き出した。まるで誰かの悲痛な叫びのように雨音は強まり、空に雷鳴が轟く。


 私は髪のリボンをほどき、黒妖犬を作り上げた。

 幸いにも山道は下り一本。諦めずに進めば、まだ追いつけるかもしれない。自分の足で難しいなら、魔法の足で追いかければいいのだ。


「夢だろうが現実だろうが、そんなことはどうだっていいんだわ。」


 私は宣戦布告するみたいに発すると、黒妖犬の背に乗った。



 ---------



「リビエラー!」


 山道を下りながら、リビエラの名を呼んだ。

 激しさを増す雨に紛れて、時々誰かの声がする。私たち以外に人がいないのなら、あれは絶対にリビエラだ。


「…ラ!」「…ラ!」「……エラ!」


 私は、声のする方へと道を外れた。木々の間を抜けていくと、声が次第に近くなる。


「…エラ!マリエラ!僕はここだ!どこにいるの?返事をしてよ!マリエラ!」


 崖沿いの道を、誰かの名を呼びながらさ迷うリビエラを見つけた。子供のように声を張り上げるその姿は、私がこれまでに見たこともないビエラだった。

 私は黒妖犬を消すと、斜面を駆け下りて道に飛び出した。


「リビエラ!」


 声は、雷鳴に搔き消された。


「リビエラ、誰を探してるの?」


 私はもう一度、彼女に話しかけた。


「どこ、どこにいるのマリエラ!」


「ねぇ、落ち着いて、」


 彼女に近づいて手首に触れた途端、


「どこだ?!」


「きゃっ。」


 リビエラが振りほどいた勢いに弾かれ、私は道に叩きつけられた。

 拒絶されたことよりも、別人のように感情を昂らせた彼女に動揺する自分がいる。


「マリエラ、僕はここにいる、マリエラ!」


 リビエラが叫んだ。

 輝きを失った琥珀色の瞳は虚空に漂い、そこに私の姿は映ってもいない。

 ただひたすら、上空の轟きがうなりをあげる度に、「僕はここにいる」と狂ったように叫んで「マリエラ」を探し回る。

 その「マリエラ」が誰なのか、私にはわからなかった。


 私は立ち上がり、リビエラを追いかけた。

 灰色の空から、バキバキと枝の折れる音がする。


「あっ。」


 不意に大地がぐらりと大きく揺れ、水を跳ねて転んだ。

 手と顔についた泥土が、春先とは思えないほど生温かい。


「うえっ…ぺっ。」


 泥を吐き出して、嫌な記憶がよみがえった。この生ぬるさ、唾液にまみれたヌシの舌にからめとられた時と同じだ。

 いつだったか、ハルと迷宮(メイズ)に迷い込んだ。


 仕留めたヌシの口から出てきた、血と体液にまみれたハル。あの時は、赤の玉を手に入れたとたん、全てが掻き消えて元に戻った。

 砂の大地にみた陽炎と熱気も、銀水晶の森と抜け落ちた地面も、溺れそうになった水の魔法陣も、全ては術式から作り出された世界。ここはまるで、あの虚構に似ている。


 降り続く雨に、鳴りやまない雷鳴。灰色の空から、また、バキバキと枝が折れる音がする。

 この光景が永遠に続きそうな気がして、恐ろしくなった。


(リビエラを正気に戻さなきゃ。)


 私は立ち上がった。

 泥水まみれの妖精の服はすっかり土色になって、したたたる髪の毛はジャリジャリする。

 顔についた泥を拭い、ふらふらと坂道を上るリビエラの背中を見つけた。その先は、道が見えない。


 地面が、ぐらりと大きく揺れた。


「っとと!」


 ほんの少しバランスを崩し、身体が揺らめく。

 とその瞬間、誰かの声が短く響いた気がした。


「ハルっ?」


(なわけないか…。)


 ハルが助けに来てくれると期待しているなんて、私の頭はお花畑すぎる。


 バチバチバチッ


「きゃっ!」


 さっきよりも大きな枝の折れる音がして、咄嗟にしゃがみこんだ。


 ポトンっ


「なっ、サンダル?!」


 なんで目の前にこんなものが落ちてきたのか、もはや意味がわからない。

 私は機械的にそれを拾い上げると、リビエラを追った。

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